天皇陛下におすがりするしかない。そうした赤誠の思いがあってのことであれば、私は批判するつもりはない。しかし、人気取りのために政治的に天皇陛下を利用しようとしたパフォーマンスであれば、断じて許すことはできない。参議院議員の山本太郎が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した。山本は深々と頭は下げたものの、なぜか演技として行ったような気がしてならない。そこまでするのであれば、なぜ中核派の支援を受けて国政選挙に出たのだろう。天皇陛下を真っ向から否定する者たちと一緒に政治活動をしながら、天皇陛下におすがりするというのは、論理的に矛盾している。天皇陛下は即座にお付きの者に手渡された。憲法上のこともあって、将来に禍根を残さないようにされたのだろう。天皇の存在について三島由紀夫は『「変革の思想」とは』で鋭く斬り込んでいる。三島は「私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に分かれ、後者が前者に影のごとく揺曳しているのが現代の日本である」と述べるとともに、「祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ根を見いだし、真のエロティズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの首長が天皇なのである」と書いている。祭祀的国家の中心である天皇陛下への恋闕の情が山本にあるかどうかなのである。不敬かどうかはそれで決まるのだから。
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