日本もポピュリズムに蝕まれているとよく言われるが、ヨーロッパ以上に深刻になってきているようだ。大嶽秀夫は『日本型ポピュリズム』のなかで、ポピュリズムの定義をしている。「ポピュリズムとは、普通の人々とエリート、善玉と悪玉、味方と敵の二元論を前提として、リーダーが普通の人々の一員であることを強調すると同時に、普通の人々の側に立って彼らをリードし、敵に向かって戦いを挑むヒーローの役割を演じてみせる、劇場型政治スタイルである」と書いている。昨今の日本でも、みんなの党の渡辺喜美代表などは、見事にその役をこなしていないか。エリートはイコール官僚であり、国民にとっては許すべからざる存在であると糾弾し、攻撃のターゲットとしたからだ。フランスの国民戦線のルペン党首は、既存の政治に関係するエリート層をシステム側と位置づけ、民衆はその犠牲となっていると訴えたのだった。だからこそ、極右といわれながらも、一定程度の支持を獲得したのである。自民党も民主党も、大嶽が述べているようなポピュリズムとはほど遠い。人気投票のレベルにとどまっているからだ。これから登場するのが、本当の意味での真打なのではなかろうか。朝日新聞記者の国末憲人は、フランス社会を論じながら、「民主主義なき民衆は、民主主義を逆手にとって、民衆なき民主主義に復讐しているのかもしれない」(『ポピュリズムに蝕まれるフランス』)との見方を示した。学者やジャーナリストが口にする民主主義は、民衆の考えを代弁していないというので、エリートでない者たちが、フランスでは異議申し立てをしているのである。そのエネルギーを爆発させることで、ポピュリズムは大きな力を手にするのである。国末は、国民戦線と自民党の右派を同レベルに置いているが、自民党は官僚に支えられたエリートの党であり、それはルベラルなインテリに支えられた民主党と大差はない。どちらもシステム側なのである。そうでなくて、民衆の先頭に立つのは、もっと別な政治勢力ではなかろうか。政治を思いのままに操ってきた者たちへの批判の声は、日本の国内にも充満しており、それを爆発させるのがポピュリズムなのである。革命というよりも、それは下克上という言葉があてはまるのではなかろうか。
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