ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.9 ハーセプチン84回目

2010-03-09 20:57:46 | 治療日記
 今日はまた冬に逆戻りの寒い一日だった。いつもどおりの時間に内科受付へ。それから20分ほどで診察室へ。「今週は特に痛みもなく、変わったことといえば左の腋の下の傷跡(リンパ節廓清跡)がちくちくぴりぴり痛んだことくらいです。」とご報告。
 気になっていたマーカー値はまた若干上昇。正常値上限を超えてしまった。先生は「このペースでゆっくり上がっているならあえて変更しなくても、と治療変更の決心がつかず悩ましいです。今朝家を出るときは7:3で薬を変更しようと思っていたのですが、今は7:3で変えないでいこうと思います。」とのご判断だった。それを伺って診察前にちょちょっと数値を見て決めているのではなく、家を出るときから方針を考えてくださっていた、ということが判り、本当に心がじんわり温まった。感謝、感謝だ。
 「ここで薬をスイッチしてしまうと、また今後の選択肢が減るということですか。」と質問すると、「そうではなく、普通マーカーが上がるときはこんなにゆっくりとは上がらないので、間違いなくハーセプチンが効いているということだと思います。逆に変えたらどんどん上がってしまった、となると変えなければ良かったということになるので。変更する根拠としてはもちろんマーカーの上昇や肺の影が濃くなっていることがあるけれど、変更しない根拠としては変化がゆっくりであり、薬を変えても効く保障がない、ということ。もちろん薬を変えるタイミングはどこかにあるのですが、それが今かそうでないのか確信がない。今後レントゲンを月1で撮ることにして、影が濃くなったりマーカーの上昇のスピードがアップしたり症状が明らかに出てきたら変える、ということにしましょう。今日は帰りにレントゲンを撮ってください。」といのことだった。先生の説明に充分納得してあと1ヶ月アロマシンを処方して頂いた。
 処置室に移動して窓際最後の点滴椅子を確保して、お昼前からハーセプチンスタート。今日は刺針もそれほど痛まず順調に終了。終了後、2階の放射線受付で胸部レントゲンを1枚撮影。
 会計後、外に出ると冷たい雨だったが、まだ雪には変わっていなかった。薬局に寄り、また1ヶ月同じ薬で様子をみることになった旨お話した。
 途中電車の中で雪になり、最寄り駅に到着する頃にはすっかり積もっていた。

 今日は3冊読めた。1冊目は宇宙飛行士・野口聡一さんの「オンリーワン ずっと宇宙に行きたかった」(新潮文庫)。「夢の実現は夢じゃない。それを知ってもらいたい。僕は普通の人だけれど、だからこそ言える。僕の経験は、どんな人にも起こりうることなのだ。」という本文からの文章が帯になっていた。中でも「宇宙に行った人と行けかった人との間には越えられない壁がある。その差は、あきらめずに続けられるか、あとは運。長い間がんばってしっかり能力を高めて、あきらめずに食らいついて、あとは運を信じる。あっけないことですが、それだけのことです。」と書いておられるが、哀しいかな、それだけのことが誰しもなかなかやり切れないのだ。それでもあきらめずにやっていくこと、は治療を続けていく今の自分にも当てはまり、そしてきっと神様が微笑んでくださる、という運も信じたい、と思う。生死を賭ける宇宙への挑戦に死を意識して遺書を書いた、のくだりも実に同感だった。
 2冊目は堤未果さんの「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」(岩波新書)。経済危機後のアメリカの教育、年金、医療、刑務所等の暗澹たる現実に息苦しくなった。学費ローンに追い立てられワーキングプアへと転落する若者たち、老後の生活設計が崩れた高齢者たち。ブッシュを追い出してYes,We Can!のオバマ大統領になったのになぜ状況は前より悪くなっているのか、という素朴な疑問。Changeという言葉に熱狂し、選挙後は政治に背を向けてしまった、前政権のときほど政治の矛盾を追及しなくなってしまった、というアメリカ国民の言葉はアメリカの後を追って政権交代を果たした日本にとっても決して他人事ではない。「一番怖いものはテロリストでも大不況でもなく、いつの間にか私たちがいろいろなことに疑問を持つのをやめ、気づいたときには声すら自由に出せない社会が作られてしまうことの方かもしれない。」という医療破産した女性の言葉。考えさせられる1冊だった。
 3冊目は桜沢エリカさんの「贅沢なお産」(新潮文庫)。一時期実にいろいろな方たちが出産エッセイを書いた時期があった。私はその時期は子育て奮闘中でとても読めなかったので、ちょっと懐かしくて題名だけは知っていた1冊を手に取った。エッセイと漫画で綴る極楽出産記と裏表紙にあるように車内で笑いをこらえつつあっという間に読破。

 さて、今、私はいわゆる食事制限等は全くしていないけれど、初発以降始めて今でも続いていることは毎朝青汁を飲むことだ。何種類かのものを試して今はおいしいと思うもの、通販で1種類、百貨店で1種類を交互に飲んでいる。再発以降は夫も巻き込んで毎朝飲むようになった。そのままではやはり飲みにくいので、沖縄産のシークワーサー果汁を入れて飲んでいる。ちょっと酸っぱいけれど朝しっかり目が覚めるし、お通じも良くなった。

 さらに去年の春、3歳年下の従妹が休職中の私を心配して送ってくれた「フローエッセンス+(プラス)」(アメリカ原住民に伝わる薬草のお茶)も加わった。最初はちょっと飲みにくいかな、と思ったけれど、そろそろ1年、今では朝起きると同量のミネラルウオーターを沸かしてこれと割って飲むのが一番の仕事になっている。1瓶で8回分強の量なのだが1本60000円ほどするし、瓶の蓋が開け辛いのが玉に瑕なのだが(副作用で手がしびれているときには全く歯が立たずに毎回夫にあけてもらっていた。)、デトックス効果があるようだ。

 そしてやはり去年休職中にベストセラー「乳がんと牛乳」の本を読んで以来牛肉と牛乳・乳製品はなるべく摂らないようにしている。牛乳は息子のように大好きで1日一リットル(!)飲むわけではないので、全く困っていないけれど、ヨーグルトやイタリアンに必須のチーズは好きだし、特にアイスクリームは大好きで夜一人でこっそりファミリーパックを抱えて食べるほどだったので、氷菓しかダメ、というのはなかなか辛い。この辺は結構ゆるめに、ストレスにならない程度にやっている。もともと夫や息子のように焼肉大好き、というわけでもないので、牛カルビが食べられなくて辛くて・・・、ということもなくお肉は鶏肉か豚肉でお魚メインの家庭料理になっている。

 ただ、前にも書いたように今の食生活から乳製品をすっかりシャットアウトするのは本当に不可能に近いほどだし、先日のあけぼの会での濱岡先生の講演のとおり、「何事もほどほどに、食べ過ぎず、飲みすぎず良い時間を過ごす」こと、が一番大切なのだ、ということをつくづく思う。

 「ガンがなくなる完全食」で言われているような食事を作っているわけではないが、年末から宅配で届く有機野菜や玄米、胚芽精米を始めた。最初、もっと食べにくいのかと思って玄米を一掴みとか胚芽精米を一掴みとか十六雑穀米を混ぜて試したけれど、実際はしっかり浸水させれば全く違和感なく、今では玄米と胚芽精米半々のご飯を夫も息子も快食快便と言いつつ文句も言わずに付き合ってくれている。

 さらに先月からハーブコーディアルも始めた。ピンクジンジャーやデトックスなど6種類があるが、今はちょっと疲れたとき、リラックスしたいときに、ほっとするピンクジンジャーを飲んでいる。酸っぱさはそれほど気にならないし、体が温まってとても美味しい。以前は冬でもアイスコーヒー好きだったけれど、最近は極力温かい飲み物にしている。もともとホットコーヒーは飲まないので暖かい飲み物というと紅茶ばかり。

 このおかげかどうかわからないけれど、前は低体温で36度すれすれだった体温が最近通院時に毎週検温すると、コンスタントに36度5分から6分あるようになっている。今日は寒かったせいか36度3分とちょっと低めだったけれど。
これもベストセラーで体温があがると免疫力があがる、病気が治る、といわれているのでいいのかな、と良い方に考えている。

 こうしてどんどん試して良いものを続けていくと資金的にも大変だけれど、ほどほどに、やっていくのが大切かな、と思う。


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2010.3.5 花粉の季節

2010-03-05 20:43:13 | 日記
 昨日は寒かったのに、今日はいきなり春爛漫?というほどとても暖かくなった。職場である大学内でもマスクをしている方の姿がとても目立った。今日はかなり多く飛んでいるのだという。

 私と夫は今のところ無事なのだが、息子はもう花粉症暦10年を越えた。スギ、ヒノキ、イネ、ブタクサすべて2+、3+とひっかかっているので、息子はほとんど1年中鼻炎状態だ。中学受験にチャレンジしたのには、その頃(2月1日前後)ならまだ症状が出ていないだろうけれど、高校受験のシーズン(2月10日以降)では既に危ないかもしれない、ということも理由の1つにあった。
 とにかく抗アレルギー薬を飲むと、ボーっとしてしまい、注意力が散漫になる。

 年がら年中鼻をかむことになるから鼻血は出るし、目は真っ赤でかゆいので汚い手でこするから爛れるし、落ち着きがなくなっていらいらして、本当に端で見ていて可哀想なくらいだ。「なんでボクを花粉症に産んだんだ」と何度も言われた。「ママには花粉症の辛さなんかわからない」とも。

 生後59日から保育園児だから、バギーに乗せられてそれはそれはよくお散歩に連れて行って頂いた。多分、全身でうんとたくさんお日さまの光と同時に花粉も浴びたんだろうなあと、振り返って思う。
 2,3歳頃から春先になると、目が真っ赤になり、鼻血が酷くなった。落ち着きがないのはそれだけのせいではなかったのだろうけれど。そしていよいよ(これは花粉症ではないか)ということで、4歳で血液検査をし、「花粉症」のお墨付きを頂いた。
 以降毎年、2月からゴールデンウィークが空ける頃まではひたすら鼻水、鼻づまり、目のかゆみ、と戦ってきた。マスクやめがねをさせるのだが、どうしてもうっとうしいと取ってしまい、そのおかげで症状が悪化する、という悪循環だった。

 今から5年前は花粉が非常に多く飛散した年だった。当時小学校3年生だった息子は、体育の授業でマスクもめがねもしないで校庭を走り回ったことがあった。その日の夕方にはそれはそれは症状が酷くなり、とりあえず行かせた塾から「お迎えに来てほしい。花粉症がひどくてとても授業どころではありません。」と電話があった。
 私はちょうどその頃、初発の手術後の放射線治療中で家にいたので、何とかお迎えに行けたのだが、職員室で休ませてもらっていた息子は、まさにお岩さんのような顔をしており、目が開かなくなっていた。鼻はつまり、食べ物の味も全くわからなかったようだ。

 その足でクリニックに滑り込んだけれど、さすがにそこまで酷くなってしまうといつもの薬では効かず、強い薬を出して頂き、症状の沈静化までにかなりの時間を要した記憶がある。本人もこの経験で観念したらしく、「学校に行っていろいろ言われるから・・・」と嫌がっていたマスクとめがねをしていくようになった。

 そんなわけで去年までは、生後2ヶ月からお世話になっている近くのクリニックで花粉症も診て頂いていた。目薬、点鼻薬、飲み薬、と何種類も処方して頂き、効かなくなると別の薬を試し、ということを繰り返していたが、昨年は耐性が出来てしまったのか殆ど効果がなく、ようやく重い腰をあげて専門の耳鼻咽喉科に連れて行った。そこで頂いた薬はあれ、っと思うくらい良く効いて、ずいぶん症状が軽減した。

 今年は迷わず最初から耳鼻咽喉科に行った。幸いまだ症状が出ない2月の初めから薬を飲み始めることができた。先手必勝とはこのことか、と思うくらい効果がある。飛散後1ヶ月ほど経つのにほとんど症状が出ていないという。
「今日は“非常に多い”予報が出ているからマスクをしていくように」と言ったけれど、「大丈夫、大丈夫」と出かけてしまった。

 花粉症の症状は出る前に薬を飲み始めるほうが症状が軽くすむと言われていたのに、これまでいつも後手後手に回っていたことが悔やまれた。
 果てさて、今日は無事に帰ってくるだろうか。来週から学年末試験なので、症状が出ないで集中力が少しでもあると良いのだが。

 幸い「鼻は少しつまるけれど、目は痒くない。」ということで今しがたようやく勉強部屋に行った。

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2010.3.2  ハーセプチン83回目

2010-03-02 20:46:36 | 治療日記
 明日はひな祭りというのに朝から気温が低く、今にも泣き出しそうな空だったけれど、何とか傘を差さずにすんだ。今日は月初めの採血。40人以上待ちだったので小一時間を覚悟したが、いつもより2人多い7人体制で行っていたので30分ほどで順番がきた。その後内科の前で、採血の結果が出るまでちょうど1時間。
 中待合に入る番号が出て、診察室に入ったのは病院に到着してから1時間45分ほどしてからだった。先週は特にこわばりも気にならなかったし、痛みもあまりなかったことをお話した。採血結果も特に異常なし。

 先週末のCTの結果について先生は、「うーん、という感じなんですよね。」とおっしゃった。一昨年の5月、去年の10月、今回と3枚の画面を並べて比較してくださった。肺の上部の影が去年の10月の画像でいったん薄く小さくなっているが、また濃く大きくなっていた。また、下部にはこれまでなかった部分にもやもやした影が映っていた。以上2点が変化したところ、で骨は変化なし、痛みのある胸の部分も特に変化なし、ということだった。先々月まで腫瘍マーカーが上昇していたのはこの肺の影のせいだったようだ。それでも先月は横ばいになっているので、今すぐどうこう、ということではないようだ。
 アロマシンは今回のCT結果待ちで、前回最低限しか処方して頂いていなかったので、あと2錠しか残っていない。とりあえず来週腫瘍マーカーの結果を見てから、ということで1週間分を追加して頂いた。
 今月、来月の腫瘍マーカーが上がるようであれば薬を変えるか、というところで、「(上乗せの)抗がん剤が必要でしょうか。」と恐る恐る伺ったところ、笑いながら「希望があるならやりますが・・・」とおっしゃるので、「全然ないです。」とお答えした。何が何でも抗がん剤をやりましょうという段階ではなさそうだ。
 それから処置室へ移動。さすがに採血の日は時間が遅いので窓際の点滴椅子は一杯で、入り口にある最後の椅子を確保。また検温、血圧、刺針等準備をしつつ1時間ほど待って薬が到着し、お昼過ぎから点滴が開始した。新しい針は刺すときも抜くときも痛みがあいかわらずだ。

 今日は2冊読んだ。1冊目は石川恭三先生の「生へのアンコール 勇気をくれた患者たち」(集英社文庫)。「文庫化によせて」を日野原重明先生が書いておられるが、筆者の長い医師歴の中で、主治医として出会ってこられた患者さんや家族の問題に対してどう対処されたかが17のストーリーとして書かれた本である。どのお話も生の限界を目の当たりにしながらも、生きる喜びを周りの人たちにも分かち与えた雄雄しい患者たち、ということでたくさんの勇気を頂いた。筆者があとがきで“私たちには「今、生きている」ことをごく当たり前のことと捉え、自分の人生について生の限界を視野に入れながら真摯に考えることを避けようとするところがある。”とあるが、実にそうだ。今、こうして毎週通院している私でさえ、一年後に死ぬと仮定してやらなくてはいけないことのリスト作りをする、ということはしていないのだから。誰にとっても時間は永久ではない。“義理や名誉や世間体などのために使う時間など一分たりともないことに気がつく”、というくだりには実に心打たれた。
 2冊目は帚木蓬生さんの「閉鎖病棟」(新潮文庫)。“現役精神科医の作者が病院内部を患者の視点から描く、淡々としつつ優しさに溢れる語り口、感涙を誘う結末が絶賛を浴びた。”という裏表紙のとおりで、実に興味深く読んだ。特に「患者はもう、どんな人間にもなれない。だれそれは何々、という具合に、かつてはみんなは何かであったのだ。・・・それが病院に入れられたとたん、患者という別次元の人間になってしまう。そこではもう以前の職業も人柄も好みも、一切合財が問われない。骸骨と同じだ」という部分には思い当たる節があり、ちょっと胸が苦しくなった。

 さて、最近なぜこんなに精神的に穏やかになったのだろう、と思う。つらつら考えてみると、多分いろいろなことにあまり期待しなくなった、ということが大きいように思う。

 自分が好きにやっていることに関して、相手に見返り(というか相手からの良い反応)を期待するようなことがなくなった。逆に、何も期待しないまま自分がしたことを思いのほか喜んでもらったり、御礼を言われたりすると、とても嬉しい。発想の転換だな、とつくづく思う。

 決して投げているわけでも斜に構えているわけでもないつもりだ。もちろん、一生懸命やったことが報われれば当然嬉しい。けれど結果が出なくても自分で決めてやったことなのだから、やってあげる、のではなくて勝手にやったこと。結果がついてこなくてもそれは致し方ないこと、そう思えれば肩の力は面白いほど抜けてとても楽になる。こんなに一生懸命やっている(言っている)のにどうしてわかってもらえないのだろう・・・、私だったらこうするのに、と思ってみても、相手は所詮自分とは違う人格なのだから、それは無理な話。相手に対して求めすぎ、ということなのだろう。

 こんなこと賢明な方たちはとっくにわかっておられて実践済みなのだろうし、半世紀近く生きてきて今更「目から鱗」のようにわかって喜んでいるようではもう遅いのかもしれないけれど。それでも気づいたこと、そのおかげで楽になったことは、とてもありがたいことだ、とつくづく思う。

 今や、日々仕事に行って普通に毎日が過ごせるだけで感謝、感謝の日々。捨てるものも失うものも殆どないので、嫌な役回りをするのも平気になった。出世したいとか、という思いがあればぐっとこらえて言わずに飲み込まざるを得ないことも多々あるのだろうが。

 そんなわけで職場でも日々自分らしく以前なら飲み込んで言えなかったことも素直に言葉にして、のびのびと過ごさせて頂いている。
 これってもはやすっかりオバサン化(!)している、ってことかもしれないけれど。

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