草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

原発事故で死を恐れなかった東電職員を臆病者扱いした朝日!

2014年08月31日 | マスコミ評

朝日新聞がやらかした大罪はいわゆる「従軍慰安婦」の問題だけではない。福島第一原発の事故をめぐっても、極限状況のなかで戦った東電職員を逆に批判し、あたかも逃亡したかのような記事を書いた。そこにあるのは、菅直人元首相を英雄にするための策略であった。それを早い段階から私も批判してきたが、ようやく吉田昌郎元所長の「吉田調書」が明らかになるにつれて、朝日新聞の嘘がまた一つ公になったのである。後世の歴史家はあの民主党政権時代の異常なマスコミ報道を、必ずや問題にするに違いない。朝日新聞はあの事故の報道においても、民主党政権をかばうことを最優先させた。真実を伝えなかったばかりか、少しでも小さく見せるのに手を貸した。そればかりか、批判の矢面に立たされている菅元首相が、福島第一原発から全面撤退しようとしていた東京電力の職員を一喝した。そうしたありもしない神話をでっち上げたのである。自分たちが実現させた民主党政権を守るためには、手段を選ばなかったのだ。安倍首相が行うべきは、福島第一原発事故で当時の民主党政権が何をしたかの検証である。全てを東京電力の責任にしようとした魂胆は見え見えである。スピーディを公表しなかったことや避難が遅れたことで、しなくてもいい被曝をさせられた福島県民は、どうして菅元首相を許せるだろう。吉田元所長が亡くなったことをいいことに、朝日新聞はとんでもない記事を書いたのである。

  

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竹山道雄の『ビルマの竪琴』は日本軍への鎮魂の小説だ!

2014年08月30日 | 思想家

竹山道雄の『ビルマの竪琴』を読み直してみて、日本のオールドリベラリストの心に触れた思いがした。竹山は父方の叔父に枢密院議長を務めた一木喜徳郎がいる。一木は白虎隊士から東京帝国大学総長になった山川健次郎が懇意にしていた人物である。過激な行動を好まず、日本を愛することにかけては人後に落ちなかった。その血を引いているだけに、竹山はどこまでも冷静な立場を貫いた。しかし、その竹山ですら、日本の戦後の風潮を許すことはできなかった。その思いが『ビルマの竪琴』を書く原動力になったのである。水島上等兵がビルマに残ることになったのは、悲惨日本兵の亡骸を目のあたりにして、それを見捨てることができなかったからだ。竹山は「あとがき」でもある「ビルマの竪琴ができるまで」のなかで、戦後の日本の風潮として、日本軍を悪しざまに罵る風潮があったことを批判している。「当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことを悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがいことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することができません。逆コースでけっこうです」。あまりにも戦後の日本の言論界が異常であったのであり、戦後69年経ってようやく、先の戦争で亡くなった人たちが浮かばれようとしているのである。

  

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日本が敗れたのは支那大陸に深入りしたからだ!

2014年08月30日 | 歴史

大東亜戦争とは何であったのか。いうまでもなくーつは欧米列強からアジアを解放する戦いであった。もうーは反共の砦を築くのを大義名分にしながらも、支那大陸での泥沼の戦いであった。その二つを分けて考えるべきなのである。それは竹内好とそれほど違わないが、その見方を明確にすることで、今後の日本を展望する上でも、大きな示唆が与えられるのではないだろうか。戦争自体はやむを得なかったとしても、手段と目的が転倒してしまったのである。支那事変をきっかけにして泥沼にはまってしまった我が国は、それを解決することを最優先すべきであった。それを怠って四面楚歌になったのが問題なのである。日本が支那大陸に深入りせず、それ以外のアジアの国々と同盟関係を強化していれば、アメリカだって簡単には日本を手を出せなかっただろう。さわらぬ神にたたりなしであったのだ。支那の民衆が日本を良しとしなかったのは、アメリカの謀略があったことは明らかだ。日本と支那が結束すれば欧米列強は震え上がるからだ。そのリスクを考慮すべきであった。今後もそれは変わるわけはない。大東亜共栄圏は雄大なユートピアであるが、それを断念すところから日本の政治は出発する以外にないのである。

  

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週刊誌の広告も拒否した朝日の動揺を嗤う!

2014年08月29日 | ネットの世界

朝日新聞は四面楚歌になりつつある。それを弁護してきた毎日新聞、共同通信なども旗色が悪くなって逃げ腰になりつつある。朝日新聞がまたもややってくれた。自分を批判する週刊文春や週刊新潮の広告の掲載を拒否したのである。大人気ないにもほどがある。それだけ深刻なのだろう。絶対的な権威を自他ともに誇ってきた新聞が、今音を立てて崩れているのである。戦後の言論空間を支配してきた彼らは、何を拠り所としてきたか。いうまでもなく自虐史観であり、その自分たちを正当化するためには、特定アジアと組むことも当然視してきた。それ以外の言論は許されず、嘘も許されてきたのである。ここに及んでも朝日新聞を擁護する者たちは、それに加担してきたからにほかならず、ここで一挙に打倒すべきだろう。そのためにも、朝日新部の社長を国会に呼ぶことは絶対に必要である。これまでどれだけペンの暴力を行使してきたことか。それが我が身のことになるとまるっきり対応が異なる。説明責任も書きたてたのは誰だっただろうか。記者会見で正義感ぶって、横柄な態度をとったのは誰だっただろう。権威は一度崩れると誰もが相手にしなくなる。どんどんこれから追い詰められていくだろう。戦後言論に一角が崩れ、流れが大きく変わりつつある。柔軟な思考と柔軟な戦術によって、日本を取り戻さなくてはならない。それは一日にして達成できるほど単純ではない。一歩一歩進むしかないのである。しかし、攻勢をかけるときには怒涛の進撃をしなくてはならない。ようやく事実にもとづいて日本の歴史が見直されつつあるのだから。

  

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朝日新聞を擁護する田原総一朗の詭弁を嗤う!

2014年08月28日 | マスコミ評

ジャーナリストは気配りが一番なのである。主義主張は最初からあるわけもなく、空気を読んで飯のタネにありつければいいのだ。その典型が田原総一朗だろう。9月5日号に掲載された田原の「朝日新聞批判記事にみるナショナリズムの影」では、誰からもクレームがこないような書きっぷりである。見出しとは異なる論調なのである。ナショナリズムの危機を訴えるのかと思ったらば、そうでもなかった。朝日新聞が「誤報」を32年間も認めなかったことや、謝罪がないことには一言釘をさすことを忘れない。それでいて、朝日新聞を弁護している。「私はナショナリズムには拒否反応を覚えてしまう。そして、朝日新聞批判に強いナショナリズムを感じるがゆえに」と前置きしながらも、「朝日新聞よ、頑張れ」と声援するのである。しかし、それは勇み足であることに知っているので、朝日新聞にも注文を付けるのである。慰安婦の問題について「朝日新聞としては、できるかぎり多くの投書を掲載することが読者に対する責任だと思うのだが、この点はどうなっているのか」と苦言を呈したのだ。田原の文章は三つから構成されている。一つは朝日新聞の「誤報」の訂正が中途半端であること、もう一つはナショナリズムには違和感があるということ、さらに、朝日新聞への注文である。論旨が一貫しているようで、その実はまとりがない主張になっている。しかし、よくよく考えてみると、進歩派に身を寄せた議論であるのが分かる。朝日新聞から仕事が来ることも考慮しているのだ。ジャーナリストというのは、そういった連中なのである。商売で書くには儲からなくてはならない。スポンサーがあっての物書きなのである。

  

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福島県知事選挙で自民党は野党と相乗りするなかれ!

2014年08月27日 | 政局

来る10月26日投票の福島県知事選挙には、現職の佐藤雄平知事は出馬しないことになった。福島第一原発の事故の対応で、多くの県民から批判があり、当然の決定ではないかと思う。スピーディを隠蔽した疑いがあるし、避難の指示をめぐっても後手後手に回った。今後は誰が出馬するかに注目が集まってきているが、理解できないのは自民党の石破茂幹事長らの動きである。自民党県連が元日銀福島支店長の鉢村健氏を擁立することを決めているのに、それに待ったをかけているからだ。石破幹事長の胸のうちにあるのは、与野党相乗りで知事を誕生させるということだろう。そうしなければ、中間所蔵施設などの整備が進まない、と勝手に思いこんでいるのだ。しかし、それは福島県の保守派を納得させることにならない。佐藤知事の無能さにあきれた自民党県連は、絶縁状を渡す意味で、態度を明確にしない段階で鉢村氏に決めたのである。にもかかわらず、石破幹事長はなぜそれを了解しないのだろう。佐藤知事は渡部恒三元衆議員議員の甥であり、これまで民主党が主力になって応援をしてきた。これによって一時は、福島県は民主党天下になってしまい、それが現在も尾を引いているのである。沖縄県と福島県の二つの知事選挙は、自民党が独自候補を立てて勝つべきだろう。間違っても、福島県で相乗りなどあってはならない。ここは自民党が主導権をとって選挙で大勝すべきなのである。受け身に回って姑息なことをすれば、福島県の自民党はガタガタになってしまうのだ、石破幹事長はどうして気付かないのだろう。

  

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事実に反証されても間違いを認めない朝日新聞を嗤う!

2014年08月26日 | 思想家

朝日新聞などの日本のマスコミの大半やサヨクは科学にもとづかないある種の信仰に支えられている。それこそ特定アジアの国が日本を批判する慰安婦をめぐる間題にしても、日本軍による強行連行がなかっなことは認めても、それを前堤にした理論を捨てようとはしない。竹内薫は『99・9%は仮説』のなかで、カール・ポパーの科学の定義について紹介をしている。「科学は、常に反証できるものである」ということであり、「理論がうまくいかないというような事例が一回でもでてしまえばつまり反証されれば、その理論はダメになってしまうという」ことなのである。しかし、朝日新聞や日本のサヨクはそれとは違って、最後まで自分たちの正当性を主張して、全力でそれを証明しようとしている。つまり科学に背を向けているのである。言い訳に終始しているのだ。逆に証明をしようと必死である。これでは信用されるわけはない。まるっきりカルトの信仰と同じなのである。自分たちの間違いを認めないのはそのせいだ。日本のサヨクの場合などは、ソ連が崩壊し中共があのザマなのに、現実を直視しようとしていない。不思議なカルト集団が現在の日本の言論空間に影響力を与え、日本を悪くしているのである。マルクス主義が科学に立脚しているとかの寝言はロにされなくなくなったが、訳の分からない言論がまかり通るようでは情ない。日本人全体がポッパーの言う科学的な思考を身に付け、今こそカルトと訣別する時なのである。

  

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菊と刀の結び付きなくしては日本は存続できない!

2014年08月25日 | 政局

靖国神社にも参拝したことがないし、する気もない人が自民党の総裁になり、我国の総理大臣になることだけは避けなくてはならない。旧田中派に属し、小沢一郎と行動を共にして離党した経験もある石破茂幹事長のグループが、自民党内で反安倍の動きを強めてきている。総裁選を見据えてのことだろうが、それは自民党内のコップのなかの争いではない。戦後保守に対して挑戦状を突き付けている安倍首相を、長期政権にするか、それとも以前の自民党に逆戻りするか、天下分け目の決戦なのである。石破幹事長と連携しているのは、公明党であることは推測がつく。中共や韓国にも日本の国益を主張し、正々堂々と国際社会で日本が張り合っているのは、戦後の日本の歴代の内閣では考えられないことである。トップが代わればそれができたのである。弱腰にならないことで、かえって日本は国際社会から認められつつあるのだ。石破幹事長は軍事オタクかも知れないが、自衛隊員の気持ちを理解しようとはしない。国のために命を捧げようとする者たちは、ロボットや道具ではない。血の通った人間である。忠誠対象を明確にして、国家としての名誉を与えなくてはならない。それを付与せずして、アメリカの傭兵のような状態にとどめておくことはできない。その観点からも石破幹事長は失格なのである。三島由紀夫が述べていたように、菊と刀は結び付かなくてはならない。栄誉の大権は持っているのは、日本の文化を体現している天皇陛下である。それは北一輝のように戒厳令を布く大義名分にしようとしているのではない。そこで死にかつ生きることが可能な、究極的な価値として提示したのだ。特定アジアに加担するサヨクや、新自由主義に加担する保守の一部と対決するには、天皇陛下しかないのである。それを日本の心として理解できるかどうか、全てはそこにかかっているのだ。

  

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西郷南洲と吉田松陰のごとき詩人たる維新者よ出でよ!

2014年08月24日 | 思想家

日本の未来を切り拓くのは革命ではなくして、維新でなくてはならない。影山正治が『維新者の新條』において述べたその精神である。「明治維新史上、最も涙と詩とに富んでいたものは西郷南洲と吉田松陰であらう。最も涙と詩に缼けてゐたものは岩倉具視と大久保甲東であらう。南洲、松陰の道は維新の道につながり、岩倉大久保の道は革命家の道につながる/革命家は憎しみに立ち、維新者は涙に立つ。革命家は憎悪をもつて斬り、維新者は涙をもつて斬る/その本質において詩人たらざれば眞の維新者たることは得ない」。わざわざ村上一郎が『明治維新史の精神過程』でも取り上げている文章である。「涙と詩」というのは日本の心の源流に触れることである。それによって為すべき目標が見えてくるのである。情勢論ではなく、我が内なる日本が詩となり、それが行動の指針となるのである。影山は常に詩と共にあった。維新者としてアッパレなことであった。敗戦を受け入れたのは、影山に「大神のみこころのまま行くのみと心定めて死を越えむとす」の歌があったからだ。維新者であれば詩人でなければならない。それは日本の文化を体現することであり、そのなかで日本人であることを確認するのである。影山は明治天皇が「ふむことなどかたからむ早くより神のひらきし敷島の道」の御生をお詠みあさばれたのを受けて、「『敷島の道』とは神開きたまひし神の道のことである。歌の道こそは日の本の文の純粋であり根底であるから、この御製は同時に、日の本の文學の根道の根本のありかたをお示し下されたものとして拜されてよいのである」(『日本民族派の運動』)と書いている。今こそ明治維新に続いて維新者の出番なのである。

  

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安倍批判よりも今こそ公共事業の見直しを!

2014年08月23日 | マスコミ評

広島市の大規模地滑り災害について安倍首相を批判するよりも、もっと本質的な議論をすべきだ。いつもの通り日刊現代や朝日新聞系列の日刊スポーツが、これでもかこれでもかと攻撃をしている。今こそ論じなくてはならないのは、公共事業の軽視してきたことだ。国土の保全から手を引いて経済優先主義に走った結果が、このざまなのである。その先鞭を切ってきたのが日本のマスコミではなかったか。日本に建設会社は多すぎるとか、無駄な金を使っているとか、それを連日にわって記事にしてきた責任は、一体どうするつもりなのだろう。もう一つは広島市自体の責任である。宅地開発が野放しになってしまい、そこに防災上の対策が講じられていなければ、当然のごとく今回の悲劇は予想されたはずだ。そこにこそ目が向けられるべきだろう。安倍首相を悪し様に罵る道具に利用する。お隣の大統領のように所在がつかめなかったわけでもない。騒ぎ過ぎにもほどがある。しかも、それを書きたてているのが特定アジアに与する新聞なのである。これでは国民が納得するわけがない。朝日新聞などは日刊スポーツまで使って嫌がらせをしているが、そんなことよりも社長が記者会見をするのが先だろう。自分たちが説明責任を果たしてから、それから安倍批判すべきはないだろうか。日本は世界でも例がないほどに災害が多い国である。防災が政治の重要な部分を占めなくてはならない。にもかかわらず、日本の政治はそれをおろそかにしてきた。その付けが国民に回ってくるのである。足を引っ張るのではなく、公共事業の見直しこそが急務なのである

  

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