会津人である私には、薩摩の歴史に触れる機会はあまりないが、影山正治の『大西郷の精神』によって、少しだけ理解が深まった。そして、薩摩が明治維新で活躍することができた背景には、調所笑左衛門廣郷の力によるところが大きいのを知った。薩摩とて盤石であったわけではない。調所が世に出るようになったのは、藩債が500万両に達したからであった。参勤交代の費用の増大、宝暦年間の木曽治水工事の出費、藩主島津重豪の浪費、農民の疲弊、役人の不正などが理由に挙げられている。重豪から拝命を受けるにあたって、調所が出したのは「一切を一任の上主君と自分のみの間で万事を処理すること」「将来自分の運営に反対者が現れた場合には一々御前裁判で裁断されたいこと」「万一失敗するか不都合を働いた場合には切腹してお詫申上ぐる故特に短刀一本を下賜されたきこと」の三ケ條であった。最初から泥をかぶるつもりであったのだ。国産の砂糖を抵当として藩債を発行したり、密貿易をしたりで、20年かけて逆に50万両を積立するにいたった。しかし、それは同時に悪名が広まることであり、密貿易に対する幕府の手が入る直前の嘉永元年12月、江戸の薩摩藩邸で、それこそ重豪より下賜された短刀で、従容として自刃したのである。現在の日本には、調所のような政治家が求められているのではないか。綺麗ごとではなく、身を捨てる覚悟のある政治家が、一体何人いるかなのである。
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