散日拾遺

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神田紅 ⇒ 塙保己一 ⇒ ヘレン・ケラー

2014-11-20 06:02:42 | 日記

2014年11月20日(木)

 先週の土曜日は久しぶりに仕事のない土曜日で(!)、家で過ごした後、夜には Coro sono の定演を聞きに行った。4年生の次男の最後の機会だというんだが、家族は誰も信用していない。来年は大学院生として歌ってるんだろう。

 若者の歌声で良い心持ちに腹が減り、往路に見つけておいた台湾料理屋で夕飯にした。店名に「客家(はっか)」の語が入っている。そうか、台湾には客家の人々が多く入っているのだった。広々としつらえた壁にお決まりのごとく有名人の色紙、その中に講談の神田紅(かんだ・くれない)の名前がある。「荻窪講談紅の会」というのを10年近くも続けており、この店を贔屓にしているんだそうだ。

 おばちゃんのくれたチラシで演題を見ていたら、中に『塙保己一』というのがある。

 「あのヘレン・ケラーにも影響を与えた江戸時代の偉人。たった一人で上京した少年辰之助の時代から総検校に登りつめる迄の出世物語」・・・ん?

 

 総検校は江戸時代の盲人官職の最高位、この時代に盲人が一定のあり方で尊重され、重用もされたことについては、一度ふりかえっておかないといけない。明治維新以降、そうした側面はいったん後退したのではないかと思われる。制度を詳しく調べるまでもなく、盲目の偉人の名がいくつも僕らのところまで伝わっている。八橋検校をはじめとする邦楽で特に顕著だが、面白いところでは石田流三間飛車を編み出した将棋指しの石田検校がある。(囲碁にはいない。さすがに難しそうだが、黒白を触って弁別できる道具を使えば、案外わからないと思う。うん、わからないよ。)

 そして塙保己一だ。延享3(1746)年~文政4(1821)年、江戸時代の盲目の国学者。『群書類従』『続群書類従う』の編纂で知られる。短期ながら賀茂真淵に教えを受け、門人に平田篤胤や頼山陽がいる。『群書類従』の版木を20字×20行に統一したのが原稿用紙の起源になったとか、『源氏物語』の講義中に風でロウソクの火が消え、弟子達があわてたところ、「目あきとは不自由なものじゃ」と笑ったとか、逸話も多い。

 偉人に違いないが、ヘレン・ケラーだって?もちろん、あのヘレン・ケラー(1880-1968)だ。

 半信半疑で検索してみたら、あったよ・・・

 

【ヘレン・ケラー温故学会を訪問】

 三重苦のヘレン・ケラーが塙保己一を顕彰する社団法人温故学会を訪れたのは、昭和12年4月26日のことだった。

 午後4時すこし前、2台の自動車が玄関に横づけされ、トムソン嬢に介添えされたケラーは静かに敷石の上に降り立った。

 温故女学院の生徒や関係者一同が歓迎するなか、理事長斎藤茂三郎が先導し、通訳森岡正陽、関西大学教授岩橋武夫夫妻らと共に、版木倉庫から講堂へと進んだ。

 講堂に入ると、「塙保己一像」や「塙保己一愛用の机」に触れ、トムソン嬢とケラーの指とがしきりに動いて会話している。満員の参加者は何事も見逃すまいとこの光景を眺めていた。

 かくして、心ゆくまで保己一の偉業に接したケラーはトムソン嬢から森岡通訳を経て、次のように感想を述べた。

 「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

 (塙保己一資料館: http://www.onkogakkai.com/hellen_keller.htm)

 

  驚いた。そして嬉しいことだ。しかし、ヘレンの母は、誰から塙のことを聞いたのだろう?そしてその人物はまた、どこからどうやって?