政治家はもともと井戸塀政治家であったのだ。平民宰相であった原敬について、徳富蘇峰は「富と貴とは、卿等の取るに任す。難題と面倒とは乃公に一任せよとは、原君が其の同僚に対する態度であった」(『第一人物随録』)と書いている。
原が住んでいた家は、芝公園の古色蒼然(こしょくそうぜん)とした手狭な家であった。岡義武によれば「土地は借地で、東京市の市有地であった。庭も狭く、家の内部も万事つつましく質素であり、玄関傍の北向きの六畳の小部屋が来客の待合室にあてられていたが、そこの座布団などは丁寧につくろわれた継ぎ剥ぎだらけのものであった」(『近代日本の政治家』)という。
政友会の党員のためには、惜しみなく金を使ったが、自らの生活は質素そのものであった。安政年間に生まれた原は、盛岡藩の家老に生まれながら、会津と同じように賊軍の汚名を着せられた。
それだけに、非藩閥としての苦渋を何度もなめた。政友会総裁として首相の座にまで上り詰めたのは、一にも二にも政治的センスがあったからであるが、政治を金儲けと考えなかったから、人が付いてきたのではないだろうか。ネット時代で、ビジネスで政治を語る人たちとは、志そのものがまったく違うのである。