草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

司法や警察が国民から信頼されないのは最悪だ

2023年07月28日 | 社会風刺
 日本の統治機構の権威が音を立てて、崩れているのではないか。経産省のトランスジェンダー職員のトイレ使用をめぐる最高裁の判決が異常であった。さらに、木原官房副長官の妻に対する殺人事件の捜査が中途になった疑惑である。国民が司法や警察へ不信感を抱くようになるのは当然だ。
 最高裁は明らかに時流に媚びており、LGBT理解増進法が成立したことを受けて、どこの国よりも先んじた決定をしてしまった。この影響は今後さらに深刻化するし、札幌すすきのでの猟奇殺人事件でも、殺されたのは、女装をした自称トランスジェンダーであった。
 肉体は男性であるにもかかわらず、女装をして若い女性に近づき、男性として性行為に及んだといわれる。酷い目に遭った若い女性が復讐のために残酷な殺人を実行し、家族もそれに協力したとみられている。いうまでもなく、これは私たちが心配していたことであった。
 性同一障害者と女装した変質者を見分けることは、あまりにも難しいからである。最高裁の今回の判断は拙速だったように思えてならない。
 木原官房副長官の妻が、前の夫が死亡した事件とどうからんでいるかに関しては、警察は説明責任を果たすべきだろう。一点の曇りもないのであれば、逃げ隠れする必要はないはずだ。取り調べにあたった捜査官が政治家からの圧力を口にするようでは、これまで築いてきた警察の信用はガタ落ちである。
 司法と警察は日本を守るための最後の砦である。そこが崩壊してしまえば、もはや日本丸は沈没するしかない。政治家はこの事態を深刻に受け止めるべきだろう。司法の暴走に歯止めをかけなくてはならないし、警察は特定の政治家の言いなりになってはならないからである。
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正義のためなら許されると思うのが社会主義者

2023年01月30日 | 社会風刺
 山本夏彦がいなくなってから、世の中がつまらなくなってしまった。今世紀に入ってからすぐの2002年にこの世を去ってしまったからだ。あれだけ世の中を皮肉る言論人は珍しかった。
 山本の「資本主義には正義がない」(『寄せては返す波の音』収録)という一文は、もっと多くの人に読まれるべきだろう。資本主義は人間によって運営されるから限界がある。それだけに、山本は「人間は邪悪な存在である。サギをカラスと言いくるめる存在である。だから資本主義は資本主義は己がカガミで、清く正しく美しいものだと思いたくても思うなと私は言うのである」と書いた。
 しかし、山本は間違っても、左翼のように資本主義を打倒しろとは言わない。謙虚であることを望んでいるのだ。それと比べると、社会主義者は「社会主義には正義があって資本主義には正義がない」と御託を並らべる。それをあてこすった文章なのである。
 山本は日本の現状を嘆いたのだ。「社会主義の御本尊は破綻したのになおその正義で育った若者はいま新聞、学校、裁判所あらゆるところのデスクになっている」からだ。
 朝日新聞が毛沢東の文化大革命を礼賛し、ポルポトをほめ讃えたことを、山本は厳しく断罪した。文化大革命では1000万、ポルポトの虐殺では150万から200万人が死亡したと推定される。
 さらに、山本は、岩波書店の「世界」が連載した「韓国からの通信」(T・K生)についても言及し「北朝鮮を十何年ほめちぎって、あとで問いつめられたらT・K生は実在しない、正義のためならウソは許されると言葉をにごしたと伝えられる」という真相を暴露した。
 正義を声高に叫ぶ者たちこそ、危険極まりない代物なのである。colabの不正疑惑も、そうした観点から見れば、ドロドロしていても驚くにはあたらない。若年女性を救済するという正義を振りかざし、疑問を抱くことも許さないというのは、絶対的な正義を過信しているからであり、迷惑千万極まりないのである。
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ひろゆき氏の動画に必死に反論する沖縄基地反対派を嗤う

2022年10月09日 | 社会風刺
 ひろゆき氏はトリックスターである。マスコミや左翼がありがたがっている言説が、危ういものであることを暴露した。沖縄の反基地闘争の茶番を日本中が知ることになったのである。
 辺野古にあるキャンプシュワブの座り込みによる抗議運動が、あくまでも限られた時間の中途半端なものであることを、ひろゆき氏は現地に行って動画で流した。これに反発した基地反対派が大騒ぎとなり、沖縄の新聞二紙などは怒り狂った。玉城知事もコメントせざるを得なくなった。
 ひろゆき氏はちょっかいを出したのである。それまでの保守系の人間であれば、米軍基地の必要性を主張して、お花畑を批判するのが常であったが、ひろゆき氏のスタンスは違う。座り込みを問題にしたのだ。決まった時間に、抗議の声を上げれば、それ以外の時間は人はいないから、パフォーマンスだと揶揄したのである。普通であれば、見解の相違で終わりなのに、いきり立ったから、基地反対派が醜態をさらけ出したのである。
 何せ抗議活動をしている人たちは、日本の安全保障とかの議論はせずに、沖縄に押し付けられている不条理への怒りの声であり、純粋にそれのみで反対していることを公言していた。しかし、純粋性を否定されたために、自分たちの立場がなくなったのである。
 アベマプライムで沖縄タイムスの阿部岳氏、せろがいおじさんがいくらぐだぐだ言っても、ひろゆき氏に論破されるだけであった。座り込みの定義でまともな反論も出来ず、安全保障についての議論になったら、論点のすり替えで逃げるしかなかった。
 台湾有事が想定されている中で、沖縄に米軍と自衛隊がいなくなったら、中国が攻めてこないか、というひろゆき氏のまともな質問には、阿部氏は返答することすらできなかったのである。正攻法で通用しない場合には、ひろゆき氏のようなやり方もあるのだ。トリックスターの本領発揮である。
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マスコミの正義面には辟易(へきえき)する

2022年09月25日 | 社会風刺
 マスコミがいい加減なのは今始まったことではない。それでも以前は、自分の行っていることに、ある種の後ろめたさがあった。スキャンダル好きの読者に媚びを売ることを、恥ずかしいと思っていたからだ。
 それがいつの間にやら、正義面する人間が多くなった。左翼の理論を掲げての体制批判ともなれば、あらゆることが正当化できるからだ。山本夏彦に「諸職それぞれ『恥』あり」(『死ぬの大好き』に収録)というエッセイがある。
 山本は「カメラマンはスキャンダルの主を追って三日三晩寝ずの番して首尾よく盗むどりに成功すると自慢である。こんなことが男子一生の仕事かと、ためしに言ってみてもけげんな顔をするだけである」と書いている。
 それは何もカメラマンを批判しているわけではない。「その写真を待ちかねたデスクは、でかしたでかしたと共に喜ぶ。人間は度しがたい醜聞好きだからその劣情につけこんで売る商売があっても仕方がない」からである。
 山本が問題にしたのは「昔は新聞記者には家があっても貸してくれなかった。娘がいても嫁にくれなかった。『羽織ゴロ』と言って堅気の人はうしろ指さした。だから内心忸怩たる思いをした」という謙遜さが失われたからである。
「人になくてはならないのはこの思いである」との山本の一言は重い。調子に乗って正義面するコメンテータを見ると、嫌な気がするのは、そのせいなのである。そんな商売もあってもいいが、まともな人間の部類に属するわけではないからであり、そこに人間としての陰影の深さを感じるからである。
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マインドコントロールと宗教

2022年09月15日 | 社会風刺
 
 
 アメーバーブログでも連日アップしています。
 宗教というのは信じるか信じないかであって、マインドコントロールされているかどうかというのを問題にしたならば、どんどん拡大解釈が可能になる。しかも、マインドコントロールされているかどうかを、一体誰が決めるのだろうか。
 イエスは聖書の中で、権威ある者の如く語ったといわれるが、その言葉が胸に響いた人というのは、自分の本心からか、それとも他者の影響かと考えると、誰もが分からなくなるはずだ。
 また、イエスは金持ちに向かって、全財産を捨てて、自分の後に付いてくることを命じられた。この世の富は、信仰に入るにはかえって足手まといになるからである。
 常識を突き抜けるのが宗教の力であり「不条理故に我信ず」という境地に達してしまうのである。親鸞は「念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」とさえ述べたのである。
 僕のような無信仰の人間にとっては、うかがい知れない世界である。しかし、僕は信仰に入る人たちの内面の自由を尊重したいと思う。旧統一教会が問題なのは、霊感商法であって、それ以上でも、それ以下でもない。
 さらに、自分というものがどうなのかを、はっきり言える人がどれだけいるのだろう。実存主義は、主体としての「私」を問題にしたが、それだって、実体としての「私」ではない。フーコーにいたっては、人間の消滅に言及しているのだ。「私」というのはあやふやで、あくまでも宙ぶらりんなのである。
 ドグマという観点から論じれば、イデオロギーも信仰と大差がないのである。マルクスのいうプロレタリア独裁は、まさしくイエスの千年統治の蒸し返しに過ぎないのだから。
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謝罪した森喜朗会長に辞任を迫る行き過ぎたポリコレを憂う!

2021年02月05日 | 社会風刺

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言をめぐって、辞任しろと野党やマスコミが騒いでいる。本人が謝罪して、国際オリンピック委員会も問題視しないことを表明しているのに、なぜそこまでする必要があるのか。日本もポリコレがまかり通る世の中になってしまったようだ▼森会長は3日の日本オリンピック委員会の臨時評議会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言したことが、女性差別だと批判されたわけだが、本人も口が滑ったことを認めているわけだから、大会も目前に迫っており、ここで辞めれば混乱するのは目に見えている▼花田清輝が『復興期の精神』において、面白いことを書いていたのを思い出した。花田は「女の論理」について論じていたからである。女は男とは違って理屈ではなく、レトリックで語るというのだ。女性を馬鹿にしているわけでない。イエスがアガペーの愛を示すことが出来たのは、通り一遍の論理ではなく、どんな人にも寄り添うことができる言葉をもっていたからで、それもまたレトリックであるというのだ▼多様性を重んじるのであれば、単純に物事を判断して、言葉狩りをするのは行き過ぎである。かつての左派のオピニオンリーダーであった花田の書いたものを、私たちはもう一度読み直すべきではないだろうか。

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安倍首相よりも朝日関係者とお友達だった黒川東京高検検事長!

2020年05月21日 | 社会風刺

「事実は小説より奇なり」といわれる。黒川東京高検検事長が朝日新聞と産経新聞の記者とかけマージャンをしていた。週刊文春のスクープに多くの国民がビックリしたのではないだろうか。法を順守しなければならない検察の幹部であるにもかかわらず、実際にそんなことをしていたとすれば、現在の立場も失うことになるだろう▼安倍首相というよりも、マスコミとお友達だったのである。朝日新聞の場合には元記者だったそうだが、幹部社員であるとも漏れ聞こえてきている。あれほど黒川叩きをやっていた一方では、ちゃっかり深い仲であったのだ。司法の独立という観点からは、国家権力の介入ばかりでなく、もう一つの権力であるマスコミとの癒着も大問題である。検察がこうなのだから、他の官庁も推して知るべきである▼今のマスコミの劣化も目に余る。地上波のテレビ局では、フェイク報道が堂々とまかり通っている。テレビ朝日やフジテレビでは、過去の映像を引っ張り出して、自粛が緩んだかのような印象操作をしている。ただただ不安を煽りたいだけなのである▼くだらないマスコミとずぶずぶの関係を暴露された検察は、取り返しのつかない失態をやらかしたのである。黒川東京高検検事長は検察の権威を失墜させたのであり、まさしく万死に値する不祥事なのである。

https://www.youtube.com/watch?v=lgVci5Hvy-4

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㉛笠井尚氏の会津の本を読む 北篤の『会津異端の系譜』

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入試は共通テストなど参考にせず大学が独自に行うべきだ!

2019年11月02日 | 社会風刺

大学が試験で入学者を決めるのは、定員に限りがあるからだ。本来であれば、面接に力を入れて、どの位の学力があるのか試せばいいのである。それができないから筆記試験を行うのである▼各大学のランク付けをするにあたって、一定の目安となったのが共通一次試験であった。昭和54年から11年間続き、平成2年から始まったのが大学入試センター試験である。共通一次試験では試験科目は国語、数学、理科、社会、英語の5教科で、当初は理科と社会は選択制の2科目であったが、後半は理科と社会は1科目となった▼大学入試センター試験では5科目が定着するとともに、学習指導要領にそった基礎的な学力を問うこととなり、記述式がなくなり、マークシートに記入する方式が採用されるようになった。来年から導入が予定されている大学入学共通テストでは、数学や国語に記述式が復活し、英語の出題では長文読解とリスニングが重視される。そこで民間の資格試験を活用する方針でいたのが、ここきて萩生田文科相の「身の丈」発言があって、当面は見送られることになったのだ▼かつて小室直樹は「共通一次が生む出すアノミー」というのを問題視した。それによって子供たちに連帯感が失われ、学力の高い低いは関係なく、不安感が高まっている社会現象を指摘したのである。家庭内暴力の原因もそこにあると分析した。それぞれの大学が独自に選抜方法を決めるべきなのである。なぜ逆な方向に文科省は持って行きたいのだろう。

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国民の怒りの爆発に怯える大村と津田とマスコミを嗤う!

2019年10月09日 | 社会風刺

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」を再開したことで、国民の怒りの矛先は大村秀章愛知県知事と津田大介に向けられている。マスコミが加勢してくれるからと、二人は国民を甘く見ていたのだろうが、そうは問屋がおろさないのである▼マスコミは表現の自由の問題に矮小化しようとしているが、それがかえって最悪の事態を引き起こおこしかねないのである。事実をきちんと伝えずに、一方的な報道を続ければ、危機感を募らせて、実力行動に訴える人も出てくるだろう。マスコミが両方の意見を伝えないことで、かえってそうしたムードが醸成される危険性が高まっている▼昭和天皇の写真を焼き、靴で踏み潰すというのは、明らかに常軌を逸している。だからこそ、それが国民に知れ渡れば、とんでもないことになるのを、マスコミは恐れているのである。マスコミが伝えなくても、ネットがその事実を拡散し、国民の怒りは爆発寸前のマグマである。さらに、原発事故を喜ぶような展示物があるとの指摘もあり、二人は日を追うごとに孤立し、追い詰められている▼大村と津田は被害者面をしていれば、英雄になられると思っていたに違いない。しかし、ネットの反応をみても、二人に味方する国民はほんのわずかである。聖書にも書かれているように「蒔いた種は自ら刈り取る」しかないのである。

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あいちトリエンナーレへの補助金不交付は当然の決定だ!

2019年09月26日 | 社会風刺

「あいちトリエンナーレへの補助不交付」を文化庁が決めたことに対して、BUzzFeeDに「検閲と言われても仕方がない」という千葉雄登の記事がアップされた。昭和天皇を貶めるようなことをしたわけだから、金を出す方が間違っている。「象徴天皇」の憲法第一条を遵守することは、それこそ日本国民の義務であり、それに則って文化庁が決定することは、何ら問題がない▼あたかもその記事では「批判殺到」と書いているが、どこの誰が怒っているのか、ぜひ教えて欲しい。当事者である津田大介や、ネット保守の集中砲火を浴びている町山智浩あたりではないか。三浦瑠璃は津田と交友があるからか、「官僚的に理屈はあるのだろうけれど」と留保しながら「今年度の分について不交付の決定はかわいそうだと思う」と同情しているが、彼らが多数派であるわけはない▼あまりにも一方的な書き方である。国家権力に歯向かうのであれば、その程度の覚悟があってしかるべきだ。もし仮に交付するような事態になれば、ネットは大炎上し、国民の圧倒的多数から文化庁が批判されることになるだろう。国の助けを得ず、やりたいことをやればいいのである。税金を使うから駄目なのである。反体制を口にしながら、実際は行政にたかるという根性が尋常ではない。最低のルールも守れないような者たちに、大切な税金を使うべきではないのである。

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