そんなに仰々しくする必要もないのに、民主党政権のやることは、どこかピントがずれている。東日本大震災から一ヶ月以上が過ぎた昨日になって、福島県原子力発電所事故対策本部として、東電、保安院、安全院の共同記者会見が行われた。本部のある東電本店を会場にしたことだけでも、無責任ぶりがうかがわれる。全てを東電に押し付けたいのである。さらに、嗤ってしまったのは、事務局長の細野豪志首相補佐官が「原則として全ての情報を公開する」と大見得を切ったことである。嘘を吐く人間に限って「全て」という言葉を使いたがるものだ。単なる見せかけでしかないから、すぐに馬脚を現して、顰蹙を買っただけであった。原発の専門家は同席していないし、記者からの質問はあまり受け付けない。これまでの「大本営発表」と大差がない。かえって情報統制が厳しくなったのではないか。しかも、細野首相補佐官だけがスーツ姿で、政治主導を演出しようとするあたりは、愚かにもほどがある。いくら駄目なマスコミでも、これにはまいったようだ。福島第一原発事故が発生してからこれまで、民主党政権が隠蔽していた事実が、次々と明らかになりつつあるが、表に出てくるのは、枝野幸男官房長官といい、細野首相補佐官といい、嘘を吐くために生まれてきたような人間ばかりだ。
サヨクを自称し、民衆の味方面をしていた連中が、名も無き民衆や子供たちを、死に追いやろうとしている。「福島第一原発の放射能は、健康に影響がありません」「私たちには責任がありませんから、東京電力を厳しく指導します」。エセサヨクとは、そういうものなのである。最終的には他人事でしかない。それだけに、平時にはきれいごとを並べ立てる。「保守政権のように隠しごとはいたしません」「憲法を守って、暴力装置の自衛隊は解体します」。しかし、今回のような破局的な出来事に局面すると、その場しのぎの嘘に終始するのである。それと比べると、八木重吉の詩は、民衆への深い愛に満ちている。「なぜわたしは/民衆をうたわないか/わたしのおやぢは百姓である/わたしは百姓のせがれである/白い手をしてかるがるしく/民衆をうたうことの冒涜を強くかんずる」(「なぜわたしは」)。クリスチャンであった純粋な魂には、誠実さがあった。それの一かけらもないのが民主党政権なのである。放射能漏れが続いていることで、福島県民は死と背中合わせの生活を強いられている。その人たち大半は、名も無き民衆なのである。当初は国の言うことを信じて、必死に耐えてきたが、それは非情にも裏切られてしまった。民衆の怒りがエセサヨクに向けられるのは、当然のことではないか。
報道管制をごり押しして、自分たちの失政を隠蔽したいというのが民主党政権である。政権交代をする前は、情報公開を求めていたのに、与党になると、そんなことはおかまいなしなのである。そうした暴挙に対して、真っ向から異を唱えているのはネットだけである。とくに、保守派の人たちの書き込みは、涙ぐましいいものがある。サヨクは労働組合や民主党の秘書団を動員して、組織的な工作活動を行っているが、それこそボランティアで獅子奮迅の戦いをしている。日本の良識はネットによって守られているのである。そのことをマスコミも触れようとしないのは、目の上のたんこぶだからだろう。テレビや新聞にしても、100パーセント正確なわけではない。30パーセントくらいは間違いがある。ことさらネットをデマの温床と見立てるのは、マスコミが既得権益を死守したいからだろう。もしネットがなかったならば、サヨク民主党政権の思いのままだったに違いない。大衆の心理を操れると信じているサヨクは、福島第一原発の事故についても、国民に真実を伝えてこなかった。巧妙な演出によって、自分たちが救世主になろうとしたのだ。しかし、統治能力のなさによって、そんな夢はあっけなく潰えたのである。そして、真実に迫ろうとするネットに八つ当たりしているのだ。
福島第一原発事故の長期化が避けられなくなった時点で、日本中がパニックになると思われたが、そうならずにすんでいるのは、天皇陛下がおられるからだ。陛下のお姿とお言葉によって、国民がどれだけ励まされたことか。陛下を中心とした日本の国柄というのは、いかに占領憲法によって解体しようとしても、それは土台無理であったのだ。葦津珍彦が『日本の君主制』で書いているように、今の憲法であっても、国民統合の象徴としての天皇の存在は認めざるを得なかった。国民主権が重んじられるようになっても、日本の国柄を根本から否定することはできなかった。国民主権という場合でも、それは多数派の意思が、そのまま国民の意思となることではない。だからこそ、国民の意志としての権威付けが必要になった。葦津にいわせれば「主権者たる国民とは、目に見えない統一的存在であり、目に見える個々の国民は、統治される国民である」との観点から、「天皇が、国民統合の象徴といわれるのは、この目に見えない国民の姿を、目に見える姿で現すのは、ただ天皇御一人に限られるという意味である」。陛下が国会に行かれると、国会議員が敬意を表するのも、そうした法理論に支えられているのだ。古代から連綿と続く日本の国柄があるからこそ、日本人は動揺せずに、結束して今の危機に対処しているのである。
福島県から他の県の小学校に転校した子供たちに対して、いじめが頻発しているようだ。これからだって、校庭が使えないようでは、福島市や郡山市の小学校や中学校がどうなるか予想がつかない。放射能汚染の拡大によっては、クローズするところが出てくるのではなかろうか。そうなったらば、県内での最後の切り札は会津しかない。もちろん、それだって福島第一原発の今後の成り行きにもよるが、会津藩の子弟たちは、什の教えを叩き込まれてきたし、今でもあいづっこ宣言というのがあって、卑怯な振る舞いを戒めている。いじめは断じて許さない土地柄なのである。同じ福島県民として、転校を余儀なくされた子供たちを、会津の各市町村は積極的に受け入れるべきだろう。そして、福島県に、一人でも多くの子供たちに残ってもらうのである。会津自体は、それこそ日本でも取り残された地域であり、所得は低くて、沖縄県とどっこいどっこいではないかと思う。しかし、貧乏ではあるが、人間としての思いやりはどこにも負けない。裏磐梯や只見川ラインというように、自然にも恵まれている。さらに、廃校になった校舎がいくつもあるから、学校ごと引っ越しもできる。佐藤雄平知事にしても、南会津の下郷町生まれであり、面積だけは福島県の約半分が会津なのだから、こんなときこそ、私たち会津人が協力すべきなのである。
大学時代にキャンディーズのファンだった身としては、自分のことを顧みないで、田中好子が、55歳になっていたとは知らなかった。死亡記事を見てビックリした。時間は日々過ぎているのを痛感させられた。しかし、スーちゃんと呼ばれていた彼女は、嫌味のない溌剌とした色気というか、清純さというか、それは新鮮そのものであった。学園では中核と革マルとの内ゲバが行われ、何度も凄惨な場面を目撃した。そんな陰鬱なかでも、「もうすぐ春ですね」という歌が聞こえてくると、なぜか救われた気がした。グループが解散したのは、昭和53年のことだったいうが、私の身近には、わざわざ後楽園まで出かけて、最後の公演を堪能してきた知り合いもいたから、結構熱狂的なファンも多かった。その頃の私はまだ結婚する前で、会津に戻ってきていたが、まともな職にもありつけず、その日暮らしといった感じであった。三人のうちでは、どちらかというと伊藤蘭の方が好みだったのは、大学の後輩がランちゃんの私生活のことを話題にしていたので、ついつい興味を覚えたのだと思う。青春の残り火が燃え尽きていなかった、遠い遠い昔の出来事である。あの当時とは違って、極左が流行らなくなってしまった。しかし、政界や学界、さらにはマスコミ界にもぐりこんだ連中が、日本の解体を目論んでいる。日本に本当の春が来るのは一体いつになるのだろう。
戦後の日本の歩みは間違っていたのではなかろうか。東日本大震災が発生して、日本という国家の脆弱性が露わになったからだ。大地が揺れ、大津波に襲われ、さらには原発のトラブルなどによって、多くの人々が住む場所を追われたのに、国はほとんど頼りにはならなかった。唯一国民の動揺を抑えたのは、天皇陛下の存在であった。目に涙を浮かべ立ち尽くす無私の心のによって、日本人は癒されたのだ。避難所で一人ひとりにお近づきになり、お言葉をかけられるお姿は、純粋無垢であられた。「何故に烈しい動揺の中にあって中心のみが厳然として不動であるか」(『日本主義の哲学』)というのを問題にしたのは松永材であり、天皇陛下万歳を叫んで自刃した三島由紀夫が、ひとしお身近に思えてならない。民主党政権の体たらくを前にして、自民党に期待しても、それには限界がある。自主憲法制定も夢物語だし、日本人の思想的血脈にも無頓着である。既成の政党をぶちこわして、新党を立ち上げなくては、この先一歩も進まない気がする。そこで政策的に第一に掲げられるべきは、自衛隊を国軍として再建することだ。私利私欲しか眼中にない政治家の言いなりになるのではなく、もっと根本的な大義を実現するために、サムライは死ぬのである。
昨日福島県を訪れた菅直人首相は、避難民から強い口調で抗議されたために、返答に窮していた。そのときの狼狽ぶりがテレビで流れたために、これでまた評判が落ちたのではないかと思う。市民活動家の出身であるわりには、菅首相は国民を粗末にしている。しかし、スターリンがそうであったように、それがサヨクの特徴なのである。一日も早く、彼らから政治権力を奪い取らなければ、日本はサヨクの全体主義国家に転落するだけだ。彼らは情報を統制し、治安警察を強化し、そして、最終的には、意に添わない者たちを収容所にぶち込むのである。それがサヨクのサヨクたる所以である。ソルジェニーツィンは『収容所群島』のなかで「われわれには自由に対する愛がまったく欠けていたのだ。その上、現実の情勢への認識も欠けていた。わが国民は1917年(ロシア革命にさいして)激情を抑制から解き放った。だが、そのあと急いで服従してしまった。しかも喜んで」と書いている。政権交代によって、日本でも言論を監視する動きが強まり、今回のような原発のトラブルにおいても、情報が統制されている。それだけに、ソルジェニーツィンがノーベル賞記念講演のなかで語った「男らしいあたりまえの人間のするあたりまえのことは、嘘の片棒をかつがないこと、嘘の行動を支持しないことだ」という言葉を、今こそ噛みしめるべきではないだろうか。
日本教職員組合は、子供の命を守る教育をスローガンにしているのではないか。文部科学省が言うように、子供たちが浴びる放射線量が年間20ミリシーベルトまで大丈夫だというのであれば、放射線管理地域の実に6倍にあたる。子供たちをモルモットにするようなことを、どうして黙認できるのだろう。放射線管理地域というのは、原子力発電所のなかでも、とりわけ危険な場所だ。それも理解せずに、勝手に数字を引き上げたのは、民主党政権なのである。文部科学省の役人は、その辻褄合わせをしているだけだ。連合加盟の組合として、民主党にも国会議員を送り込んでいるせいで、口にできない雰囲気があるのだろう。権力を手にしたサヨクというのは、いつの時代もそんなものだ。今回のような文部科学省の決定に対しては、日教組はデモを行って闘うべきであるのに、それもしないで唯々諾々と従うのでは、てんで話にならない。それをやらせた当事者である高木義明文部科学大臣というのは、旧民社党系に属していることもあり、電力労組とは結びつきが深い。だからこそ、子供のことなど二の次なのである。にもかかわらず、牙も抜かれた日教組は、まさしく御用組合であり、それがサヨク労働貴族の限界なのである。