ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2009.12.5 初冬のお集まり

2009-12-05 19:44:33 | あけぼの会
今日はあけぼの会の「初冬のお集まり」に参加してきた。あけぼの会デビューをしたことが、そもそもこのブログ開始のきっかけになった。その始めの一歩、「初夏のお集まり」参加から5ヶ月。文字通り季節は初夏から初冬に変わった。
今回は「会員のみなさまへ ワット会長から2009年を締めくくるお集まりのお知らせです。」 ということで、

「・新しく入会された(術後、日が浅い)かたから<あけぼの会>に対する新鮮で率直な要望を聞いてみたい・・・
・また旧い会員?のみなさんにも注文があるのでは・・・
・再発治療中の人にも切羽詰った要望が・・・
・そして支部のあり方に対しても意見が・・・
・また、現実問題として、会費が大変だとか・・・
あけぼの会は創立31周年、これからはもっともっと「みんなの会」でありたいと願っています。ですから多くの忌憚なき声を聞かせてほしい。(私に会いに?)出てきてください。待っています。
テーマ:あけぼの会の未来を考える」

というピンクのはがき(あけぼの会からのお知らせはいつもかわいいピンクのはがきだ。)が11月中旬に舞い込んだ。「初夏のお集まり」と同じ会場での開催だったので、早速申し込んだ。
参加者は30名ほど、教室形式の会議室で会長さんが司会進行をなさった。新しく入会された方のご挨拶等から始まり、後半は会長さんからの「いつでも、どこでも、だれでも、本当に困っている人が相談できる場所=あけぼのハウス=」への熱い思いを直接伺うことができた。また、HPの治療日記でお世話になり、ブログ立ち上げの背中を押してくださった事務局のTさんともご挨拶できた。7月にいらしていたFさんや先月「虹のサロン」でお話ししたOさんのお姿もあった。
私はまだ入会して半年の新米会員なので、1年のイベントスケジュールが頭に入っていないのだが、この後、東京支部では新春お食事会が予定されている。こうして1ヶ月、2ヶ月に1度というタイミングで集まりがあることは、体調と相談しながら参加することができるから、いろいろ不安を感じる私たち会員にとって、とても心強いことだと思う。事務局も全て乳がん体験者。再発治療中の方もいらっしゃり、少人数でとても苦労なさっている、ということが良くわかる。私にも何かできることがあれば、と思っていたが、「乳がんディクショナリー」の改定で少しでもお役に立てれば、とお話してきた。
今日のキーワードは『おしゃれ』という会長さん=パリ帰りのピンクのミニスカートで登場=のお言葉に甘えて、前から欲しかったニットのアンサンブルを買って帰ってきた。そう、治療でお金がかかるのは事実だけれど、おしゃれも決してあきらめないで前向きに生きたい。
出かけたときはまだ雨が降っていなかったけれど、帰りはかなり強い降りになっていた。

今日は往復の電車で河岡義裕さんの『新型インフルエンザ本当の姿』(集英社新書)を読んだ。わかりやすくまとまっていて良かった。先日エントリーした予防接種の連絡があり、1月に予約が入ったので、ほっとしている。

さて、前回、退院直後の頃までのことを書いたが、とにかくタキソテールの副作用が総花的に出てしまった単純な私だった。
思い出してみると、まず最も分かりやすい脱毛から。 一口に脱毛というと、ああ髪の毛ね、と思うのだけれど、実際は、ああ、こんな所も・・・というほど全身である。今まで何も気にせずにあって当然、いったいなんの役に立つのやら、と思っていた体中の体毛がこんなに役立っていたのだ、と改めて思った。
毛髪。実にうまく出来ていることを実感した。夏でも髪の毛だとうまく汗を吸い取ってくれるので、汗をかいても帽子をかぶったりすることがなければ殆ど蒸れないが、かつらの蒸れはかなり辛い。冷えピタを頭にあてて使ったという方もいらしたけれど、職場から帰ってきて、かつらをはずすと、本当にほっとした。
鼻毛。なくなると、鼻の中はつるつる。そうするといきなり色々なほこりやごみをそのまま吸い込むことになる。くしゃみや鼻水が止まらないのだ。鼻をかむと今度は鼻血が止まらない。人前ではマスク必須である。
睫。なくなると、当然ほこりやごみが入りやすくなる。今度は涙が止まらない。いつもじわじわ涙がにじんでいるので、無意識のうちにそれをぬぐう。するとまぶたの周りがただれる。まぶしくて目を開けていられない。日中はサングラスが必須である。ちょうど花粉症の季節だったのでマスクとサングラスをしていてもあまり目立たなかったのが幸いだった。かつらにマスクにサングラス、ぱっと見は不審者・・・である。
眉毛。ずいぶん後になってから、ふと気づくととても薄くなっていた、というレベルだったけれど、もともとげじげじ眉毛の私が麻呂のようになって、人相がかなり変わった。今もまだ薄くぼーっとしたままだ。
すねもつるつる、(あ、これはいいかも!)などと思ったけれど、後半はむくみがひどく、はちきれそうにぱんぱんだったので、まるで鋼鉄のようにてかてかに光ってちょっと不気味だった。

爪の痛み、脱落。今はタキソテールの点滴中に冷やしていると良い、とのことで冷却グローブ等の新兵器が開発されているようだ。確かに点滴中冷たいのは辛いかもしれないけれど、長期にわたっての爪のダメージよりは良いと思う。私は手袋をはずして2ヶ月ほどになるが、まだ手指の爪はペラペラして縦に細かい筋が入っており、とても脆い。先日も右の中指の爪がひっかかってまた割れて、短くなってしまっている。足の爪に影響が出るのはもっとずっと遅い。当然手より爪が伸びるのが遅いからなのだが、両足の薬指や小指はあっというまにぽろりと落ちたけれど、人差し指、中指は浮きあがっただけで特に脱落しなかった。親指が一番大きく付け爪のようにぽっかりとれたので、今もまだ包帯でカバーしている状態だ。少なくともあと3ヶ月くらいはかかるのでは、と思う。
これもなくなってみて初めてわかったのだが、手指の爪がないとボタンが留められない。とにかく細かい仕事が殆ど全く出来ない。ちょっとしたものをはがすとか、小さいものをつまむとか。足は普段はあまり気づかないけれど親指の爪がないととにかく踏ん張りが利かない。力がはいらず、かばって歩くと腰痛のもとになる。
さらに手足の痺れも一緒に来ているのでたちが悪い。熱いものを感じられずにそのまま持ってしまったり、手が滑ってこぼしたりひっくり返したり、下にあるものに気づかずに踏んづけたりするので、くれぐれもやけどや怪我に注意するように看護師さんに言われた。味噌汁やスープもお椀でなくマグカップ、がよいのかもしれない。

手足の痺れと痛み。まさに足は、痒くても靴の裏から掻く、という感じ。手の方は滑ってよく物を落とした。まだ残っているけれど、今はアロマシンの手指のこわばりがわかるほどずいぶん落ち着いた。ひどい時にはこのこわばりが分からないほどの感覚だったので。半年以上ビタノイリン、ビタメジン、漢方薬のお世話になった。

味覚異常。最後までわかったのは酢っぱい味だけ。まるで妊婦のように何にでもポン酢をかけて食べていた。それ以外は甘いもしょっぱいも辛いも殆どわからない。何か鉄のような味で後味がとても悪い。よくあの味覚で味見もせずにいい加減に食事を作っていたものだ、と思う。何を食べても美味しいものが美味しく感じられない。香りは分かるのに口に入れるといきなり味が分からない。とてもさびしかった。

 倦怠感。これは今までに体験したものの比ではなかった。体に重りを背負っていて背中からどんどん沈み込むような感じ。起きられない。今思えば一番ひどかったときは鬱の一歩手前だったと思う。いらいらしたかと思うとひたすら滅入る。何もしたくない。本も読みたくない。読めない。後半になるにしたがって、だんだん薬がたまってくる感じや、薬が抜けてくるのに時間がかかってくるのを感じると、治療しているというのに、良くなっていると実感できない。かえって悪くなっているように思えた。投げやりになり、人格が変わっていくような気がした。それでも看護師さんたちは「普段のあなたを知っているから大丈夫」と支えてくれた。

 浮腫。後半にどんどん悪化して、最終的には妊婦時代の体重増と同じ7キロがほぼ1週間で増えた。しかも下半身に集中。足首のくびれがなくなり、靴がきつくなり、歩くのが大変になった。触れば飛び上がるほど痛い。ある日入浴していて足の甲と指が盛り上がっているのに気づいて唖然とした。医療用弾性ストッキングも試したけれど、とにかく爪がないので引き上げるための力が入らないから、自分で履けない。夫にも助けてもらいながら毎回痛くて涙を出しながら履いた。医療用はあきらめて、ドラックストアで立ち仕事によいというストッキングやハイソックス等いろいろ試した。結局、半年以上利尿剤ラシックスのお世話になった。

 白血球減少。投与した翌週には判で押したように決まって発熱。処方された抗生物質や解熱剤を飲んでいてもどうしても白血球が下がるので、毎回好中球アップさせる注射を打ちながらの6クールだった。それでも回を重ねるうちにああそろそろこうなるな、こうなるな、と学習しながら何とか乗り切った。

 顔の色素沈着。2回の投与が終わった年明け頃から頬のあたりに蝶のような形をした赤黒い色素沈着がひどくなってきた。最初は赤く腫れた感じだったが、だんだん黒ずんできた。ただでさえ顔色が悪いし、皮膚が過敏になっていてメイクもできなかったので、気になった。皮膚科のお世話になることになり、それ以降いまだに爪の剥離状況の改善に時間がかかっているので、今も皮膚科に通っている。この色素沈着はちょうど膠原病で出る蝶状斑によく似ているということだが、タキソテールの副作用として出現するケースは珍しいとのことだった。ステロイドや美白クリームを処方していただき、今は殆どわからないくらいになった。

 こうしてみると本当に出現率がかなり低いものも含めて、殆ど考えられる全ての副作用が出現した。単純に出来ているのか、薬の感受性が強いようだ。だから効いているのだ、と言い聞かせて乗り切った。(実際のところ、副作用が出るから良く効いている、出ないから効いていない、ということはないようだけれど・・・)

 タキソテールを投与しながらも仕事を続ける方もいると伺った。私も最初はそうしようと思っていたけれど、こんな状態ではどれだけ職場に迷惑をかけたかわからない。もちろん半年間不在にはしたので沢山の迷惑をおかけたしたけれど、突然休むとか、出勤したけれど具合が悪くなってすぐに帰ってくる、といった事態は避けられたし、兼務ながら代替職員も置いて頂けたので、私としては救われた思いがする。

 それが今は週4日フルタイムで働き、週1日はほぼ一日かけて通院治療をし、土日には今日のようなイベントに出かけることができるほど、元気になっている。頑張ったかいがあった、と思う。

 今の小康状態が少しでも長く続いてほしい。抗がん剤治療はもしもうやらないですむならやらないですませたい。再発患者は抗がん剤治療がエンドレス、だということはわかっているけれど。副作用の症状もその感じ方も十人十色なのだろうけれど、やはりこれは経験したことがない人、それを支えた家族以外にはわからないと思う。わかれ、と言う方が無理だけれど。

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2009.12.1 ハーセプチン70回目、ゾメタ28回目

2009-12-01 20:11:02 | 治療日記
 今日から12月。月初めの採血。40人以上待ちで40分程待ち、その後内科へ。結果が出るまで小一時間待ち、中待合へ。「寒くなってきて痺れませんか」と聞いて頂いたけれど、去年の末から今年の前半まで出ていたタキソテールの副作用での手足の痺れは殆どなくなっており、こわばりほど気にならないとお返事。採血結果は白血球があいかわらず低めの3400。ここのところ2000台から3000台で落ち着いている。腫瘍マーカーとホルモン状況の結果は次回。今日は予定通りハーセプチンとゾメタのフルコース。薬が届いて点滴が始まったのがお昼過ぎ。看護師さんに一昨日無事インフルエンザ注射を済ませたことをお話する。院内の看護師さんたちは順番で、まだの方もいるとのこと。「こんな大きい病院より小さなクリニックの方が早いのは不思議ですね」とお話した。
 
 たっぷり時間があったので、今日も2冊読めた。1冊目は本田和子さんの「それでも子どもは減っていく」(ちくま新書)。ちょうど今から15年前になるが、職場の研修で半年間スウェーデン、イギリス、フランスに滞在する機会があった。テーマは少子化問題。夫を日本に残して自分で住居から何から手配して、の強行だった。当時は合計特殊出生率が1.57になったという、いわゆる1.57ショック後の施策を模索していた頃で、子ども施策に関する世論調査を担当していた。帰国後まもなく、結婚して6年目に遅ればせながら息子を授かった(当時から寄り道が得意だった息子である。)。それを機に、職住近接だがそれまでとは全く異分野の職場に異動させて頂いた事もあり、研修成果を何らかの形でお返しすることができず、かつての職場には足を向けて眠れない私である。思えば、大学時代も卒論のテーマは高齢化で、どうもこの手の問題にはずっと気になっていることもあり、また、少子化というテーマに惹かれ手に取った。
先日も山田昌弘さんの『少子社会日本』を読んだのだが、働く女性への出産奨励施策から出生率低下を必然とした施策へ、当然ながら状況は変わってきているのだ、と思う。「費用対効果という経済的視点で見たときに子育てほど非効率的で割に合わないものはない、《教育者とはその実りを自身の手で刈り取ることができないもののことである》という言葉は子どもの親となる人にも該当する言葉だろう。」というくだりには納得し、「わが子」を計る基準にも経済性が入り込んでいるのではないか、という指摘には下を向かざるを得なかった。
 2冊目は大崎善生さんの「優しい子よ」(ポプラ文庫)。「十歳の少年が教えてくれた本当の『優しさ』ってのは、凄いんだ。」という帯だったが、息子より1つ上の学年の茂樹君の手紙に途中何度も涙をぬぐい、病気になったのが息子でなく自分で、本当によかった、と思った。筆者の奥様は女流棋士の高橋和さん。あのチャーミングな笑顔の彼女が4歳のときにトラックにはねられた事故で何度も大手術を繰り返していらした、とは全く知らなかった。そして私と同じ6月17日生まれ、ということにも驚いた。

 さて、去年の11月末からの入院話の続きである。
大部屋のベッドがひとつだけ空いていたので、何とか即入院できた。ナースステーションの向かいの6人部屋の一番手前のベッドで、ヨロヨロしながらパジャマに着替えて培養検査等もろもろの検査。点滴が24時間延々と続き、熱で朦朧として殆ど眠れない。
このとき生まれて初めてリアルに自分の葬儀の夢を見た。夢、というより本当にカラーで夫や息子が泣いている様子もありありとわかり、参列してくれる方たちの顔もわかって驚いた。それもとろとろと眠るたびに続きを見た。毎晩ろくに眠れず夜中まで起きているし、熱も高いため頭痛がひどく、頭痛薬もなかなか効かず、何日目かに催眠剤をもらった。ようやく眠れ、その後少しずつ気分も上向きになってきた。

好中球減少下での感染症による発熱だから生ものは当然禁止だったが、もちろん食欲は全くなく、ろくに動けず、廊下の向い側にあるトイレに点滴台を引きずって行くだけの数日間だった。点滴だけが栄養源。それでも口からものが食べられないと、本当に力が出ない、ということを実感した。
同室の方たちの生活騒音やお見舞いの方たちとの声にもとてもナーバスになり、辛かった。何もできなかったので、歌を詠んでいた。歌といってもただ五七五七七に語呂合わせするだけ。それでも今までのこと、口には出せない気持ち等を天井を見て詠むだけで少し気分転換になった。

後半の3日間だけようやく個室が空いて、大部屋から移動できた。嬉しかった。その頃には既にもう脱毛が始まっており、枕には髪の毛がどんどん張り付くようになった。夫にコロコロクリーナーを買ってきてもらった。帽子やバンダナを用意していたけれど、取り除いても取り除いてもこれでもか、というほど抜け続けて洗面所の床があっという間に黒くなった。発熱して以来ずっと入浴できなかったので、頭がかゆくてたまらず、看護師さんに「何とか熱が下がったらシャンプーを手伝ってほしい」とお願いして「時間が空いたときにね」と言ってもらい、ずっと楽しみにしていたが、やはりまた熱が上がったり、と不安定で、先生から退院してから、とストップがかかった。

退院の日、そもそも私は髪が多いので、これだけ抜けても地肌が見えているわけではなく、髪の毛はまだ普通の人並にあったけれど、びっくりしたのは帰宅後、鏡の前でちょっと前髪をあげようとしたら、芝生の植え込みのように、もうただ乗っかっているだけの髪がごっそりはがれ、額の先に地肌が見えて、絶句して髪の塊をもとに戻した。思わず自分で「ゾンビみたい・・・。」と言っていた。覚悟はしていたけれど、本当にむごい抜け方だった。

その後、何より先にしたのは入浴。10日ぶりに入浴して洗髪したら、髪の毛が抜けて抜けて、排水口にヘアピースが複数出来るほどになった。これではもう何もかぶらず外には出歩けない、という状態だった。入院前に予約していたかつらの受領日は、入院中だったためキャンセルせざるを得なかったので、再度予約をし直して、目深に帽子をかぶって、夫同伴でタクシーで出かけた。かつらあわせの前に「もうばっさり切ってもらっていいです。」とお願いしたけれど、くしで髪をすくたびにどんどん髪がなくなって、とうとうまばらなはげ頭の自分が鏡の前にいた。不思議と涙は出なかった。それでもとにかくかつらをかぶれば外に出られた。こんな思いをしてしまうと、やっぱり「髪が抜けたら帽子をかぶればいいじゃない。」とはとても言えない(し、・・・言ってほしくない)。

俳優さんや女優さんが役のために自分で髪を丸めるのと、病気の副作用で髪が抜けるのは全く違う。まず目の力が違うし、眉毛やまつげも抜けてうすくぼーっとなるので、顔全体がぼーっとなる。眉毛やまつげが抜けると本当に人相が変わるのだ。

6月に「あけぼの会」に入会してすぐに会のホームページにエッセイを書く機会が与えられ、それがきっかけで思いもよらずこうしてブログを開設してから早くも1ヶ月が過ぎた。
ふと、思う。今年度末で勤続25年間、と一口に言うけれど四半世紀。生まれたばかりの子どもが大学を卒業して新人として3年働く時間に相当する。これまでに人事異動は12回、平均しておよそ2年ごとに新しい仕事をしてきた。上に書いたように半年間研修に行かせて頂いたこともあった。育児休業はとらなかったまでも、もちろん産休の間は休んだし、育児時間も取得できるときは取得させてもらったけれど、それでも働くことは当たり前、結婚で辞めるとか出産で辞める、という選択肢は私にはなく、ずっと仕事を精一杯やってきたつもりだった。もちろん就職したときも雇用機会均等法の施行1年前だったから、民間企業で太く短く、ではなく細く長く定年まで働きたい、ということで公務員という仕事を選んだ。

それなのに結局のところ、病気になってからのほぼ5年間の方が自分にとって濃い時間だったのか、ということを認めるのはとても微妙な気持ちだ。これまでの5年間、それから今後のことについて、自分としても驚くばかりなのだが、書いても書いても書きたいことが湧いて出てくる。
もちろん仕事のことに関しては守秘義務がある。また、自分がこれまでしてきた仕事は、記名入りで人に伝えていく、という性格のものではないのだから、私がたとえググってみても自分の名前が仕事関係でヒットすることは、ない。比べる方が間違いなのだ、ということはよくわかっているけれど、片や技術屋の夫は仕事の上で名前がヒットする。私の名前がヒットするのはわずか2ヶ月の間掲載して頂いた「あけぼの会」のエッセイのみである。土俵が違うので張り合おうという気はさらさらないけれど、20代から40代の25年間の重み、仕事で自分は何が残せたのか、を考えると、やはり一抹の寂しさがある。

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