どんな人でも避けられない死について、人はできるだけ意識しないようにしている。そこから目を背けるのが娯楽としてのスポーツなどではないか。しかし、哲学をするというのは、うろたえないために死ぬ練習をすることだ、との見方もある。
プラトンは霊魂の存在を信じていたし、柳田国男の民俗信仰では、死者は生者とあると共にあるといわれる。だからこそ、かつての日本人は死ぬことを恐れなかったのだろう。
エネルギー恒存の法則からも、魂としてのエネルギーは、姿を変えたとしても、死後も継続するような気がしてならない。牢獄としての肉体からの解放は、死の特権ではないだろうか。そして、死からは逃れられないことで、人間は己の魂を磨くことになるのではないだろうか。
友の死が重なると、なおさら死について考えてしまう。もう安沢賢治の「南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」(「雨ニモマケズ」)という言葉に救われるのは、僕だけだろうか。