この先の世界がどうなるかまったく見当が付かない。それだけに、中野豪志がロイターのインタビューに答えて「コロナ後の日本の生き残りの鍵は社会主義化」と言い切ったのは衝撃的であった▼武漢発の新型コロナウイルスのバッデミックは、多く死者をもたらしたにとどまらず、世界恐慌の様相を呈してきた。日本が危機を乗り切る処方箋として、中野は「国内総生産のGDPの5割を超える財政出動」と「重要産業に資本投下を注入する措置が求められる」との見方を示したのである。さらに、感染拡大期が遅れたことは日本にとって禍であり、先に経済活動を再開した中韓に市場を奪われるというのだ▼社会主義的な方向に舵を切るというのは、例外的な状況下では選択肢の一つである。それを頭から否定するつもりはないが、人為的な介入がどこまで有効かは疑問である。社会主義化によって自由が奪われないかという危惧もある。1929年にウォール街に発した世界恐慌の解決策のために、世界の多くが全体主義国家となった。それと同じ選択肢しか残されていないのだろうか▼あらゆる形態の社会主義は「人間の隷属化の道」として批判したのがハイエクであった。その立場からの中野への反論に注目したいと思う。どちらが正しかを私たち国民が判断するためにも、経済思想をめぐる議論を避けてはならないのである。
安倍首相が昨日の衆議院予算委員会で述べたことは、偽らざる今の心境ではないだろうか。「大恐慌の時よりも精神的には厳しい状況になっている」と語ったからだ。経済活動を重視すれば、武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐことはできない。景気対策にしても、タイミングがあり、今はじっと耐えるしかないからである▼立憲民主党の大串博士などは、そうした現実を直視することなく、またまた布マスク2枚で嫌がらせである。「息苦しい」と酷評するパフォーマンスをして、中止することを要求したのである。今回の緊急事態を党利党略に利用するというのは、あまりにも愚かである。政党支持率が低迷して当然である▼世界中がパンデミックに振り回されている。ほとんどの国がロックダウンをしたにもかかわらず、効果のほどは十全ではない。それでも徐々に経済活動の再開にチェンジしょうとしている。そんな中で政府がどのような選択をするかが注目されているのだ。何度も取り上げてきたが、永井陽之助が主張していたように、抜本的な解決策はないわけだから、日々「摩擦を少なくすること」を心がけて対処するしかないと思う▼どれだけ我が国が善戦したかを示すのは、死者の数であるから、命を救うために全力を傾注するしかない。その一方で、個人の暮らしや企業の継続を支援する措置を大々的に行わなくてはならない。後ニ、三カ月はじっと耐えるしかないのである。
日本も武漢発の新型コロナウイルスとの戦争をしているのである。勝ち抜くためにはあらゆる手段を講じなくてはならない。日本銀行が昨日、国債をいくらでも買い入れることを決定したほか、中小・零細事業者をはじめとした企業の資金繰りの対応のために、コマーシャルペーパーや社債の買い入れの増額、企業金融支援措置などを決めた▼国債買い入れの「80兆円めど」の撤廃や社債購入枠を3倍にする意味は大きい。日本国内の経済活動を継続させるには、潤沢な資金を隅々にまで行き渡らせなくてはならない。政府が自粛を要請していることで、人の動きが少なくなった分だけ、経済には悪影響が出ている。それを最小限にするには、カンフル剤を何本か打たなくてはならないのである▼政府は日銀と歩調を合わせ、国民や企業が生き残っていけるような施策を断行すべきだ。国民への現金給付にしても、状況次第では何度も実行すべきだろう。さらに、企業の救済策は手続きを簡素化して、スピードアップを図るべきである▼市場原理が通用するのは平時においてである。今のような非常時においては、国家が前面に出ざるを得ない。それこそ百年に一度あるかないかの危機である。優柔不断であることは許されない。国民の顔色うかがって、政治的な延命を優先させてはならない。安倍首相がたとえ政権の座を失うことになっても、やるべきことをやるのが本当の政治なのである。
私たちは難しい問題に直面しているような気がしてならない。他者との交流の場に出て行く道が狭まっているように思えてならない。主義主張が違う者同士の間で、議論が成立することが難しくなってきているからだ。日々もたらされる情報の多さに耐えかねて、ついつい私たちは「フィルタリング」をしがちなのである▼新型コロナウイルス対策の布マスクの問題もそうであった。政府の説明不足があったとはいえ、誰しもが考える政策であったにもかかわらず、一部の国民から不評を買ったのだった。不良品が出たことを批判するのは当然だが、配布自体に難癖を付けるのは行き過ぎであった。マスコミが倒閣に利用するために、勝手に「フィルタリング」をかけて、テレビや新聞しか見ない人を煽るというのは、あまりにも常軌を逸している▼考えが違う自分以外の他者がいることで、かえって私たちは自由を手にするのである。齋藤純一は『自由』において「受動的に他者に曝されてあるという条件が、そのつど何かである私に、その何か(自己同一性)から逸れていく『運動の自由』を与えているのである」と書いている。他者に心動かされる自分が存在するということが、まさしく自由にほかならないのである。罵り合いからは何も生まれない。私たち自由であるためにも、自分以外の他者を尊重すべきなのである。
リベラルで傾聴に値する主張をしているのは東浩紀である。今回の新型コロナウイルスをめぐっては、スタンドプレイをする政治家が後を絶たないし、マスコミをそればかり報道している。これでは経済や社会が壊れてしまう危険性がある。それを東は正面切って論じているからだ▼ここ数日の傾向として日本の感染者数は鈍化傾向にある。楽観的な状況になったとは速断はできないが、潮目が変わってきているような気がしてならない。人と人との接触を減らすという戦略が功を奏しているのだろうが、今後も第二波、第三波が予想され、そのたびにどうすべきかを問われることになるだろう▼東の昨日のツイートは核心を突いている。「ひとことでいえば、ぼくは一貫して、ウイルスとはどうせ共存するしかないのだから、犠牲の少ない共存方法を考えようぜ派です。ウイルスに『打ち勝つ』とか、バカかと思う。人類にそんな力はない」。実際に特効薬もなく、ワクチンも開発されていない。免疫があるかどうかが全てであり、早期に患者を見つけても、手の施しようはほとんどないのである▼あれだけ全力で立ち向かったアメリカですら、勝つことはできなかったのだ。かえって生温い対応をしている今の政府の対応がベターなのかもしれない。勝ち負けではなくて、東が言うように、共存していくことも考えなくてはならないのである。
世界的な傾向かもしれないが、ジャーナリズムの権威が失墜している。今回の武漢発新型コロナの報道でも、不安感を煽るだけである。佐伯啓思は『戦後民主主義の病理』で、デモクラシーにおいて強大な権力を行使するマスメディアの問題点を指摘した▼「世界についての情報、世界についての映像、世界についてのイメージを動かすことができるマスメディア」を抜きには、デモクラシーを語ることはできないからだ。誰もが知らない世界を切り取り、簡略化し、討論可能のような形に変形するのがジャーナリズムの仕事なのである。佐伯は「学者、ジャーナリストに限らずに、われわれの認識は、決して中立などありえず、結局、われわれは、常に自分が見たいように世界を見、あるいはそうでなくとも、大衆が望むように世界を見、切り取るものだからである」と書いている▼私たちは、マスメディアによって差し出された情報や事実を鵜呑みにするのではなく、それを疑ってかかる必要があるのだ。討論可能な形にするには、さまざまな分野での専門家や評論家の役割も大きいが、佐伯によればそれも弱体化しているというのだ。デモクラシーが機能するには、建設的な議論の場が不可欠である。右を左も、そうした知識層が育ってきていないのが我が国の不幸なのである。
中共のお先棒を担いでいる人たちが日本の分断を策している。武漢発の新型コロナウイルスが世界を恐怖のどん底に突き落としているのは、習近平ら中国共産党執行部が初期の段階で情報を公開しなかったからである。人と人との感染が起きていないと世界中が思ってしまったのは、真実が伝えられなかったからであり、そこにWHOが加担したことで、どこの国も甘く考えてしまったのである▼中共は表向き共産主義国家を名乗っているが、実際は全体主義テロ国家でしかなく、多くの人民を鉄鎖に繋ぎ抑圧しているのである。「完璧な共産主義は完全な民主主義的自由のもとで可能である」と述べたのはローザ・ルクセンブルクであった。あくまでも集会の自由や言論の自由が前提とされていたのである。彼女は「民衆を締め出し、エリートの労働者を招集して、拍手と同意によって基盤を固めようとするレーニン主義」を厳しく糾弾したのである▼中共を擁護するというのは、レーニン主義に屈服することにほかならない。ウイグルやチベットでのジェノサイドはナチスが行ったことと大差がない。暴力によって香港や台湾の政治的自由をも奪おうとしているのだ。全体主義テロ国家に対して、自由と民主主義の国家は結束しなければならないが、私たち日本国民もまた結束しなければならないのである。
武漢発の新型コロナウイルスに世界中が振り回されている。これまでは危機に直面すれば日本人は結束するのが常であったが、今回ばかりは違っていた。政府に協力するという団結力が乏しくなってしまったように思える。日本における内なる敵が頭をもたげてきているからだ▼エリック・ホッファーは「現在、各国は外敵よりも内部の敵に脅かされていると一般的に言われている。だが、一般に認められた内部の敵への対処法といったものはない。外敵が平和を乱せば戦争状態となり、自動的に軍事力が動員される。しかし、内部の敵が爆破や殺傷によって国内の生活を混乱させても、緊急事態とはならない。裁判所は機械的に判決を出しつづけ、警官たちは日常業務にしがみつき、大多数は沈黙を守る」(『安息日の前に』中本義彦訳)と書いている▼日本国内で爆破事件が起きているわけではないが、分断を策する者たちは激しい憎悪を政府に浴びせている。必死になって舵取りをしている者たちを罵るのは、あまりにも異常である。背後に中共がいるのは明らかである。内なる敵に対する組織的な防衛をする手段が今の政府にはない。私たちができるだけ結束して日本を守り抜かなければならない。もう一つの深刻な危機を迎えていることを私たちは自覚すべきなのである。
いくら政府が国民に協力を求めても、一筋縄にいかないのは、今も昔も変わらない。武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するために、人との接触を減らせといくら宣伝しても、それぞれ生活があるわけで、まずはその辺を調整すべきなのである▼谷沢永一が『大国日本の「正体」』で大岡越前守の苦労話を取り上げている。大岡越前は、江戸を火事から守るために、板葺きから瓦葺きにしたいと考えた。そこで「江戸の町は火事が多い。それを不燃性にするためには瓦屋根にすべきである。ようてさよう心得よ」とのお触れを出した。しかし、それだけでは誰も振り向かない▼大岡越前が偉いのは、町人代表を奉行所に呼び出して説得を試みたことだ。簡単には納得してくれない。「瓦葺きにすると柱を太くしなければならない。その分だけ建築費が嵩む、だからいやだ」と駄々をこねる。それでも懲りずに、何回も呼び出して膝詰め談判をした。地域を限定するとか、片面だけにするという妥協案を示して、ようやくそれを実現させたのである▼安倍首相が出した緊急事態宣言がもう一つパッとしないのは、現代の大岡越前がいないからなのである。もともと国民は強情であり、いくら正しいことであっても、経済的条件で折り合いを付ける努力を怠っては先に進まない。落としどころを見つけられない政治では、国民にそっぽを向かれてしまうのである。
今起きていることだって、私たちは全体像を鳥瞰できるわけではない。あくまでも一部分の情報に接しているだけであり、目の前の危機である新型コロナウイルスの対策にしても、どれが絶対かは誰にも分からない。あれほどまでに万全と思われた欧米がパンデックの中心地になろうとは、夢想だにしなかったことである▼日本の現状がどうかといえば、死亡者数でいえばかなり善戦している。忍耐強い国民性のゆえに、これまではじっと我慢をしてきたからだ。一部にはピークを過ぎたの見方もあるが、実際どうなっているかは見当が付かない▼福田恆存が「乃木将軍とと旅順攻略戦」で「近頃、小説の形を借りた歴史読物が流行し、それが俗受けしているゐる様だが、それらはすべて今日の目から結果論であるばかりでなく善悪黒白を一方的に断定してゐるものが多い。が、これほど危険な事はない」と書いていた▼現在から過去を論じことは容易いが、現在の「見える目」で裁いてはならないというのだ。司馬遼太郎らが乃木希典を無能呼ばわりすることに、福田は反論したのである。「日本海大海鮮におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥。秋山参謀愚将論であらう。が、当事者はすべて博打をうつてゐたのである。丁と出るか半と出るかは一寸先闇であった」ことを重視するのだ。「見えぬ目」で決断をしなければならないのだから、いつの時代もトップに立つ者は孤独なのである。安倍首相にその覚悟があるかどうかなのである。