ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2014.10.4 再発してもこれまで通り生きるために~イデアフォー通信第92号より~その2

2014-10-04 20:40:20 | イデアフォー
 前回に引き続き、イデアフォー通信第92号からの転載、2回目。常に思っていることであるが、働くことについて、私なりの考えを述べたもの(前半)である。

※   ※   ※(転載開始)

Ⅱ 就業継続と再発治療―私の場合―
(1)私の職歴
 1985年4月、大学卒業後に東京都事務職員として採用されて以来、現在までフルタイム勤務を継続中です。
 今年度末で勤続30年を迎えます。その間、1カ月以上の長期休暇取得は勤続11年目の産休16週間、勤続20年直前の初発時に手術・放射線治療で70日、術後2年弱でノルバデックス副作用による卵巣嚢腫摘出開腹手術で35日間の病気休暇。さらに、再発後タキソテール治療中に6カ月の病気休職、合計4回です。
 休職明けから現在に至るまで、概ね週1回から月1回の通院治療を、1日単位の病気休暇取得により継続しています。治療薬変更時には、体調不良による緊急入院等も何度か経験しましたが、こと休職明けから直近の5年余りに限って言えば、2012年秋、EC初回投与後の好中球減少症により1週間緊急入院した以外は、連続休暇の取得はありません。

(2)私が考える“就業ということ”
 そもそも、私の就労に対する考え方は、公務員を選んだという選択からもお判り頂けるかと思いますが、“細く長く”・“(女性も)働くことは当たり前”です。大学卒業後、男性と同様の条件で定年まで働き続けるつもりで公務員試験を受験しました。そのため、初発後も、さらに再発後も退職しようとは全く思いませんでした。
 おかげさまで病気休暇、病気休職という制度も整っておりましたし、病気を理由として職場から退職について言及されたことはありません。実際には、一度休職してしまうと、休職明け1年以内には同じ病気による病気休暇を取得することが出来ない=完治する病が前提で、精神疾患等による繰り返し休職をさせない制度でしたので、休職明けの1年間は、何があっても有給休暇や休日出勤の代休で凌がざるを得ず、常に休暇の残日数を数えながらヒヤヒヤの綱渡りという苦労があったのは事実です。けれど、“働きたい”という意欲と、実際に職務をこなす能力さえあれば、就業継続は十分可能であるのです。
 もちろん、再発治療には山あり谷ありですから、365日いつも健康な人と同様に、というわけにはいきません。抗がん剤投与後の数日、なんとか出勤はするものの、どうしても具合が悪く無理の出来ない時はあります。が、どういうタイミングでどういう副作用が出るのかが掴めてくれば、自分でコントロールできる出張等は調整する、会議にぶつかりそうな時は治療日を1日前後させる、などして乗り切ることも可能です。
 健康な方であっても、インフルエンザなどで数日休むことはあり得ます。がん治療を始めるまで長く勤めてきたわけですから、それ迄の知識や経験を武器に、職場の理解を得ながら工夫して仕事を続けられるのです。
 最近では、病院でも告知の時に、すぐに仕事を辞めたりしないように、と釘をさすようですが、私が特に強調したいことは、今、就労中の方は初発、再発に限らずどうか簡単に離職しないで、ということです。なぜなら、一旦仕事を辞めてしまうと、この病気を抱えて新しく就職活動をするのはやはりハードルが高いと思うからです。もちろん、中には採用面接時に病気をカミングアウトし、その条件できちんと再就職する方もおられるとはいえ、やはり社会の“がん”という病気に対する意識~死に直結する病、治療による副作用はとても大変、フルタイムでの就業なんぞはもってのほか!?~を思うと、まだまだ少数派ではないかと思います。
 やむなく病気のことを隠したまま就職した場合、治療の折りに休暇を取りづらいということになるでしょう。それでは、自分で自分の首を絞めることになります。
 長期間付き合っていかなければならない病を得たということで、ただでさえダメージを受けているわけです。心も身体も傷つき、経済的にも高額な治療費がかかる中で、社会との接点である職業まで奪われてしまうのでは、まさに踏んだり蹴ったりです。決して何か悪いことをしているわけでもないのに、あたかもこの病気になったのは自分が悪いように病気であることを隠したまま、黙って職場を去っていくしかないとしたら、それは、あまりに悲しすぎます。
 必要以上に職場から身を隠すからこそ、再発=普通の生活は続けられない、死の床についてしまう、という暗いイメージを助長させているのではないでしょうか。実際には長期間これまで通りのごく普通の暮らしを続けながら定期的に治療に通う、ということなのです。もちろん自分ががん患者である、ということを周囲に必要以上に吹聴する必要はないと思います(別に特別扱いをしてもらうためではないのです。逆に特別扱いは不要ですし、逆に徒に特別扱いしてもらうことは嬉しいことではありません。が、良きにつけ悪しきにつけ、何かあった時にがんの治療中である、ということを知っておいてもらうことが必要なのだということです。)が、私は職場の方に病気について訊かれれば正直に答えています。隠す必要は全くないと思っています。何も悪いことをしていないのですから。
 それでも、そう話したことで引かれてしまうという経験があったのも事実です。実際、一緒に仕事をする部下たちには病気のことを話し、体調が悪い日もある、ということを理解しておいてもらいたい、と申し出たところ、上司から部下が動揺するようなことは言わずにいるように、と指示されたこともあります。明日にも死んでしまうわけではないのに・・・。
 けれど、それを嫌がっていたら決して世の中は変わらない。“がん”は自分にも、自分の家族にも全く関係ないことではない、ということを、より多くの方たちに知ってほしいと思うのです。

(転載終了)※   ※   ※

(次回以降に続きます。)
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2014.10.3再発してもこれまで通り生きるために~イデアフォー通信第92号より~その1

2014-10-03 23:33:30 | イデアフォー
 乳がん患者会「あけぼの会」の春の大会で、パネルディスカッションに参加したご縁で、患者会「イデアフォー」から会報に原稿を書いてほしい、という依頼を頂戴した。
 パネルディスカッションでは「自立する患者たち」がテーマだったが、再発治療をしながら、働くことも諦めることなくごく普通の生活を送れることについて、日頃、私がこのブログで書いているようなことを述べた。今回の原稿でもそのあたりを・・・、ということだったので、私でお役にたてるならば、とお引き受けした次第である。

 会員登録はしていないけれど、初発時以来「イデアフォー」の書籍や講演録にはとても助けられてきた。残念ながら事務所が都内の東側であり、入会を検討した時、西端の自宅からではちょっと遠すぎる、今の体調で通うのは厳しいな、と諦めた経緯がある。

 さて、「イデアフォー通信」最新号の9月15日号に、全文が一気に掲載された。広報担当世話人をされているNさんのご承諾を得、このブログでも紹介させて頂くことにした。
 「自由に書きたいだけどうぞ」というお言葉を頂いたので、それに甘え、調子に乗って長々と書いてしまった。
 今日から5回に分けて、掲載させて頂きたいと思う。

 これまで書き続けてきたブログと重複するところも多々あるが、まずは病歴を含む第1回目である(カテゴリーに新しく「イデアフォー」を追加したので、こちらをクリックして頂ければ、原稿の部分だけお読み頂けます。)。

※  ※  ※(転載開始)

再発してもこれまで通り生きるために
          ○○○○(あけぼの会会員)

 イデアフォー会員の皆様、初めまして。○○○○と申します。
 この度、ご縁あって、世話人のNさんからこの場で発信させて頂く機会を得ましたことを、とても嬉しく思っております。
 アカデミックな“イデアフォー通信”に私の文章が果たして相応しいのか、甚だ不安ではありますが、Nさんからは、再発治療を続けながらフルタイムの仕事も続けている私が、日頃思うことを自由に書いてよいという有難いお言葉を頂戴いたしました。
 イデアフォーの出版物や講演録には、これまで大変お世話になったこともあり、私でお役に立てるのならば、と喜んでお引き受けさせて頂く次第です。
 あくまでも私自身が経験してきたこと、選択してきたことしか記すことは出来ませんが、こんな患者もいるのだということで、気分転換として気楽にお読み頂ければ幸いです。

Ⅰ はじめに-私の病歴-
(1)初発・手術まで
2004.11   年1回の職場検診の約2ヶ月前、自分で左胸のしこりを見つける。
2004.12   近所の婦人科クリニックで超音波、視触診
      その場で2駅離れた多摩南部地域病院・外科を紹介され、予約
2005.1.19  年内にMRI、CT、エコー等各種検査を経、日帰りで腫瘤摘出術
2005.2.4   病理検査により悪性が判明したため追加切除となる。(2.2~19入院)
      左乳房扇状部分切除(温存)手術、リンパ節郭清(0/8)
      病理結果:充実腺管がん、リンパ節転移なし。ステージ1早期、低リスク診断
      ER、PGRとも中程度の陽性、HER2は3+

(2)術後治療から再発・転移判明まで
2005.3~4  2グレイ×25回の放射線治療
       ホルモン治療5年間の予定でノルバデックス服用開始。
      当初、アレルギー反応により顔面に湿疹、腫れ出現。放射線治療終了迄休薬。
        その後、4週に1度~8週に1度のペースで診察、採血。
       半年に1度骨シンチ、CT、マンモグラフィ、超音波検査による経過観察
2007.4.3 ノルバデックス副作用により両側卵巣嚢腫発症。子宮筋腫も同時摘出術(開腹)
      その後、1か月に1度~2か月に1度、半年に1度のペースで婦人科経過観察
2007.4末  胸骨周辺が痛み始める
2007.9   腫瘍マーカーCA15-3 上昇開始
2007.12   骨シンチ、CT等の検査
2008.1   各種検査の結果、胸骨・鎖骨転移、両肺多発転移、縦隔リンパ節転移、局所再発判明
      即ちに入院して抗がん剤(FEC)治療開始を勧められる
2008.2.1   セカンドオピニオンを得るため横浜労災病院へ
2008.2.5  サードオピニオンを得るため都立駒込病院へ

(3)再発転移治療開始から現在まで
2008.2.21 セカンドオピニオンを得た横浜労災病院・腫瘍内科へ転院・治療開始
      胸骨周辺の痛みに加え空咳、息切れなどの症状が出始める
      骨シンチ、CT等の検査後、ホルモン治療から開始
      フェマーラ服用、ナサニール点鼻に加え、3週に1度のゾメタ点滴開始
2008.7    腫瘍マーカーCA15-3上昇により、週1ハーセプチン点滴開始(初回1泊入院)
      ホルモン治療剤をフェマーラからアロマシンに変更
2008.11  腫瘍マーカーCA15-3再上昇により、上乗せでタキソテール(100mg/㎡)開始。
      ホルモン治療休止、右鎖骨下静脈に中心静脈埋込型ポート設置(1泊入院)
2008.11末 タキソテール初回投与の副作用により、白血球1,100、好中球0.5%。
      感染症による高熱により緊急入院(10日間)
2009.3  タキソテール6クール終了、ホルモン治療再開(アロマシン)
      両手両足の爪落下、浮腫、痺れ等の副作用に悩まされ、皮膚科受診
      対症療法として漢方薬、利尿剤服用。週1ハーセプチン再開
2009.5   タキソテールの副作用が抜けきらない中、職場復帰。腫瘍マーカー正常範囲内
      ゾメタ、ハーセプチン、アロマシン継続     
2010.6   腫瘍マーカーCA15-3がまたも正常範囲を超え、両肺の影がはっきりしてくる。
       ハーセプチン、ゾメタに加え、ホルモン治療剤変更(アロマシン→ヒスロンH)
2010.9   ヒスロンHに変更後も腫瘍マーカーCA15-3上昇止まらず、肺の影が濃く大きくなり、胸痛が酷くなる
      ハーセプチン上乗せでナベルビン開始。
      ナベルビンがポート不具合により皮下漏出の疑い。
      ポート抜去、再設置手術(1泊入院)
      ナベルビン規定量投与により毎回発熱するため、ロキソニン事前内服で対応。
      規定量8割(38mg/㎡→30mg/㎡)に減量して継続
2012.6   CT検査による両肺の影の増大及び足の痺れ悪化によりナベルビン中止(31クール)。
      ハーセプチン、ゾメタに加えホルモン治療剤フェアストン開始。 
2012.9    腫瘍マーカーCA15-3上昇及びCT検査により両肺の影の増大が確認。
      フェアストン中止。  
      EC(エピルビシン、エンドキサン)開始に伴いハーセプチン一時休止。
2012.9末  EC初回投与の副作用により白血球1,300、好中球5%。
      発熱性好中球減少症により緊急入院(8日間)。
      免疫抑制による急性歯根膜炎発症。同時に口腔外科受診。ゾメタ一旦中止。
      EC規定量8割弱(エピルビシン130mg/㎡→100mg/㎡,エンドキサン900 mg/㎡→700mg/㎡)に減量して継続
2012.12   G-CSF(グラン)投与するも白血球・好中球ともに低迷。EC5クール目中止。
2013.1   EC一旦終了。ホルモン治療剤・フェソロデックス開始。ゾメタ再開。
2013.4   両肺の影が濃くなり、ハーセプチン再開。
2013.5   歯科検診により奥歯周辺不調判明。ゾメタ一時中止。
2013.8   両肺の影が再び濃くなり始め、腫瘍マーカー漸増を続ける。
      上顎口蓋隆起部分に顎骨壊死出現、ゾメタ完全に中止(82回目)。
2014.1   両肺腫瘍影の位置(心臓・肺動脈に近い)を加味し、フェソロデックス中止(15回目)、ハーセプチン一旦終了。
      ゼローダ(1日10錠3,000mg)、タイケルブ(1日5錠1,250mg)規定量開始。
2014.2  下痢(服用10日で3kg減)や手足症候群の副作用が酷いため、ゼローダ中止。
      タイケルブのみ規定量の2割(1錠250mg)から再スタート、4割(2錠 500mg)のまま現在まで内服継続中
2014.3   タイケルブの副作用により両足親指に爪囲炎発症。皮膚科受診、経過観察中
2014.8   骨転移増悪により、ランマーク開始

(転載終了)※  ※  ※

(次回以降に続きます。)
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2014.10.2 もしかしたらこれが最後かもしれないから・・・

2014-10-02 21:37:52 | 日記
 再発以来、頻繁には会えない人に会う時には、自然と、もしかしたらこれが最後かもしれない、と思って接するようになっている。
 偽善者ぶるつもりは皆目ないのだけれど、人として、もし自分のことを思い出してもらうことがあるなら、その時に「ああ、嫌な奴だったな」と思われるよりも、「ああ、あの時穏やかに接してもらったな」とか「笑顔だったな」、「親切にしてもらったな」と思ってもらえる方が嬉しいに決まっている。
 
 私が出来ることなどはごくごくちっぽけで高が知れているけれど、それでもそうした暖かな正の感情や笑顔は伝染するように感じている。攻撃的になったり、怒りをぶちまけたり、という負の感情が伝染するのと同じように。
 人間は感情の生き物だから、特に病気を抱えていたり、体調が優れない時にはどうしても素直な気持ちになれなかったり、なんとなく妬みっぽくなってしまったりすることもある。
 だからこそ、心して生きていきたい、と思う。

 先日、夫と義母の一周忌で帰省して、感じることは多かった。
 親たちを祀る郷里の菩提寺が遠く離れていると、やはり思うに任せないことも多い。
 いみじくも今回義妹が「あと何年来ることが出来るかわからないな」と言っていた。私も、せめて来年の三回忌迄は頑張って行くつもりだけれど、その後七回忌、十三回忌の法要まで夫とともに執り行うことが出来るか、さっぱり自信がない。
 90歳を超えた叔母(義父の妹)が生きてくれているうちは、こうして従弟たちも一緒に参列してくれるわけだけれど、従弟たちの代になった時には、夫や義妹にとってもより一層故郷が遠くなるのだろうとも思う。

 2人とも末っ子の両親が、本家の墓に入ることも出来ず、あえて自分たちの墓を建てずにさっさと霊園で合祀の手続きをしてきた時には、(私って当てにされていないんだ・・・)とちょっぴり複雑だったけれど、まあ、冷静に考えれば、病気を抱え長男に嫁いだ一人娘の私や、一人しかいない孫息子に墓守をさせるのが忍びなかったのだろう。今では賢明な判断をしてくれたのだ、と感謝している。

 歳を重ねるにつれて、遺された時間は否が応でも少なくなっていく。
 もちろん、今回の御嶽山の噴火のように、元気で登山を愉しんでいた若い方たちが突然命を絶たれるということもあるから、年齢や病気だけでない。
 自然には決して敵わない。そして、“生きている”ということは本当に宙ぶらりんな、小さな沢山の奇跡が積み重なったことなのだ、という厳然たる事実を改めて突き付けられた思いだ。

 とにかく人生、いつ何が起こるか分からない。
 だからこそ、「もし、あれが最後だとわかっていたら、ああしたかった、もっとこうしてあげられた・・・」と思わないように、その時自分が出来ることは惜しみなくやり切りたい。その時、その瞬間は二度と戻ってこないのだから。
 そして、結果的にこれが最後の面会になった時に出来るだけ後悔しないように、生かされているうちには精一杯、出来るだけ穏やかに人に接する日々を過ごしたい、と思うのである。
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2014.10.1 採血レントゲン後診察、ポートフラッシュ・ランマーク2回目

2014-10-01 20:03:22 | 治療日記
 今日は、8月末以来5週間ぶりの通院日。
 昨日までの少し汗ばむくらいのいいお天気から一転して、肌寒いほどの曇天。なんとなくいつもの癖で日傘を持って家を出てしまったが、もしかしたら雨が降るかもしれないなと思いながら駅まで歩く。
 最寄駅でも乗換駅でも電車は順調。ラッキーに席を確保出来て、落ち着いて読書タイム。今日のお伴は、先日読んだ碧野圭さんの「書店ガール3」(PHP文芸文庫)がとても面白かったので(読書レビューをしたいと思いながらそのままになっているのですが)、引き続き“お仕事小説”を手に取った。千梨らくさんの「翻訳ガール」(宝島社文庫)。

 病院最寄駅で下車。2週間前、家族3人で京都から降り立ったのがずいぶん昔のように感じる。折しも今日は東海道新幹線開業50周年の記念日。みどりの窓口には“最後尾”の看板を持った方が立っており、入場制限中。一体何事かと思うほど男性メインの長蛇の列。何か記念切符販売があるのだろう、と横目で見ながら病院へ急ぐ。既にポツポツと雨が降り出しており、晴雨兼用の日傘を開いた。

 自動再来受付機前では並んでいる人がなくスムーズ。採血受付へ移動すると、受付カウンター前の椅子はそこそこ混んでいる。ピンクの番号表を受け取り電光掲示板を見ると、“待ち時間7分”と出ている。お手洗を済ませて戻ると、もう自分の番号までが中待合へどうぞ、に変わっていた。
 今日はよく見かける看護師さん。刺すときの痛みも、抜く時の痛みもそれほどでなく、幸先のいいスタートだ。いつものように腫瘍マーカー等全て測定なので3本の採血。
 
 止血部分をしっかりと押さえながら、エスカレーターで2階に上がり、レントゲン受付へ移動。こちらは結構椅子が埋まっており、病棟からの、点滴をしたままの患者さんも複数いた。終了後、再び1階に降りて腫瘍内科受付へ移動。ここ迄で病院に入ってから40分ほど、極めて順調である。
 受付では数名並んでいたが、それほど待たずに保険証チェックを済ませ、ファイルを頂いて待合椅子に腰を下ろす。

 採血結果が出る迄は最短でも1時間はかかるため、待ちの態勢を整えて読書を再開する。月初めの割には待っている人数が少ないように見えたが、30分ほどして“中待合へどうぞ”のランプが点いてしまい、びっくり。そして、自動血圧測定機で計測する時間もなく、中廊下へ入ることに。
 中待合に入ってから読書を再開しようとすると、5分ほどで先生が診察室からお顔を出されて、名前を呼ばれた。いつもは病院に入ってから、先生のお顔を見るまでは順調に行っても2時間はかかる。
 が、今日は僅か1時間半弱。これまでの最短記録かもしれない。

 「5週間どうでしたか」ということで、「概ね元気でした」とお話しする。初回ランマークでは発熱はなかったが、体中ギシギシと痛かったこと、その他は特に問題なかったことをご報告。タイケルブの副作用でいつも下痢気味なのは相変わらず、胸部の鈍痛・圧痛も相変わらずだ。今日のようなお天気だとやはり痛みが気になることを話すと、空咳が出ますね、と先生から指摘される。頭痛も含め、ロキソニンを日に2度、3度飲んだのは5回ほどであり、忙しく動き回っていた時、数回鼻血が出たことがあったとご報告。診察室での検温は6度7分。

 採血の結果、白血球数は3,600。(ランマークの副作用である)カルシウム値も下がっていないので問題なし、とのこと。腫瘍マーカーCA15-3は(診察室に入ったのが早すぎて)まだ出ていないという。レントゲンの画像が7月、8月と今回の3枚並んでいるが、肺の腫瘍は左右とも概ね不変とのことで、大人しくしてくれているようだ。骨の転移層が増悪しているかどうかはレントゲン画像ではわからないのだけれど。
 ということでまた5週間、治療を継続することになった。

 次回までタイケルブ1日2錠、下痢対策に毎食前の小建中湯・毎食後のラックビー各々5週間分、痛み止め(+解熱)のロキソニン、低カルシウム血症対策のデノタスチュアブルを、それぞれ5週間分処方して頂いた。ここ数年、毎日ロキソニンを飲み続けているので、腎機能に問題がないか質問したが、この程度の量と回数なら大丈夫だし、腎臓よりむしろ胃が荒れないように注意を、とのこと。いずれにせよ、きちんと食べてから飲めば問題なさそうだ。
 「では、ランマーク注射とポートフラッシュもしていってください。」と言われ、ご挨拶して診察室を出る。

 中廊下の椅子で待っていると、針刺し名人のOさんの姿が。今後は注射だけの場合、中央点滴室に移動することになったようだが、ポートフラッシュもあるので、引き続き化学療法室で処置してもらえることになる。
 15分程待って、Oさんから化学療法室の一番手前のベッドに案内される。「今日は本当に早く呼ばれてびっくりしました。マーカーの数値もまだ出ていなくて・・・」とお話ししながら、なんとなく先にベッドに横になってしまい、今日はポートフラッシュから。今日は刺すと時は一瞬チクリでスンナリいったが、抜く時はOさんにしては珍しくちょっと衝撃があった。
 続いて、ベッドの上で座り直してランマーク皮下注射。前回同様右上腕部に。5週間ぶり2回目とはいえ、薬液が入ってくると結構痛む。フェソロデックスはお尻に2本で計10分はかかったし、「ゾメタで小1時間点滴に繋がれるより、こうして数分で終わるこちらの方がいいですね。あまり楽をし過ぎて、また点滴で数時間のフルコースになるのが、怖いです」と軽口を叩く。
 もし、もうマーカー値が出ているようなら、とチェックして頂いたが、やはりまだ出ていなかった。 「それではまた来月訊いて下さいね」と言われ化学療法室を後にする。毎週通っていた頃は次回でもそれほど気にならなかったが、今や次の来院が5週間後。それ迄マーカーの数値が気にならないわけではないが、まあ考えても仕方ないので、不変ということでまったり過ごすことにする。

 会計を待ちながら、自動血圧測定機で測定した結果は109-67、脈は71で、私にしてはやや高め。  
 会計が出来るまで15分ほど待ち、読書を続ける。自動支払機は長蛇の列。こんなに早い時間から混んでいるのは珍しいとのこと。支払は前回同様2万円弱。

 外に出るとすっかり本降りの雨になっている。院外薬局へ移動すると、待合椅子が一杯だ。これは長期戦だな、と覚悟する。毎度のことながら、後の方たちからどんどん抜かされる。40分ほど待っている間に2冊目の本に突入。北杜夫さんと斎藤由香さんの「パパは楽しい躁うつ病」(新潮文庫)。エコバックを取り出して袋一杯の薬を受け取る。今日の支払も前回同様4万円弱。

 今日は、病院と薬局併せて滞在時間は3時間ちょっと。お昼で解放されるなら、職場が近ければ午前休だけでも大丈夫かも、などと思ってしまう。
 駅に行くと、相変わらずみどりの窓口の長蛇の列は続いていた。駅ビルで昼食を摂りながら、読みかけだった本を読み切る。
 改札口に行こうとすると、みどりの窓口の列がちょっと短くなっているではないか。訊いてみると、「まだ買えますよ」とのこと。これは、鉄男の母としては頑張らねば、と鉄男さんたちに交じって「東海道新幹線開業50周年記念入場券全17駅セット」なるものをゲットした。
 皆さん、2セット、3セットと大人買いである。台紙とケースに入った入場券、カラフルなクリアファイルのセットを手にして電車に乗り込み、早速LINEで息子に連絡。ちょうどこの日が通院日でラッキーだったね、と。
 ふと、私が一番初めに新幹線に乗ったのは開業の1年後くらいのことで、大阪の伯父を訪れた時だったことを思い出した。もう半世紀経つとは、しみじみ長く生きてきたんだなあ・・・と思うのである。

 帰宅すると、今月第1回目のお花が届いていた。オレンジ色の薔薇が3本、淡い紫のリンドウが3本、黄色のオンシジュームが1本、こちらのお花屋さんから届くのは初めてではないかと思うセダムが1本、ドラセナの葉が1本。それぞれ花言葉は「愛らしい」、「正義感」、「清楚」、「静寂」だという。
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