選挙しか頭にない政治家が小沢一郎である。共産党と一緒になっても、誰も驚かないだろう。金丸信、竹下登、小沢一郎と並び評され、悪の権化のように思われていた小沢一郎が逆襲に出たのがは平成5年のことであった。3月6日には金の延べ棒を隠していた金丸信が脱税で逮捕され、小沢自身も追い詰められていた。そこで小沢は政治腐敗を正すとして、小選挙区制導入による政治改革を主張した。自分たちを改革派と位置付け、それに反対する勢力を守旧派と決めつけたのである。7月18日の総選挙で自民党から政権を奪い、非自民・非自民7党による連立政権を誕生させた。消費増税の問題や政治資金問題で細川護煕首相が退陣すると、社会党が離脱して自民党や新党さきがけと新たな連立政権を組むにいたった。これに対して小沢は右のスタンスで攻撃した。小沢にもう一度チャンスがめぐってきたのは平成21年8月30日の総選挙であった。「消えた年金問題」が一大争点となったこともあって、小沢が属していた民主党が圧勝し民主党、社民党、国民新党の三党連立政権が誕生した。しかし、前回同様に経済政策の失敗もあって長くは続かず、平成24年12月にはには自公政権による第二次安倍内閣がスタートし、小沢はじり貧状態になっていた。変節漢の小沢にとっては、政治とは選挙なのである。政策はその時々のファッションでしかない。ブレーンの一人の小林節の言説が、それを端的語っている。小沢一郎ほど晩節を汚した政治家はいない。小沢と独裁の共産党は似合いのカップルなのである。
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ありもしない日本軍による関与を朝日新聞がでっち上げたことが、いわゆる「従軍慰安婦」として問題となり、韓国による世界的な規模での「慰安婦像」建設に結びついたのである。どれだけ日本の国益を損ねたかは想像に絶するものがある。去る23日に行われたサンフランシスコ市議会では、全会一致で「慰安婦像」が建設されることになった。朝日新聞は自分たちの報道の誤りを認めたわけだから、世界に向かって打ち消す努力をすべきではないか。それもせずに韓国の言い分を代弁するようでは、盗っ人猛々しいにもほどがある。韓国や中共が反日に徹しているのは、自らの体制を維持するには、外部に敵をつくらなければならず、それがたまたま日本であっただけなのである。中共は共産党の一党独裁であるにもかかわらず、「憲法違反だ」とか今回の平和安全法制関連法案にも横槍を入れてきている。民主的な手続きで物事を決定したこともないのに、よくぞそんなことが言えたものである。去る27日にニューヨークの国連本部で、中共が主催して「世界女性サミット」が開催されたことについて、ヒラリー・クリントン前国務長官はツイッターで「習氏が、女性の権利を訴える人々を迫害しながら、国連で女性の権利に関する会議を主催? 恥知らずだ」と非難した。こともあろうに中共は今春、セクハラ撲滅を訴える国内の女性活動家を一ヶ月以上にわたって拘束しており、それが許せなかったのだろう。韓国や中共に関しては、だんまりを決め込む朝日新聞は一体どこの国の報道機関なのだろう。
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法と正義を無視しているのは、日本の安倍晋三首相ではなく、中共の習近平主席ではないか。東シナ海や南シナ海での軍事的な膨張にとどまらずに、国が直接関与したサイバー攻撃でも批判の的となっている。今回の米中首脳会談においてもオバマ大統領はその問題を取り上げ「両政府は実行、支援しない」ことで一致した。朝日新聞によると、アメリカは中共によるサイバー攻撃で年間数十億ドルの損失が出ている。それ以外にも今年になってからは、公務員の個人情報が流出したことが明らかになっている。アメリカは2010年からサイバー部隊を展開させており、中共の国有企業を含めて約25社を特定し、対抗処置としてアメリカ国内の資産の凍結や取引制限を課す制裁案が検討されている。日本に対しても中共がサイバー攻撃を繰り返しているのは、誰もが周知の事実である。そうしたことにまったく頬かむりして、安倍首相を悪者にする議論は、どこかピントがずれているのではないだろうか。2009年に就任したオバマ大統領は、これまでは対中共政策で融和的な姿勢を取ってきた。しかし、ことここにいたって対決姿勢に転じたのは、無法者国家中共の振舞いが露骨になってきているからだ。日本の国会が平和安全関連法制を可決し、部分的ではあっても集団的自衛権の行使を容認することになったのも、中共の脅威が高まってきていることが背景にある。それに目を向けないお花畑は、無法者国家の暴走を容認し、戦争の危機を誘発するだけなのである。
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平和安全法制関連法案へ反対する人たちの合言葉は、憲法を守れという一言である。あたかも憲法が全てであるかのようだ。戦後間もなく保田與重郎は『絶対平和論』を世に問うた。保田には侵略者の前に命を投げ出す覚悟があった。単なる憲法擁護ではないことを明確に述べている。「我々は、新憲法を守るといふ時務論から憲法を云々するのではありません。我々はつねにアジア及び日本の古代の理想を恢復することを念願としてゐるのです。その念願に立脚して、正しい道を貫くための正しい生活を論じてゐるのです」。保田は新憲法がアメリカによる押し付けであることを認識しており、それを拠り所とする議論には与しなかった。「戦争を否定するがゆえに滅亡しても仕方がない」との立場でもなかった。逆に日本を滅亡させないとの強い信念に貫かれていたのである。いうまでもなくそれは、ガンジーの非暴力主義の徹底であり、保田は「日本の自由主義者のやうに、戦争は嫌ひだ、自衛権の一切は振へない、しかし生活は近代生活を続けたいといった、甘い考え方ではありません。その考へ方は非道徳的であって、決して無抵抗主義ではありません」と批判したのである。近代的な生活を拒否することが出発点なのである。侵略者への抵抗は「戦車の前へ横臥して、大勇猛心を振ふ位のやうな決心が必要」なのである。命が惜しいからではなく「崇高な本質からの行為」こそが重要なのである。今回の法案に反対してデモに参加した人たちが口にした「憲法違反」というのは、あくまでも「時務論」でしかなく、保田のような「非暴力主義の徹底」とは無縁なお花畑なのである。
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安保デモ終わってみれば喜劇かな
自由とか民主を口に媚中かな
マスコミに煽られただけ民主党
テレビにて煽りし者が矢面に
シールズは共産の真似ソフトかな
共産の独裁知らぬ無知無学
捕まりし者の狼藉暴かれし
年寄りが昔の夢を反安保
日当をもらったデモは時間まで
戦争を誘発させる花畑
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沖縄は日本の故郷ではないか。忘れられた日本がそこにあるのではないか。先祖を祀る信仰もその原型は沖縄にあるのではないか。柳田國男の『海上の道』を読んでその思いを抱いた人も多いはずだ。柳田はまず「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向ってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、又はくさぐさの珍らかなる物を、渚に向かって吹き寄せる風のことであった」と書いており、そして、明治30年の三河の伊良子崎での思い出を語ったのである。風の強かった朝などに、椰子の実が流れ着いたのを三度まで見たのだった。さらに、柳田は沖縄に今も残る先祖信仰にも注目した。海の彼方に常世があり、それが周期的にマレビトがやってくるとの折口信夫見方を生むにいたったのである。日本の原型が沖縄には残っているともいわれる。そこからまとまった集団として日本列島に移り住んだのではないだろうか。今、沖縄では日本から独立を主張する人たちまでいる。日本国家によって人権を奪われているとの意見まである。しかし、これに抗して我那覇真子さんのような沖縄の若者が、スイスジュネーブの「沖縄で人権侵害がない」と述べたことは立派であった。大東亜戦争の沖縄戦においては、陸海軍合わせて1900機のカミカゼ特攻が出撃した。戦艦大和が帰りの燃料を積まずに沖縄に向かったのも、日本と日本人を守るためであった。沖縄を失うことは日本を失うことであり、あらゆる犠牲を覚悟しても沖縄を守り抜かなければならないのである。沖縄で頑張る我那覇真子さんのような若者を応援することは、私たち日本人として当然のことではないだろうか。
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「安倍やめろ」のコールは今後も続くのだろうか。国会前を取り囲んだ労働組合員やシールズを名乗る若者は、次の闘争の目標を見出すことができるのだろうか。それはあくまでも政治的な運動のように見えるが、実際は不満のはけ口を求めたいだけではないか。エリック・ホッファーが『大衆運動』(高根正昭訳)で書いているように、狂信者がいなければ、社会を混乱させることなどできないのである。今回の場合も、いくら説得されても聞く耳を持たないのは、狂信者には議論が通じないからである。ホッファーは「理性や道徳的観念への訴えによっては、狂信者をその大義から引き離すことはできない」と述べるとともに、「その反面で彼は、何の困難もなく、突然しかも乱暴に、一つの神聖な大義から他の大義へと動揺するのである」との見方を示した。「あらゆる種類の狂信者は正反対の極にいるように見えるけれども、実際には一方の極にひしめきあっている」からなのである。狂信者を右と左と区別すること自体が間違っており、「熱狂的な共産主義者にとっては、穏健な自由主義者になるよりも、ファシズム、排外主義、あるいはカトリック主義に回心する方が容易なのである」というのだ。冷静な討論を求めるのは、決まって穏健な保守主義者である。熱情によって突き動かされることに、ためらいがあるからだろう。マスコミが煽りたてて、それに便乗して騒ぎまわった者たちは、局面が変われば「戦争をやれ」と街頭に繰り出す者たちなのである。ネットが冷静であったのは、穏健な保守主義者が多いからだろう。絶対に狂信者には政治を任せてはならないのである。
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日本共産党が音頭を取って国民連合政権を樹立するというのは、まさしく茶番でしかない。しかも、平和安全法制関連法案を撤回させるために結束するのだそうだ。いくら何でもそれには、民主党内でも難色を示す意見が出ているが、そもそもが選挙互助会としてスタートした政党であるだけに、それに乗りかねないのが今の民主党だ。日本共産党ほど非民主的な組織がない。そこが政権に加われば、それこそ日本が独裁国家の道を歩むことになるだろう。立花隆は『日本共産党の研究上』で日本共産党の組織運営を鋭く批判している。今もなお不破哲三は健在であり、その本が執筆された昭和58年当時と、現在もそれほど大差がないのである。立花は「党大会の議事が、満場一致ですすめられていき、組織の全構成員がオウムのように同じ口調で同じことをしゃべり、時の指導部とその方針に対する反対が、組織内部からまるで聞えてこないというような組織は、『近代的であろうと考える政党』には、共産党をのぞくと、まるで類例がないということである」と書いている。「民主集中制」という言葉自体が矛盾している。代々木官僚が一方的に決めたことに従うだけの集団に民主主義があるわけがない。しかし、鉄の団結が原則であることで、それが外に向かう時には大きな力を発揮することになる。全体主義特有の組織論なのである。そんな政党と組むようなことになれば、民主党は国民からそっぽを向かれることになるだろう。反自民であれば誰でもよいのだろうか。ここで問われるのは、民主党などの野党が、全体主義政党と一線を画す良識があるかどうかなのである。
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平和安全法制関連法案が国会を通過しても、私たちの生活はこれまでとは変わらない。「戦争ができる国になる」と反対していた人たちの言葉が、空虚なものであったことを証明してはいないか。戦後間もなく日米安保条約が締結された時点から、日本は集団的自衛権を行使してきた。基地をアメリカ軍に提供することで、日本防衛を肩代わりしてもらったからである。自衛隊が発足し、自主防衛力が強化されても、アメリカ軍に依存する関係は今も変わっていない。海上自衛隊のイージス艦にしても、アメリカ軍との連携なしには、力を発揮することができないのである。あくまでも今回の法整備は、現状を追認することでしかない。にももかかわらず大騒ぎになったのは、自分たちの居場所を確認できない日本人がいるからだろう。江藤淳が丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』を論じた文章が思い出されてならない。江藤は戦後の言論空間について「一見寛容で『市民的自由』と友愛の精神にみちているかのようなこの言語空間は、ひとたび『正しさ』を疑う者が出現するとのわかに非寛容な空間に変貌し、疑う者への敵意を露わにし、これを排除しにかかり、しばしば疑う者の存在を無視するか、もし可能ならその存在を抹殺しようとする」と書いている。安倍内閣の日本国憲法の解釈の変更に対してマスコミが行った攻撃は、まさしくそれなのである。アメリカなどの占領軍によって骨抜きにされてしまった日本は、自らの安全を考えることもタブー視してきた。現実を直視することもできなかったのである。ようやく日本は普通の国になるために歩み始めたというべきだろう。
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