散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日曜日 ~ 素敵な父娘

2015-06-03 22:37:14 | 日記

2015年5月31日(日)

 

 礼拝に行けない。行くことができない事情がある。

 

 礼拝に行かずに碁を打ちに行くという法があるか?

 これは問題の立て方が違う。事情があって礼拝に行けなかった。それとコミではなく、午後は午後の事情として出かけることができた。だから行ったのだ、そう言っておく。

 

 で、何しろ午後から碁楽会に出かける。ところがそもそも出だしから間違えていて、会は13時から始まっているのを14時からと思い込み、14時10分に会場に着いた。そのぐらい久しぶりではあったのだ。皆、対局真っ最中である。一事が万事さ。

 

 年配の男性ばかり20人ほども夢中で打っている中に、一人だけ立って対局を見ている人がある。しかもこれが若い女性というのが、妙といえば妙なんだろうが、芸事に男も女もない。

 東大相撲部の父たるH君、先日のT君壮行会の席上、「最近、女性が相撲の稽古に来ている」と話してくれた。倒錯も猟奇もありはしない、相撲を見ているうちに自分でもとりたくなって、稽古をつけてもらいに門を叩いたというのである。こういう素朴な熱意が、案外あっさりと隔ての中垣を乗り越えるのだ。

 

 「お手すきでしたら、お相手願えませんか?」と型通り声をかける。

 「あ、はい」と振り向いたのは、学生と見えるお嬢さんである。こちらの名前を聞いて持ち点を確かめ、対局カードを裏返して「手合いは・・・」と計算している。少し混乱した風で、対局中のFさんに声をかけた。

 「お父さん、これって・・・」

 

 お父さん?

 Fさんのお嬢さんか。

 まじまじ見比べてしまった。不思議だなあ・・・

 

 「ああ石丸さん、今日は来られないかと思いました。こちらのYさんと打っていただきたいのですが、いま対局中なので時間つなぎにM子と、ええ、すぐに終わるでしょうから。」

 

 M子さんは初段だそうで、持ち点差を数えて4子局と決まる。4つも置かせるなんて、外では初めてだ。

 で、打ち始めてみて、

 笑ってしまった。どうしてこのお嬢さんが初段であるものか。

 久しぶりと見えて立ち上がりこそ凡ミスで石を取られたりしたが、その後の打ち方の見事なこと。接近すればダメヅマリをとがめて巧みに逃れ、部分的に非勢と見ると素早く戦線を転換し、いよいよ石が競り合ってくれば確かな読みで応じ、筋が良いったらないのである。

 

 率直に伺いますが・・・

 「あなた、本当に初段ですか?」

 「え?はい、初段か、それとも2級ぐらい」

 「ははは、バカ言っちゃいけません。こんな初段いませんよ、私が弱すぎるのでないとしたら、あなたが強すぎます。」

 「ありがとうございます。」

 赤くなってぺこりと頭を下げ、どこまでも礼儀正しい。剰え、石の端を盤につけ、パチっと弾く動作が歯切れよく清々しい。僕にできない指先使いである。

 「手ほどきはお父さんに受けたのですか?」

 「え、あの、学校っていうか、塾に通ってたんです、緑星学園に。」

 絶句した。緑星学園はアマ強豪の菊池康郎氏が創設した囲碁教室で、山下敬吾、青木喜久代、溝上知親、加藤充志など一流プロを輩出している。筋もマナーも良いのは当然だ。

 

 中央の折衝で大きな損をして、形勢ははっきり悪い。それでも投げなかったのは、このお嬢さんの打ち筋を最後まで見せてもらって学びたかったからである。作って盤面20目近い負け。

 「ありがとうございました」

 「ありがとうございました」

 

 最後まで礼儀正しい彼女が、盤を片づけもせずFさんのところへ飛んでいった。少し興奮気味に、どうやら今の碁の報告をしているらしい。

 「すごくきれいな碁」

 きれいという言葉を繰り返すのが、部屋の反対側まで聞こえてくる。ああ、そうだった、来てよかった。

 これが自分の碁だったのだ。

 

 自慢ではない、というのも、僕には正直なところ、どのへんがどうきれいなのか分からないのである。分からないが、この言葉を繰り返しもらって励まされてきた。最初は石倉教室のインストラクターで元全日本女子アマ王者のOさん、次に同教室に手伝いに来た台湾出身のOプロ、さらに放送大学のFさん、他にも何人か。その都度、実に嬉しく励みになったのだ。

 自慢ではないというのは、もうひとつ理由がある。「きれい」というのは無論、一般審美論的な「きれい」ではなく、棋理に照らしての機能美のことだ。だから本当にそれほど打ち筋が「きれい」なら、もっと強いはずなのである。実際には僕はそんなに強くない。それは主に、手どころで単純な読み抜けや勘違いが多いのが原因と思われる。

 

 そういえば、

 

 僕は小学校の時分から、計算間違いの多い子どもだった。難しい応用問題は解けるのに、サービス問題のような計算を必ず一つや二つは間違える。「もったいないことを」と父に何度叱られても直らず、長じては予備校の公開模試でも1たす1を3にしてしまい、1点差で全国一位を逃したりした。

 注意力の不足、と、ずっと自分を責めてきたけれども、最近思うのは、これが自分の「発達凸凹(デコボコ)」ではないかということである。何かの取り柄と引き換えに支払っている、これが僕の代償なのだ。

 

 だから、

 

 きれいな、おおらかな碁を打ちたいし、打てば良い。緑星学園仕込みのお嬢さんが、またも裏書してくれたんだから。厚く打って追い込むじっくりした碁を打って、それで地が足りなければ仕方ながない。

 30分ほど時間があり、今度はFさんにこちらが5子置いて時間のあるだけ打ってもらった。望んだ通りの碁になった。

 

 お嬢さんは美大の4年で、就職活動や卒業制作で忙しい合間に、久々の碁を打ちに来たのだという。彼女に初段を命じたのはFさんの裏返しの親バカというもので、普通の碁会所で初段で打ったら相手が怒ってしまうに違いない。

 でも、本当はそれぐらいで良いのかもしれないね。江戸時代などと比べれば、今の段級位のインフレぶりは目に余る。プロも同じで、将棋の九段は数えるほどしかいないのに、碁では初段より九段の方が多いのだ。

 僕もいいとこ初段、それで十分だ。

 

 お嬢さんはFさんをしきりにクサしながら、そばを離れず何やかやと手伝っている。大好きなのだね、お父さんが。

 

 いい父娘に出会った。

 猛暑の帰り道、夕空を見上げて久しぶりに気持ちよく伸びをした。


土曜日③ ~ 実はてんこ盛りだった一日

2015-06-03 21:53:56 | 日記

2015年5月30日(土)

 

 暑さと心理的視野狭窄のため、その時は気づいていなかったが、結構いろんなことがこの一日に起きている。

 

 午前中に "Paradigms Lost" の訳本が届いた。怖くてページが開けない。

 こんなにも早く、しかしそうか、来週の精神神経学会に間に合わせるため、無理を押して作業を進めてきたんだもんな。

 僕はほとんど何もしていない。同労者たちの尽力の賜物である。だからこそ、これが少しでも何かの足しになることを切に祈る。

 

 やはり午前中、田舎から荷物が届いた。一便一便に超高齢の両親の祈りがこもっている。僕らの生を支えるのは、誰かの祈りを置いて他にない。祈られずに生き続けられるものはいない。祈りを必要としないものはいない。祈らずに生きられるものはいない。

 生きるとは祈ることである。それに気づいていないだけだ。

 

 これまた午前中、碁楽会のFさんから電話、6月14日は大会なので是非、と。

 不思議なんだな、これが。僕は碁が好きだが、そんなに強いわけでもなし、僕一人行かなくても彼は少しも困らない。それがこれでもう両三度、何かしら口実を見つけては誘ってくれる。

 これ既にひとつの伝道だ。この人は棋道に魅入られており、脈のある者を一人たりとも漏らしたくないのである。

 「明日は行けると思います」とは、リップサービスではなく、手帳を見ながら考えていたことだった。対局したい、特に、上手い人に教えてもらいたい。

 

 その同じ夕方、通夜に向け更衣のためいったん帰宅の際、石倉先生から封書が届いていた。何事かと思えば、何事でもない。それが驚きである。

 順を追って言うと、年賀状を下さって「近々NHK杯の解説をするのでぜひ御覧いただきたい」と御案内あり。その後3月末までに2回の御登壇あり、お礼と感想をハガキで書き送ったのに対して返事を下さったのだ。

 これはしかし、何でもないことではない。彼はこの領域では超売れっ子で、多数の連載記事に金曜・土曜の講座の主宰、東大の講師まで勤めていて時間は何より貴重なはずである。便箋2枚にわたり、簡潔ながら温かみある文面を追って、あらためて敬服した。

 明日は、碁楽会に行ってみようかな、やっぱり。

 

 ところで、僕はこれまで経験のない変調をきたしている。この寝坊助が、なぜか眠れない、寝つけないのである。

 原因の一半はわかっているが、だからといって眠れない理由はやはりわからない。

 なぜだ、どうした?

 

 


土曜日② ~ 通夜

2015-06-03 17:58:47 | 日記

2015年5月30日(土)

 

 いったん帰宅して着替え、通夜に出かける。斎場は東急線沿いにあり、我が家からはものの30分だ。

 

 東急線に乗り込むと、目の前に家族連れがいる。若い両親は僕同様の葬儀仕様で、3歳かそこらの男の子に絵本をもたせて連れている。男の子の頭越しに、何やら談笑する風である。

 「不謹慎」という言葉がちらりと浮かぶが、それを言っては気の毒だ。若い両親が幼い息子を連れて出かけ、多くの知人と顔を合わせようというのである。幸せは抑えようもなく滲むだろう。自分にもそんなことがあったような気がする。

 それとは別に、ちらりと思うことがあった。

 

 最寄駅で降りるが早いか、ひとり同級生を見つけた。たぶん卒業以来、30年ぶりである。またひとり、道で追いついてきた。こちらは何かの時に一度会っている。

 斎場に近づき、会場に入る道をたどるにつれ、同級生の塊が着実に膨らんでいく。会場の入口では、訃報を回してくれたA君ともう一人が受付に立っている。

 予想通り霊前同窓会といった様子で、これが故人の功徳というものだろう。葬儀は常に生き残った者のために行われる。そのことを最初に考えさせてくれたのは、伊丹十三の『お葬式』だった。

 

 仏式なので、行列して焼香するばかりである。

 次第に近づく会場を見ながら、隣の友人が「棺が遠いな、顔は見られないかもしれませんよ」と残念そうに言う。その発想が僕にはなく、内心ちょっと驚いた。

 Y君の家族構成を僕は知らない。皆も知らないようである。高校の夏の制服姿で焼香者に答礼する少年たちが、おそらく遺児なのだろう。あらためて故人の胸中を思う。

 

 階上の別室で故人を偲んで飲食を共にする。いわゆる「通夜振る舞い」である。

 「・・・誘われた場合、快くお受けするのがマナーですが、あまり長居をせず、お話は、故人やご遺族に関係する事のみに留めます。ましてや、宴席ではないので、お酒を飲みすぎて騒ぐ事のないようにします。」

 (みんなのお葬式 www.minnanoosousiki.com/staff_blog/2014/11_09.html#20141122b)

 

 つごう20名ほども集まっただろうか、明日の本葬に出席する者もあわせれば、100名ほどの同期生の中では相当の数である。Y君が野球部に所属していたことを、僕は初めて知った。そういえば彼の出身高校は国立大学付属の名門進学校だが、その昔、甲子園に出場したことがある。どんなポジションでどんなプレーをしていたか、それを語れる者は残念ながらなかった。

 

 新潟のH君が、ちょうど東京滞在中に訃報を聞いて出席している。彼が立つのにあわせて僕も早めに辞去した。出がけに、小さな男の子を取り囲んで和やかな輪ができている横を通った。

 電車の中で見かけた家族連れである。皮膚科教室の後輩だったのだね。

 H君から、御母堂や子どもさんたちの近況を聞くことができた。Y君のおかげだ。

 

 


土曜日① ~ ベトナムからの旅行者

2015-06-03 17:54:44 | 日記

2015年5月30日(土)

 

 予定あり、上野へ出かける。

 帰り道、入谷口改札へ登っていく階段の下でリュックを背負った若い女性が二人、通りすがりの婦人に何か尋ねている。今時の日本の若者に交じれば、二人ともかなり小柄である。明るい大きな声で、少したどたどしいが丁寧な日本語が聞こえる。

 近づくにつれ、日に焼けて人懐こい丸顔が見えてきた。上野公園へ行きたいらしい。

 訊かれた婦人は親切に教え、訊いた女性らは「ありがとうございます」を繰り返して何度も頭を下げる。

 

 同じ方向なので、階段で並んだ時に「上がって左へ、すぐですよ」と口添えすると、また丁寧に礼を言ってお辞儀する。自前の習俗か、日本ではそうするよう教わってきたのか、ひたするら慇懃で頭が低い。

 

 どこから来たのかな、マレー系ではなさそうだし、タイ人とも違うようだ。

 「ベトナムから来ました。」

 「ようこそ、ベトナムはホーチミンからですか?」

 「そうです。」

 そう答えてから考え顔になり、

 「ベトナムに行ったこと、ありますか?」

 

 行かなくても、ホーチミン市ぐらい日本人なら誰でも知ってるよと言いたいが、おそらく嘘になるんだろう。それより僕は「サイゴン」と言いかけて呑み込み、「ホーチミン」に変換した自分の年齢を思った。

 

 「ないです。行ってみたいけれど、まだね。アオザイを着たベトナムの女性たちは、きれいでしょう。」

 

 伝わったかどうか、わからない。また何度か礼を言いながら、彼女らの関心は前へ向かっている。

 「あ、ほら書いてあるよ、パンダって。こっちだ!」

 二人でもつれるように、動物園目指して駆けていった。

 

***

 

 小学生の頃、毎日のニュースでベトナムの戦争が語られない日は稀だった。

 ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の攻勢が激しさを増した。旧正月で一時停戦があった。B52がハノイ周辺に激しい空爆を加えた。B52は沖縄・嘉手納から飛び立っている。激戦でユエの王城が破壊に瀕している。ベトコンがサイゴンに迫った・・・

 

 開高健が『輝ける闇』の中で、主人公とアメリカ軍将校との会話を記していたと思う。将校はこの戦争を、共産主義に対して民主主義を守るものと位置づけ、その認識が日本人に共有されないことを訝しむ。主人公は、多くの人々に「超大国アメリカがアジアの小国をいたぶっている」と映ることを指摘する。確かそんな趣旨だったが、記憶が怪しい。

 記憶はさておき、またあらゆる重要なディテールまでもさておいて、「超大国アメリカ vs アジアの小国ベトナム」という図式は確かにある説得力をもったのだ。それは一般的な判官贔屓の次元を超えた根をもっている。歴史の現実と重ねるのは気が引けるけれど、例の悪名高い『地獄の黙示録』のジェットヘリ突撃の場面で、攻撃されるベトナム人の側に完全に同一化している自分を見出したときは、自分でも驚いた。イメージの中でその場面は、1945年冬から夏までの日本の光景とオーバーラップしていた。体が震え、涙が出た。

 

 ベトコンがサイゴンを制圧して勝利をおさめたとき、理屈抜きに快哉を叫ぶものが自分の内にあったことを否めない。日本は焦土になり、アメリカに敗れた。ベトナムは焦土になったが、アメリカを撃退した。

 レ・ドク・トだったと思うが、「あれほどの被害が出ると知っていたら、たとえ勝てるとわかっていても戦争には踏み切れなかっただろう」と後に述べている。これは坂本先生から国際政治学の授業の中で教わった。そういうものであるらしい。

 

 彼女らは20代も前半だろうか、すると戦争は彼女らの生まれる15年以上前に終わっている。僕にとっての日米戦争と、ほぼ同じ隔たりである。

 

 楽しんでください、日本を、平和を。


金曜日 ~ ある暴走者

2015-06-03 16:56:07 | 日記

2015年5月29日(金)

 

 え、調子はいいです、大丈夫です。薬がないと寝られませんけど、薬がある限りは別にこれといって。

 ただ、台風が来たりしたんで首が痛んで・・・え、わたし言ってませんでした?ムチウチがあるんです。

 頚椎の2番から出る神経が圧迫されて痛むらしいです。

 

 あれはですね、ずいぶん前です。130kmでガードレールにぶつけちゃって。

 え?はい、一般道です。まさか、ここらじゃないですよ、遠く離れた田舎です。

 ええ一人で、ちょっと急ぐ用事があったもんだから、「早く来て」とかって、ふふ。

 いちおう救急車で運ばれましたけど、かすり傷一つなくてそのまま帰されました。

 翌日起きたら、全身が痛くて閉口しましたけど。

 それでムチウチ、はい。

 

 車種?Lxxxです、ええ、安くはなかったですね。一発廃車です。

 業者が車を見て、「これに乗ってた人は助からなかったよね?」って。

 いえ、お酒は飲んでませんでした。この時はね、確かにシラフでした。

 ただ、すごく急いでたんです。

 それだけです。

 

***

 

 用事はどうなったんだろうと、後で思った。