ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2014.10.9 受け取られなかった“贈り物”はどこへ

2014-10-09 21:22:16 | 日記
 “贈り物”といっても、お花やお菓子等のプレゼントといった物に限らず、気持ちでも言葉でもなんでもひっくるめて、のことである。
 「自分が相手に良かれと思って(もちろん悪意をもって敢えて差し出すものも稀にはあるかもしれない)差し出したものを、相手が“ノーサンキュー、要りません”と言った時、その贈り物はどうなると思いますか」―先日ある方とお話していた時、発せられた言葉である。

 うーん、要らないといわれてしまえば、強引に押し付けるわけにもいかないし・・・。「それは残念ながら宙に浮いてしまいますよね。」というのがその時の私の答えだった。
 けれど、行き場を失ったものはそのまま浮遊し続けるわけにはいかない。相手に受け取ってもらえなかった“もの”は、結局は差し出した自分が受け取るしかないのだ。
 もちろん、相手に何か具体的な物を贈る時、私はその人のことを想いながら、喜んでもらえるだろうかとあれこれ斟酌して選ぶし、それがもし自分も欲しくて買った物ならばラッキー!と自分が使えばいいのだけれど。

 翻って、陰性感情を持って相手に投げかけた言葉等も、当の相手が「受け取りません」という意思表示をすれば(スルーすることも含め)、哀しいけれど、結果として発した自分に戻って来るというわけだ。もちろん期せずしてそれを見聞きした他の人たちを嫌な気持ちにさせるかもしれないけれど、その人たちの心に直接響くことはない。

 結局、何事も天に唾するようなもの。情けは人の為ならず、ということではないか。
 後味の悪くなるようなことをすれば、早晩自分に戻って来る。だからこそ、最初からしないに超したことはないのではないだろうか。

 そうはいっても人間だから、負の感情から全くフリーではいられない。
 それを表に出すかどうかは別として、いつもいつも心穏やかに仏様のように笑みを浮かべてはいられない。
 怒ったり、落ち込んだり、他人(ひと)を羨んだり、妬んだり・・・。

 そういう気持ちになりそうな時には、今、自分は体調が悪いのだな・・・と深呼吸をして、いずれ自分に還って来ることがないように、上手く乗り切りたいものである。

 今日は久しぶりに朝の通勤時間帯、電車とバスに2時間以上揺られて会議に出かけた。幸いにも途中から席を確保出来たので何とか無事辿り着いたけれど、これが毎日のことになったら、とてもじゃないけれど持たないだろうな、とちょっと弱気になる。

 明日1日頑張れば、三連休である。とはいうものの、3日間ともあれやこれやと予定が目白押し。そして、またしてもスーパー台風19号が近づいている模様。猛威を振るわず大人しく通り過ぎて頂きたいものである。
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2014.10.8再発してもこれまで通り生きるために~イデアフォー通信第92号より~その4

2014-10-08 22:01:14 | イデアフォー
 前回に引き続き、イデアフォー通信第92号より、4回目の転載記事。今回は、再発治療を6年半余り続けている私が、日々を送る上で“極意”だと思っていることを3つほどご紹介する。

※    ※    ※(転載開始)

Ⅲ 再発治療を続けていくための極意―私の場合―
 私が再発治療を続ける上での、基本的な姿勢-出来るだけ長く仕事を続けられるように納得のいく治療方法を選択する、これまでと同じ生活を続けていくために私を支えてくれる周囲への感謝の気持ちを忘れない-等について述べたところで、これまでの闘病生活において得られた、~私にとって心穏やかに、そして潔く再発治療を続けていくための極意~をいくつか書きたいと思います。

(1)なってから(事態が起こってから)考える
 初発の方たちが、再発するかもしれない、再発したらどうしようなどと延々と不安な気持ちを引きずり続け、自分を縛って後ろ向きになってしまうのは絶対にナンセンスであり、時間の無駄以外の何物でもありません。
 万一再発したとしても、再発が確定して治療方針が決まるまでは、再発治療は始まりません。それまでは辛いエンドレスの再発治療を受ける必要はないのです。初発後、やるべき治療を終えて一段落したのなら、再発するかもしれない等と余り考えることなく、ごくごく普通の毎日を精一杯愉しむべきです。
 もちろん、他でもない自分の身体に関わることですから、治療について最低限勉強することは必要ですが、あまり過度に必要以上の情報を得過ぎるのはいかがなものでしょうか。
 再発患者の行く末が気になるかもしれませんが、後学の為になるのかどうか、再発しないうちから耳年増になり過ぎるのも、これまた時間の無駄なように思います。それこそ、そういう日々の送り方は、他でもない自分の生活の主導権を病気に乗っ取られたものではないかと感じます。
 当然のことながら、再発するかもしれないということと、実際再発するということは全く別物なのです。かもしれない・・・と先回りして考えたところで、実際に再発した後、本当の意味での助けにはなるとは思えません。なってから(事態が起こってから)考える、で十分間に合います。それは、再発してから新たな転移等の病状の進行と対峙するときも同じです。

(2)支え合っても比べない
 患者が100人いれば、辿る経過は百人百様です。再発患者といっても、例えば骨転移のみであれば直接命を脅かされないケースですし、抗がん剤の力を借りることなく脱毛することもなく、ゾメタやホルモン治療だけで、数年から10年近く穏やかに暮らしている患者さんも沢山おられます。
 ですから、他の患者さんと自分を比べて一喜一憂することはナンセンスです。こういう方もいるのだ、と参考事例として客観的に線引き出来るならば、患者仲間はとても大切な存在です。が、それを自分と比べてどうか、自分はこんなに大変なのにあの人は何故・・・と思ってしまうのなら、それは幸せなことではないように思います。
 あくまでも治療をしながらお互いに一人ではない、と支え合うことが目的です。自分と仲間を比べて心穏やかでいられなくなるのなら、それは辛いことです。せっかくの仲間との関係を無駄にしないようにして頂きたいと思います。

(3)ネット依存は危険
 PCの前に座ってちょっと検索すれば、それこそ玉石混交の情報がいくらでもヒットする現在。どのサイトが信頼のおけるものか勘が働くくらいまで勉強をしないうちに、いろいろな偏った情報に振り回されて不安が不安を呼び・・・というのは、これまた時間の無駄です。適当なところでネットからは一線おいて頂くのが賢明ではないかと思います。

(転載終了)※    ※    ※

(次回で最終回です。)

 今日は残業。帰り道には3年ぶりの天体ショー(皆既月食)が真っ最中という筈だったが、残念ながら厚い雲に覆われて見ることが出来ずじまい。
 明日は、午前中の会議出席のため都心まで直行する。後期がスタートし、いよいよ様々な行事も立て込んできている。
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2014.10.7 それでも生きていく方が辛いのか~柘榴坂の仇討~

2014-10-07 21:03:57 | 映画
 夫と2人、標題の映画を見た。浅田次郎さん原作「五郎治殿御始末」の中から40頁弱の短編が2時間の映画になったもの。
 最終回の上映だったせいもあり、埋まっている席はチラホラ。男性一人で観に来ている方が殆どで、ちょっとびっくりした。最近とみに涙もろい夫についていえば、最後は目が真っ赤だった。
 私は単純に、原作も読まずにただ好きな俳優が準主役ということで、観なければ!と思っていたのだけれど、思いのほかいろいろ考えさせられてしまった。

 主人公・志村金吾は、桜田門外の変で「命をかけてお守りします」と誓った主君・井伊直弼の殺害を許してしまった彦根藩士・御駕籠回り近習役。息子に良い嫁を迎え、安心して隠居に入った幸せな生活が一変。息子の不始末の責任をとって父は切腹、母は喉を突き、と各々自害する。が、金吾本人は切腹すらさせてももらえない。
 仇討をし、刺客らの首を主君の墓前に届けに来いという御下命がくだる。以後13年もの間、明治維新を迎えてもなお、髷を結い、刀を差したままの姿でひたすら刺客を探し続ける。いわば生き恥を晒しつつ、生計も妻に支えてもらいながら。
 もちろん、本壊を遂げれば、その後に待っているのは切腹であり、その妻も夫の後を追うだろうという筋書きが透けて見える。どちらに転んでも自害が待っているにもかかわらず、延々と蛇の生殺し状態が続くわけである。

 そして、水戸藩浪士の最後のひとりこそ、今や車引きをしながらひっそりと長屋で一人暮らしをしている直吉こと佐橋十兵衛。濃い顔立ちと背の高さが何とも主人公より際立ってしまうのだけれど、実にいい役者さんになったなあ・・・と改めて贔屓の引き倒しを自認する私である。

 おりしも、佐世保事件の女子高校生の父・自殺という報道があり、なんとも言えない想いを抱いた。最近「私は生きていてもいいのでしょうか」と落ち込んでいたというが・・・。
 もちろん、殺人という取り返しのつかない罪を犯してしまった少女は、決して許されるものではない。けれど、誤解を恐れずに言えば、何があろうと最後まで自分の応援団であろう筈の両親を相次いで喪い-最大の理解者であったという母を病で、そして今度は父を自らが起こしてしまったことがきっかけで死に追いやり-、これから彼女とその兄はどういう人生を歩んでいくのだろう・・・と想うと、なんとも言葉がない。

 色々なものを背負いながら生きていくことは辛く切ないことだ。生き恥を晒してまで生きてはいられないということだろうか。けれど、生きていくということは、もろもろひっくるめて恥ずかしいことが山ほどあるわけだ。それでも生かされている身であれば、やはり生きていかなければならないと思うのだけれど・・・。

 この映画では、運命の二人が対峙する日に太政官令が布告され、まさにその日から仇討禁止となる。お互いにいくらでも相手を斬ることが出来た状況で、敢えてそれをしない。二人は別れた後、金吾は、夫は生きては帰ってこないと覚悟していた妻を迎えに行き、直吉は、同じ長屋に住む、彼を密かに慕い、彼自身も憎からず思っている寡婦に、自分に懐いている彼女の子供とともに湯島天神の縁日に誘う。
 そう、2人がこれから前を向いて生きていくことを選んだという静かな決意が見られた。だからこそ、人はそれでも生きていくのだ、ということをより一層尊く感じられたように思うのである。
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2014.10.6 再発してもこれまで通り生きるために~イデアフォー通信第92号より~その3

2014-10-06 21:19:34 | イデアフォー
 引き続き、イデアフォー通信第92号より、3回目。今日の転載記事は、就業トピックについての後半である。

※   ※   ※(転載開始)

(3)私にとっての就業継続メリット
 これは病気になってからに限ったことではありませんが、家庭以外にも自分の机がある(自分の居場所がある)ことの幸せを有難く思っています。○○さんの奥さん、○○君のお母さんではなく、一人の社会人として○○さんと呼んでもらえる自分の存在(アイデンティティ)の大切さを強く感じます。がん患者であっても、そうした社会でのあり方を諦めて、早々に隠居する必要は全くないと思います。自分が、家族はもとより社会に必要とされている存在であるということ、社会と繋がっているという幸せを実感できることは、私にとって代え難いものです。
 そして、治療や体調の不良で落ち込んだ時にも、仕事があれば家で引き籠ってネットサーフィンをしつつ不安になっていくという、負のスパイラルに陥ることがありません。仕事は、前向きに治療を続けていくうえでの気分転換に寄与することが大きいわけです。
 仕事に出るとなれば、身だしなみにも気を抜けないでしょう。
 命が助かればいいじゃないか、外見は多少悪くなっても我慢しろ、という時代は終わりました。明るいがん患者であり続けるために、外見はとても大事なことだと考えます。いくつになっても女性ですから、お洒落することで気持ちも明るく前向きになります。脱毛(髪の毛だけでなく眉毛やまつ毛も全て欠損することにより、容貌は哀しいほど変わります。)や爪の落下、浮腫み等による容姿の衰えは、ある程度覚悟しているとはいえ、想像以上に落ち込むものです。けれど、仕事に出るとなれば、きちんと鏡を見て、その姿を受け容れ、いかに今までに近づけるかという努力もしなければなりません。
 私自身はもともとズボラなので、家にいたらかなりだらしなく、身なりも構わずに過ごしそうだという懸念があります。そうなってしまえば、気持ちもテンションも下がるのが目に見えています。この状況はエンドレスの治療を続けていく上で決してプラスではないと感じます。 

(4)就業継続のためのポイント
 治療を続けながら就業継続することのポイントとして私が思うことは、職場の理解、制度、そして家族や友人たちに支えられている事に対していつも感謝の気持ちを忘れないということです。出来ればその都度その都度、声に出して「ありがとう」を言って過ごしたいと思っています。
 再発後の治療が目指すところは、完治ではありません。延命治療といってしまうと、ちょっと言葉が強すぎるように思いますが、要は少しでも長く今の生活(QOL)を継続出来るようにすることです。
 そのため、私は常に自分の軟弱な体と相談しながら、副作用の為に入院を余儀なくされるようなキツい治療を延々と続けることなく、だましだまし、よく言えばメリハリを付けながらやってきています。なぜならば、出来るだけ長く今まで通り働き続けることが、今の私にとって一番の目標だからです。治療の副作用の為に、入院したり、寝込んだりすることが多ければ、それはQOLを保っている治療とはいえません。
 このことについては、6年半余のお付き合いになる今の主治医が理解してくださっていることにとても感謝しています。これまで数種類の抗がん剤治療を経験してきましたが、私の身体にとっては全てにおいて規定量だと多すぎるようです。ありとあらゆる副作用が出現し、1クール目で体が悲鳴をあげてすぐに緊急入院になってしまいます。これまでの経験では、規定量の8割以下で充分効き目があり、今内服中のタイケルブはゼローダとの併用もなく単剤4割で奏功している模様です。そうはいうものの、やはり実際試してみなければどのくらいの副作用が出るものかわからないですから、初回は規定量から始めるしかないのですが・・・。
 こうした状況で、細く長くしぶとく(これが私の人生~仕事も趣味も含め~においてのモットーです。)治療を続けていくために、そして、気持ちを前向きにキープするために、私にとって仕事は不可欠な存在です。もちろん綺麗事ではなく、高額な治療費が、生きている限りエンドレスにかかるのです。霞を食べて生きていけるわけではありません。経済面でも仕事は不可欠だと思っています。新薬は多額の開発費がかかっているため、どれも目が飛び出るほど高額です。が、せっかく効くとわかっている薬が使える環境になった時、金の切れ目が治療の切れ目、ひいては命の切れ目になるのではあまりに悔しいではありませんか。

(5)再発後の過ごし方
 残念ながら、今もなお“再発した=即・死が待っている”というのが社会の一般的な認識のようですが、それは全くの誤解です。冷静に考えて頂ければ、今日普通に仕事をしていた人が、再発が判明した翌日から治療以外何も出来なくなる、死の床に就く、などということはあまりに荒唐無稽な話です。実際には年単位、長丁場の治療が待っているのです。
 そして、今やかつてのように入院治療をすることは殆どなく、外来通院治療をしながら仕事継続が十分可能な時代になっています。初発で職を辞し、治療専念という方はそう多くはいらっしゃらないでしょうが、再発したからといって退職することなど、今や全くの早計だと思います。一旦辞めてしまうと、よほどの資格や特技等がない限り、これまで以上、はおろかこれまでと同等の条件で再就職することは厳しいと思います。ですから、どうかしぶとくしがみついて、利用出来る制度は全て利用してでも、治療を続けて頂きたいと思います。
 繰り返しますが、次々に新しい薬が使えるようになっているのです。完治が難しいとはいえ、まだまだ手を替え品を替え、大切に薬を使っていけば長期間凌げるわけです。ですから、希望は決して捨てないでいたいと思います。
 もちろん無理は禁物ですから、残業は極力避け限られた勤務時間の中で集中して仕事を片付けることが大切です。そうすれば、家事も趣味も十分に行えると思います。

 現に私は、再発してからの方が、日々の時間を大切に有意義に使えているのではないかと自負しています。私なりに今、与えられた時間を穏やかに丁寧に送れるよう努力しているつもりです。身体と相談しながらやりたいことは後回しにしない、逢いたい人には少し無理をしても逢っておく、全てにおいて後悔しないように努めて過ごしています。

(6)日常生活について
 私の、仕事、読書、映画、ヨガ、合唱時々家事(笑)に勤しむ欲張りな毎日は、私が入会している患者会(あけぼの会)のHPに連載していた“再発患者の治療日記”から端を発したブログ「ロッキングチェアに揺られて」(http://blog.goo.ne.jp/in-a-rockingchair)において、ほぼ毎日、発信を続けています。この10月で開設から5年を迎え、記事の数は1,500を超えています。
 もしご興味がありましたら、是非一度ご訪問ください。
 再発患者がいきなり死の床につき、これまでのような普通の生活を送ることは出来なくなる、病人生活を送らざるを得なくなるということが全くの誤解であるということがお分かり頂けるのではないかと思います。
 一人でも多くの再発患者の方が、踏みとどまって就労を続けて頂きたいと思います。再発治療中であっても条件さえ整えば、十分普通に働くことが出来るのだ、ということを一人でも多くの方に分かって頂けるよう、社会の意識改革の一助になるよう、これからも細く長くしぶとく働き続けていきたいと思います。

(転載終了)※   ※   ※

(次回に続きます。)

 今日は台風18号が東京を直撃した影響で、出勤時は暴風雨。勤務する大学では結局1日休講になった。夫は早目に家を出たけれど、到着はいつもより1時間遅れ。2時間半以上かかって流石にぐったりだったようだ。私も午前中別々の建物で2つの会議。台風の影響で開始時間が遅れ、事務室を出たり入ったり、コートを脱いだり着たりと落ち着かず、ぐったり。
 が、昼過ぎには朝の荒天はどこへやら、台風一過の青空になり、汗ばむほどになった。朝はお助けマンだったレインコートもレインブーツも雨傘も、帰途にはすっかりお荷物になってしまった。とはいえ、美しい夕焼け空ともうすぐ満月の綺麗なお月様も拝むことが出来た。
 終わりよければ全て良し、の1週間の始まりである。


 
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2014.10.5 台風接近、それでも合唱練習へ

2014-10-05 21:09:10 | 合唱
 あっという間に土日も終了。サザエさん症候群の時間である。

 昨日は洗濯の後、月1回のお楽しみであるリフレクソロジーサロンへ向かい、下半身すっきりコースとハンドリフレの施術で、すっかりリラックスすることが出来た。午後はヨガベーシックのクラスに参加し、午前中ほぐしてもらったおかげで、発汗もたっぷり。メンテナンスバッチリの土曜日を過ごした。

 そして、今日。
 折悪く台風18号の接近で雨風が強くなりそうな中、掃除を済ませ、レインコートとレインブーツに風に強いという触れ込みの傘の重装備で、都心の合唱練習場へ向かった。再来週を本番に控え、後は来週の月曜日、先生によるご指導の下、モダンジャズトリオとの合同練習を残すのみである。
 夫曰く、「こんな日にわざわざ行かなくても・・・」。まあ、確かにそうに違いないけれど、皆が皆、そう思って行かなかったら練習は成り立たない。「練習に行かなければ歌えないじゃない!」と応じると「じゃあ、舞台で口パクしていたっていいじゃない」とのたまう。うーん、それこそ皆が、自信がないから自分だけは口パクで、などと思い始めたら、それこそ舞台は成り立たない。いや、そもそも、わざわざ参加する意味がなくなってしまうではないか。

 この辺りの練習と本番の兼ね合いが難しいものだ、としみじみ思う。ここ数年参加しているOB・OG合唱団は、あくまでも現役時代と同じ指揮者の先生のご指導の下、ホームカミングデーの小さな舞台に乗ることが目的で、夏の期間限定、10回ほどの練習を経て15分×2回の本番を迎えるものだ。だからこそ、私のような「大学卒業(合唱団卒団)以降四半世紀の間、カラオケさえもろくに歌っていませんでした」というトホホな立場でも参加させて頂けているわけだ。
 これが、たとえアマチュアとはいえ正式な合唱団に入団となれば、毎週コンスタントな練習がオールシーズン続くわけで、演奏会等があれば当然、チケット負担やら何やら、時間的にも経済的にもかなりの縛りが出てくる活動になる。

 今年は10回ある練習のうち、ヨガリトリート、京都旅行、関西旅行以外はこの合唱練習を最優先にして、なんとか7割出席率にもってこられた。しかし、仕事や家庭、さらには他の合唱団を掛け持ちという状況だとなかなか練習に参加出来ず、自主練習がメインになっているメンバーも少なくない。
 他の合唱団に所属していれば、私のように「歌うのは年に3か月、この合唱団でだけです」などと言ってはおられず、歌ったことがない曲はそれなりに歌い込んで慣れることも必要だから、大変なものである。この合唱団の“緩さ”が心地よいと思っていたけれど、殆ど練習に出てこないで舞台に乗ることになる方々は大丈夫かしら・・・と余計なお世話を想ってしまう。

 今日は全パート3~4名、合計20名にも足りず。それぞれの曲で上下に分かれる時には殆どソロ状態。なんとも哀しい限りだった。先輩指揮者から1回の休憩を挟み、ミッチリ4時間弱。前半は外国曲、後半はジャズミサをご指導頂く。喉はガラガラで疲労困憊。顎が出ている。本番では、現役が最大20数名助っ人に入ってくれるそうだけれど。

 当日のタイムスケジュールは来週確定とのことで、暫定版を頂いてきた。一昨年はEC副作用のため退院したばかりで、最後まで歌い切ることが出来るかどうかかなり不安だったけれど、今年は度重なる台風にもめげず、練習に行こう!という気になるのだから、本当に体調が良いのだろう。

 今年が最後かもしれない、と思い続けてこれで5回目の参加。
 2週間後の今頃、やれるだけやった、と満ち足りた笑顔になっていたいものである。
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