2015年6月11日(木)
孤独死などというが、問題は孤独生 ~ 孤独な生のほうなのだ。
つい最近見たフレーズだが、誰がどういう文脈で言ったのだったか、もう忘れた。
見たその時に、書きとめておかないと。
・・・思い出すぞ、ゼッタイ。
2015年6月11日(木)
孤独死などというが、問題は孤独生 ~ 孤独な生のほうなのだ。
つい最近見たフレーズだが、誰がどういう文脈で言ったのだったか、もう忘れた。
見たその時に、書きとめておかないと。
・・・思い出すぞ、ゼッタイ。
2015年6月11日(木)
今日の仕事を始める前に、もうひとつだけ。
軽い発達障害 ~ 例の「発達デコボコ」とでも表現した方が良いぐらいの、「障害」というよりは「特性」というぐらいのもの ~ を抱えた人が、それゆえに適応障害を起こして抑うつ症状を呈するケースを、最近よく目にする。
背景をなす問題が長期持続的なものであるから、「うつ」の経過も当然ながら遷延しがちである。
これまた「うつ病」問題の一つだ。あるいは「成人の発達障害」問題の一側面である。
うつ病ぐらいのメジャーな問題になると偉い専門家は大勢いるから、自分などが言挙げする余地はないと思うのだが、すっきりと展望したものは案外少ない。この種の問題を抱えた人々の援助となると、いよいよもって寒い状況である。
「今かかっている先生は、うつ病は治療してくれるけれど発達障害が分からないようなので」
と流れてくる人が数件続いた。
まさか、分からないわけではないはずで(あるいは、本当に「分かっている」人間はそうそういないはずで)、僕なども事情は変わらない。そのあたりの事情を率直に伝えることから始め、そろそろ先へ進みたいのである。
うつ病の専門家と発達障害の専門家のシンポジウム/ガチンコトークなどというのも、既に行われているんだろう。
2015年6月11日(木)
これは面白い表現だ。
「本当の自信がないので、絶えず自己宣伝を繰り返す」といった意味合いなんだろうから、結局は「自信のもてない人」といえば済むはずなんだが、本当の自信とカッコ付きの「自信」を注釈なしで接続する例の手法である。
「自信がないのではなく、自分を信じていない」
あるいは
「自信はあるが、自分を信じられない」
といった表現を考えてみたことがある。これも一脈通じるものだが、ずいぶん昔のことだ。
今は、少なくとも自分のことについて、そういう言い方はしないかな。
どだい自分は信用ならない。信ずべきは自分自身ではなく、自分の外にあり自分の内にありながら自分ではないもの、
他者 ~ 大いなる他者である。
そういう自分は、外からはどう見えるのだろう?
土曜日の準備をしなっくちゃ。