草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

今求められるのは自由諸国民の団結だ

2022年11月30日 | 思想家

 私たちが自由を守り抜くためには自由諸国民が団結しなくてはなりません。改めてヤスパースの語った言葉を思い出します。カール・ヤスパースの『根源的に問う 哲学対話集<ハンス・ザーナー編>』(武藤光朗・赤羽竜夫訳)に収録された、武藤光朗との対話「人間の自由の未来のために」を読み返しています。雑『自由』昭和三十七年一月号に掲載されたものです。
 ヤスパースは、ロシアと中国に対抗して、自由緒国民の結束を訴えたのです。東アジアが危機的な状況を迎えているからこそ、なおさら説得力のある言葉ではないかと思います。唯一そこに日本が含まれてゐるのが、重要な役割を担っているからなのです。
「自由諸国民の共同体とは、北米、ヨーロッパ諸国及び、日本であって、今のところそれ以外にはありません。私はインドを自由諸国民に数えるわけにはいきません。インドはきわめて動揺する姿を見せていますし、国内が安定していません。ですから、内にしっかりした力をそなえている真に自由な国民は、繰り返して申しますが、北米とヨーロッパ諸国と日本だけです。これらの国は、おたがいにたよりにできることがわかるように団結しなければならない。こうした連帯性は、もっとも強力な国を進んで指導的な国と認め、自由にかかわるような紛争の場合には、自国の国家的要求をひっこめ、また、かりに別のことをのぞんでいても、それらをあきらめて、その指導的な国に従う覚悟をもってはじめて、事実上可能となるのです」
 ヤスパースの方針は間違ってはいませんでした。恐怖政治が中露全体に吹き荒れ、台湾までもその影響下には入ろうとしているからです。自由緒国民の陣営に与することでしか、自由であり続けることはできないし、抑圧された人たちの解放にも結びつかないのですから。NATOに日本が参加することも、今後検討されるべきではないかと思います。

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習近平独裁の中国の崩壊は回避できない

2022年11月29日 | 国際問題
 中国がどうなるかを世界が注目しているが、予想されているよりも、習近平の権力は強くないように思えてならない。『三国志』を読むと分かる通り、魏蜀呉がそれなりに隆盛を誇ったのは、トップだけの力ではなかった。
 劉備には諸葛孔明が、曹操には司馬仲達が、孫権には魯粛や周瑜がいたのである。それぞれが重きを置かれて、意見を具申することができた。それ以外にも多くの者たちの名前が残されているのである。
 ところがどうだろう。習近平には、そうした側近がおらず、太子党人脈のイエスマンばかりを集めているといわれる。裸の王様ではないだろうか。
 独裁者として偶像崇拝の対象になった毛沢東にしても、最終的には集団指導体制の枠から出ることはなかった。周恩来や鄧小平を抜きにしては毛沢東を語ることができないからだ。さらに、毛沢東にカリスマ性があったことも否定できない。習近平にそれがあるかどうかは疑問である。マルクスの言葉を借りるまでもなく、毛沢東は悲劇であったが、習近平となると、もはや茶番の域なのである。
 いかに武装した人民解放軍や警察に支えられても、監視制度を強化して民衆を弾圧しても、それは一時しのぎのことに過ぎない。近代化に歩を進めた中国の民衆は、誰よりも全体主義の非効率性に気づいているはずだ。
 遅くはない時期に中国共産党は崩壊する。そのときにアジアは、新たな挑戦に向かうことになるだろう。覇道ではなく、王道による自由アジアの建設である。そこまでも道のりはどうなるかは見当が付かない。しかし、ようやくその胎動が始まったのではないだろうか。世界はアジアを必要としている。共産主義ではない、平和なもっと別な価値観のアジアを。そこで日本が果たすべき役割は大きいのであり、ある意味では我が民族に課せられた世界史的な使命なのである。
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独裁中国の崩壊と電通支配の終焉

2022年11月28日 | マスコミ評
 中国が大変なことになり、国内では電通や博報堂の汚職が摘発されているという大変な時に、国会では秋葉復興大臣のなりすましや、旧統一教会のことで騒いでいる。そのような議論をしているときなのだろうか。
 共産党などは選挙前から本人の名前が入ったタスキをかけているのは、あれは違反ではないのだろうか。旧統一教会に関しては、立憲はそればかりを追及しているが、自分たちの同僚議員に付いてはあまりにも寛大ではないだろうか。しかも、信教の自由や財産権の行使といった憲法上の問題を無視して、魔女狩りに加担しているだけではないだろうか。
 それ以上に、中国での民衆の蜂起は、自由と人権を求めての者であり、多くの若者が立ち上がっているのだ。一度自由の空気の触れた若者たちは、独裁権力を断じて許すわけはないのである。
 ソ連や中国の共産主義は、西側の社会主義者が思い描いた理想とは異なっていた。民主的手続きは無視され、レーニン主義的共産党の独裁を正当化しているからだ。その流れを汲む日本共産党、社会民主党、れいわも、党内民主主義などない。日本共産党は不破哲三による独裁が続いているから、志位委員長の在任期間が20年を超えているのである。
 電通や博報堂の大手代理店が、これまで日本マスコミ界を支配してきた。大手スポンサーから仕事を受注した電通・博報堂は、広告を流す場合にも、圧倒的な力を持っていた。キー局からその系列局まで、電通・博報堂様々であった。今回、いよいよ司直の手が入ったことで、媒体と大手広告代理店の闇にも踏み込むべきだろう。そうすれば、テレビ離れはさらに加速することになるだろう。
 中国では独裁体制が崩壊し、日本では、電通などによる歪んだクリエイティブ部門が解体されることは、未来に向けての大きな一歩になるはずである。私たちは今、その歴史的な瞬間に立ち会おうとしているのである。
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ワクチンをめぐってネットで騒ぎ

2022年11月27日 | 感染症
 新型コロナのワクチン接種をめぐって、ネット上では大騒ぎになっています。国だけではなく、マスコミも結託してキャンペーンを張ったわけですから、それによって亡くなった人の数や、後遺症で悩んでいる人の数は、国が正確に把握して公表すべきです。その責任は明確にされなければなりません。これまでは、ネットでワクチンに疑問を呈すると、但し書きがアップされるようになっていました。つまり、ネット空間そのものもワクチン派が掌握していたのです。
 この世に完全なものはありません。医学の進歩にしても、試行錯誤の連続なのです。日清、日露戦争に従軍した陸軍の日本兵が3万人以上も脚気で死亡したというのは、あまりにも有名な話です。
 限られた情報のなかで、私たちは、各々が判断するしかありませんが、目下話題になっているのが、超過死亡率の増加です。その要因としては「長期の自粛に寄り持病を悪化させた高齢者が多かった」「ワクチンの接種による」という二つの見方が有力です。もし後者が事実であれば大変なことです。
 私たちが知りたいのは、世界的にみても、当初は感染者数が少なかったにもかかわらず、世界のトップを行くほどにワクチンを打っているにもかかわらず、未だに感染の波が収まらないことです。
 国もマスコミも、真実を伝えるべきだと思います。最終的には、私たち一人ひとりが決定することであるからです。
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三島由紀夫の檄文は今の日本の悲劇を予言していた

2022年11月25日 | 自衛隊
 こんな日本になってしまったと嘆くのは自由である。しかし、事の本質を言い当てている言論がどこにもないのが嘆かわしい。中露や北朝鮮の侵略が差し迫っているとして、一体誰が祖国日本を守るのだろうか。
 自衛隊があっても、交戦権なき軍隊であり、警察権力と大差がない。内閣総理大臣の命令で行動を起こすわけでないのである。アメリカ依存の安全保障政策によって、日本は永久に腑抜けになってしまったのだ。三島由紀夫と森田必勝が自刃した昭和45年11月25日、三島は市ヶ谷壇上で訴えたではないか。
「ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。」
 しかし、自衛隊は蹶起しなかったばかりか、自主憲法制定を国是としている自民党は、三島を狂人扱いにした。今起ころうとしていることは、あまりにも皮肉ではないか。アメリカの傭兵から脱却できない武装集団が、どうして日本の国土を防衛できるだろうか。アメリカ軍の手先となって、夥しい犠牲を被るだけではないか。
 台湾有事になった場合には、自衛隊はアメリカ軍の駒として利用されるのだ。主体的に防衛の任務を確立してこなかった国家のツケは、あまりにも悲劇的である。アメリカ軍は後方に退いて、侵略者と正面で戦うのは自衛隊なのである。
 いかなる逆境にあろとうとも、自衛隊の諸君は身を挺して戦うだろう。残念ながら、死ねと命じるのは、日本の歴史と伝統と文化ではなく、欧米流の戦争の道具に利用されるのである。「憲法を守る軍隊になった」という時点で、自衛隊は本来の存在意義を失ったのである。
 残された時間はない。今のままで戦うしかない。三島を嘲った者たちが、こんな日本にしてしまったのだ。もはや恨んでも始まらない。危機をどう乗り切るかなのである。国民の命をどう守り、国土を戦場にしないかなのである。
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熱狂的な法悦状態の日本人には正論は通じない

2022年11月24日 | 祖国日本を救う運動
 大衆迎合主義に舵を切って、我が国にいいことがあるのだろうか。憲法上認められている財産権の行使にまで干渉するようでは、大混乱をするだけではないだろうか。
 そんなことをすれば、収拾が付かなくなるのは誰の目にも明らかである。親が取得した財産は、子供のものだという決めつけは、一体何を根拠にするのだろう。資本主義という制度は、勝ち組と負け組があり、勝算があると思って事業を展開したのに、実際には裏目に出る場合もある。そのときに、親は子供に対して責任を負うのだろうか。
 創意工夫を重んじて、様々なイノベーションを達成していくから資本主義なのであり、全体主義的な計画経済とは様相を異にするのである。
 勝ちも負けも許されない。そんな社会のどこに進歩があるのだろう。理不尽なまでに財産を宗教団体につぎ込むことについては、常識の範囲というコモンセンスがあればいいのであって、法的に縛るというのはとんでもない暴挙である。
 唯一神とは無関係な日本人は、ありふれた常識論で宗教を語ろうとする。信仰を金で買うという免罪符などを理解することは、とうでいてきないのである。
 それにしても今の事態はあまりにも異常である。安倍さんを「殺害した」とされるテロリストが語ったと言われることが独り歩きしてしまったのである。イザヤ・ベンダサン(山本七平訳)の『日本教について』で書かれれていることが、またもや繰り返されているのだ。
「『語られた事実』が『事実』とされ、それが次から次へと重なるたびに事実から遊離し、最終的には言葉がついに『音』『声』『リズム』に分解して、言葉として機能しなくなる。そしてそこが、その限界です。これが私が前に申しました『止め』で、ここで一切の言葉はなくなり、人々はリズムと掛声だけによる行動に移ります」。
 そうした熱狂的な法悦状態に入ってしまっているのが、愚かな日本人なのである。まさしく思考停止状態である。テロストの口にしたとされる言葉も、あくまでも間接的な伝言ゲームでしかないのに、魔女狩りに使われ、日本の政治が迷走を続けているのだ。
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最優先すべきは国民の命を守り国土を戦場にしないことだ

2022年11月23日 | 安全保障
 いくらマスコミがケチを付けても、防衛力増強を望む国民の声は大きくなるばかりだ。政治とカネの問題とか、宗教と政治の問題とかを無視しろとはいわないが、安全保障上の危機を国民の多くは肌で感じているのだ。このままでは日本が戦場になると。ウクライナの現実を目の当たりにすれば、当然のことである。
 今何よりも優先されるべきは、国民の命を守れるかどうかなのである。防衛力の予算を減らすことで、戦争になるよりは、他から回しても防衛力を充実すべきだというのは、至極まっとうな意見である。
「反撃能力」についても、大方の国民は理解を示している。やられたらやり返す力がなければ、抑止力にはならないからだ。赤旗に呼応するかのようにマスコミは、大臣の首を取ろうと必死である。定員より多くのパーティ券をさばいたというのは、与野党通じて普通に行われていることだ。そこまで騒ぐのであれば、ブーメランが返ってくるだけなのである。
 戦後レジームに固執する勢力は、スキャンダルと旧統一教会のことで反撃しようと血眼になっている。しかし、何が大事かと言えば、やはり国民の命ではないだろうか。それを国民が理解するのを阻止しようとしているのだマスコミである。自分たちの立場がなくなっていることに、ようやく気付き始めたのである。
 日本が強い国家になるというのは、避けてはならない現実であり、世界がそれを望むようになる日も近いのである。私たちは、その責任から逃げることはできないのであり、覚悟を持つしかないのである。
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禍を転じて今こそ挙国一致内閣を

2022年11月21日 | 政局
 寺田総務大臣までもが更迭されると、これでドミノが続けば、岸田首相の政権運営も難しくなるとみられるが、後任に松本剛明元外相を当てたことは評価されるべきだ。もはやこれまでの自民党では人材が枯渇していた。
 悪名高い民主党政権の一翼を担ったとはいえ、政治をきちんと語られる人間が、前面に出てくるべきなのである。禍を転じて福としなければならない。細野豪志元環境相にしても、安全保障や経済の面での政策提言は、目を見張るものがある。
 さらに、自民党になったわけではないが、玉木雄一郎国民民主党代表の発言も、積極財政派でまともな保守の代弁をしている。岸田後の総理総裁を考えると、自民党内の論功行賞等を重視するのではなく、国家と国民に向かって、言葉で説得する強いリーダーシップが求められるのである。
 人事をやりたいと口にしていた岸田首相は、宏池会と言っ派閥次元で物事を判断すべきではない。何度でも言う挙国一致内閣こそが待望されているのだ。高市早苗防衛相、細野外務相、玉木財務相という内閣を立ち上げ、日本の危機を回避すべきなのである。
 自民党内で河野太郎デジタル担当相が岸田首相の後継に名前が挙がっているが、親中派としての疑惑が取り沙汰されている。自民党や宏池会のために政治があるのではなく、国家国民のためであることを、岸田首相は肝に銘じるべきなのである。
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ちょっとした風邪でも診てもえらえない今の医療

2022年11月12日 | 医学

 オミクロンにかかったのだろうか。久しぶりに熱が出て、午前中は安静にしている。もともと扁桃腺があるから、高熱には驚かないが、今回は少しばかり気になる。大体3日くらいで峠を越すと言われるが、年齢的なハンディもあるので。あまり甘く見ることはできない。人とはできるだけ会わないようにして、一足早く冬ごもりである。
 普通の風邪で騒ぐほどではない、と言っていた手前、慌てず騒がず対応するしかない。国が早く5類にしてくれれば、どこでも診療してくれるのに、未だに2類であるために、手間がかかって仕方がない。
 政治が優柔不断であるために、色々な面でしわ寄せが出てくるのだ。この問題一つをとってみても、岸田首相はさっさと総理の座からおりるべきなのである。    どこの医院の受付にも「咳や熱がある人は申し出てください」という貼り紙がしてある。つまり病人を拒否しているのだ。風邪にかかっても、診察以前にPCR検査なのである。オミクロンだと、普通は1週間程度で治ってしまう。大騒ぎするのが間違っているのだ。インフルエンザと同じように、各医院でもPCR検査が出来るようにすればいいのだ。
 そんななかで萩の山本貞寿医師は立派である。新型コロナの患者を率先して診察しているからだ。大病院でもないのに、すでに300人以上を治療している。患者を門前払いしないのである。戦後の一時期、結核の患者をたくさん診たこともあり、苦にしていないのである。それが本来の医師の姿ではないだろうか。 若い人などは、医院にかかるのは、せいぜい風邪をひいたときと相場が決まっている。にもかかわらず現状では、発熱外来がある医療機関でPCR検査をしなければ、風邪薬ももらえないのである。どうかしている。
 政府が対策強化宣言を新設、若者への外出自粛要請を可能にするのだという。何を考えているのか理解できない。ようやく「全国旅行支援」などで日本の経済が回ってくると思ったらば、ここにきて急ブレーキを踏むというのは、一貫性がなく支離滅裂ではないか。注意すべきは高齢者であり、若者まで含める必要はないだろう。冬になれば新型コロナが流行するというのは予想されることだ。どこの医院でも検査ができ、治療ができるようにすればいいわけで、インフルエンザと同じ扱いにすべきだろう。重症者のベットを地域ごとに確保して置けばいいのであって、先に先に進まなくてはならないのである。

 
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常識が通用しないマスコミ報道を嗤う

2022年11月11日 | マスコミ評
 多くのマスコミが報道しない自由によって言論空間をゆがめている。中国のスパイと特定されている女性と自民党の参議院議員がベッタリであっても、それを伝えるのは、週刊誌とネットだけである。
 台湾侵略を公言し、沖縄を自分の領土だと主張する国家のお先棒を担ぐ政治家を、どうして批判し政治問題化しないのだろう。特定の国を危険視するというのは差別だとか言って、レッテルを貼るような言論がまかり通っているのだ。普通の常識など通用しないのである。
 そもそも政治というのは、党派的プロパガンダとは無縁である。アリストテレスは政治について、実践の学と明確に位置付けている。
 藤原保信は『政治理論のパラダイム転換』において、アリストテレスが政治をどう考えていたかを紹介しており、大いに参考になる。
「政治学が対象とする立派な善き行為は、きわめて多様で流動的な意見からなっているので、それらは自然によってではなく人為によってのみ存在しうると考えられるほどである。そして善もまた、多くの人に害悪をもたらすこともあるがゆえに、同じような流動性を含んでいる。‥‥それゆえわれわれは、そのような主題について語るにあたっては、ほぼ大体において真理であるような前提から出発し、おおよそにおいてのみ真理であるのを語り、そのような前提からそれよりは善きものがないだけの結論に到達するならば、それで満足しなければならない、それゆえ、それぞれの議論を受け取る側も、同じような態度で臨むべきである」
 よりかいつまんで言うと、伝統によって培われたコモンセンスによって、よりベターな選択をするのが政治であるというのだ。知識があるかないかではなく、賢明な考え方を重視するかどうかなのである。
 死者を貶めるとか、魔女狩りのような騒ぎに加担するというのは、コモンセンスから逸脱している。私たちが首を傾げたくなるような言論は、実践知としての政治とは無関係であり、論じるにも値しないのである。
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