昨日は3冊読んだ。
1冊目は土井里紗さんの「内科医が教える 放射能に負けない体の作り方」(光文社新書)。
帯には「カギは『抗酸化』放射能物質から全身の細胞を守る!食事・生活のコツ」とある。表表紙裏に「忘れてはならないのは、住み慣れた土地を離れられない私たちの戦いは、今後何十年という単位で続くということ。特に一般の人々がさらされているのは、内部被爆の危険です。放射線に負けないからだを作る方法はあります。そしてそれは生活習慣病、がん、アレルギーなど、現代人の多くの病気や、老化に負けない体を作ることにつながります。」とあり、手に取った。
既にがんを発症し、転移までしている私が何をいまさら、という気がしなくもないが、まだ15歳の息子に何かしてやれることはないか、と思いながら読んだ。筆者ほど、ストイックにいろいろなサプリメントやら水を取り入れるのは実際問題としてちょっと難しいけれど、夫と息子の糖質のとりすぎは、メタボ予防のためにも反省しなくては、と思った。
2冊目は川上弘美さんの「どこから行っても遠い町」(新潮文庫)。
裏表紙には「捨てたものではなかったです、あたしの人生-。男二人が奇妙な仲のよさで同居する魚屋の話、真夜中に差し向かいで紅茶をのむ主婦と姑、両親の不仲をみつめる小学生、そして裸足で男のもとへ駆けて行った女・・・。それぞれの人生はゆるくつながり、わずかにかたちをかえながら、再び続いていく。東京の小さな町を舞台に、平凡な日々の豊かさとあやうさを映し出す連作短編小説。」と裏表紙。
最初のお話からすっかり川上ワールドに惹きこまれ、堪能した。編集者の松家仁之さんが解説で書いておられる「私が川上弘美さんの小説にひきこまれるのは、未来からやってくる『ああしてこうしないと手遅れになる、ほらほら』と尻を叩く声が、どんどん小さく静まってゆくからです。生きることとは、どんな匂いがし、どんな手ざわりで、どんな持ち重りがするものなのか。未来に備えて「いま」をぎゅうぎゅう絞り続けているうちに、からからに乾いて、はかないほど軽く硬くなってしまった自分という名のタオルに「いま」の水をたっぷりと吸わせたらどうなるか。(中略)生きていくということはどうやっても、不安に充ち満ちたものなのです。だからこそ、ときどき舞い降りるよろこびが深くなる」に頷いた。
3冊目は高山正之さんの「変見自在 スーチー女史は善人か」(新潮文庫)。
帯には大きく「正義を疑え 世に満ちた偽善を暴く好調超辛口コラム第二弾」とあった。ちなみに第一弾は「変見自在 サダム・フセインは偉かった」だが、残念ながらこちらはまだ読んでいない。週刊新潮のコラムをまとめたもので、本書は2005年3月から2006年5月までのものが収録されている。
著者はジャーナリスト。産経新聞入社後、大学教授も経験されている。解説の西尾幹二さんは「高山氏は政治用語を用いず、もっぱら心理的に描き出してくれる。並みの人なら100枚もの原稿用紙を埋めて書くだろう。それをわずか五枚程度で過不足なく書く。死のようである。アフォリズム集のようである。行間の空白を読め、と言っているのである。」と書いておられるが、いやはや世界の見方が変わるというか、本当にそうだったらえらいことだな、と思わされてしまった。
とにかく新聞は、一紙だけに偏ることなく複数読まなければだめだ、ということだけはよ~くわかったのだが。
昨日はへとへとで食欲もあまりなく、早めに休んだ。ステロイドがなかったので、睡眠導入剤を飲むことなく眠りにつくことが出来た。
今朝は今のところそれほど酷い気持ち悪さはなく、ほっとしている。いいお天気。安心して洗濯を干せて嬉しい。
1冊目は土井里紗さんの「内科医が教える 放射能に負けない体の作り方」(光文社新書)。
帯には「カギは『抗酸化』放射能物質から全身の細胞を守る!食事・生活のコツ」とある。表表紙裏に「忘れてはならないのは、住み慣れた土地を離れられない私たちの戦いは、今後何十年という単位で続くということ。特に一般の人々がさらされているのは、内部被爆の危険です。放射線に負けないからだを作る方法はあります。そしてそれは生活習慣病、がん、アレルギーなど、現代人の多くの病気や、老化に負けない体を作ることにつながります。」とあり、手に取った。
既にがんを発症し、転移までしている私が何をいまさら、という気がしなくもないが、まだ15歳の息子に何かしてやれることはないか、と思いながら読んだ。筆者ほど、ストイックにいろいろなサプリメントやら水を取り入れるのは実際問題としてちょっと難しいけれど、夫と息子の糖質のとりすぎは、メタボ予防のためにも反省しなくては、と思った。
2冊目は川上弘美さんの「どこから行っても遠い町」(新潮文庫)。
裏表紙には「捨てたものではなかったです、あたしの人生-。男二人が奇妙な仲のよさで同居する魚屋の話、真夜中に差し向かいで紅茶をのむ主婦と姑、両親の不仲をみつめる小学生、そして裸足で男のもとへ駆けて行った女・・・。それぞれの人生はゆるくつながり、わずかにかたちをかえながら、再び続いていく。東京の小さな町を舞台に、平凡な日々の豊かさとあやうさを映し出す連作短編小説。」と裏表紙。
最初のお話からすっかり川上ワールドに惹きこまれ、堪能した。編集者の松家仁之さんが解説で書いておられる「私が川上弘美さんの小説にひきこまれるのは、未来からやってくる『ああしてこうしないと手遅れになる、ほらほら』と尻を叩く声が、どんどん小さく静まってゆくからです。生きることとは、どんな匂いがし、どんな手ざわりで、どんな持ち重りがするものなのか。未来に備えて「いま」をぎゅうぎゅう絞り続けているうちに、からからに乾いて、はかないほど軽く硬くなってしまった自分という名のタオルに「いま」の水をたっぷりと吸わせたらどうなるか。(中略)生きていくということはどうやっても、不安に充ち満ちたものなのです。だからこそ、ときどき舞い降りるよろこびが深くなる」に頷いた。
3冊目は高山正之さんの「変見自在 スーチー女史は善人か」(新潮文庫)。
帯には大きく「正義を疑え 世に満ちた偽善を暴く好調超辛口コラム第二弾」とあった。ちなみに第一弾は「変見自在 サダム・フセインは偉かった」だが、残念ながらこちらはまだ読んでいない。週刊新潮のコラムをまとめたもので、本書は2005年3月から2006年5月までのものが収録されている。
著者はジャーナリスト。産経新聞入社後、大学教授も経験されている。解説の西尾幹二さんは「高山氏は政治用語を用いず、もっぱら心理的に描き出してくれる。並みの人なら100枚もの原稿用紙を埋めて書くだろう。それをわずか五枚程度で過不足なく書く。死のようである。アフォリズム集のようである。行間の空白を読め、と言っているのである。」と書いておられるが、いやはや世界の見方が変わるというか、本当にそうだったらえらいことだな、と思わされてしまった。
とにかく新聞は、一紙だけに偏ることなく複数読まなければだめだ、ということだけはよ~くわかったのだが。
昨日はへとへとで食欲もあまりなく、早めに休んだ。ステロイドがなかったので、睡眠導入剤を飲むことなく眠りにつくことが出来た。
今朝は今のところそれほど酷い気持ち悪さはなく、ほっとしている。いいお天気。安心して洗濯を干せて嬉しい。