散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

形あるものは

2015-06-23 09:38:25 | 日記

2015年6月23日(火)

 自分が大切にしているもの、たとえば置き物があったりする。それを大切に思えば思うほど、いつかそれが壊れ砕ける時の来るのが恐ろしくてならない。愛おしさと恐れがこもごも入り混じった気持ちで眺めるうち、いっそ自分の手でそれを壊してしまおうかと、そんな衝動が湧いてくる。そういったアンビバレンスも、人の心にはあるような気がする。

 1972年の3月頃、僕としては後にも先にも一度だけ、美術の先生からも級友からも絶賛を博した粘土像 ~ たまたま隣に座っていた友人の頭部 ~ をベランダに持ち出して砕いたとき、あるいはそんな気持ちが働いていただろうか。

 今なら、そうは考えない。砕けるなら、僕がいなくなった後にしてくれ。壊すものか、逃げきってやる・・・そんな感じかな。

 

 あれ、壊すんじゃなかった。ほんとに上手くできてたんだ。それに・・・

 違うな、あれは。壊したのはまた別の事情があったのだ。

 


テーマは「傾聴」

2015-06-23 09:09:17 | 日記

2015年6月23日(火)

 6月13日(土)の小講演の件、種明かしを忘れていた。テーマは「傾聴」だったのでした。

 画像を若干追加して再掲しておく。当日のレジュメもね。これらの画像から話の筋を再現できたら御喝采。

 当日、20~30人と聞かされていた来聴者は70人前後にのぼった。僕の功ではない、「傾聴」と「精神科医」というキーワードの組み合わせがアクセスを高めたのである。奇妙な時代ではある。

 「傾聴」を語るよりも、実践するがいい。むろん自分のことだ。

 

   

   

   

 

 


沖縄慰霊の日

2015-06-23 09:01:25 | 日記

2015年6月23日(火)

 今日がその日である。詳細は確か先年すでに書いた。

 『アイヌ学の夜明け』を読み始めていて、そこで思いがけず琉球/琉球学についての記述に多く触れている。個人的には昨2014年(平成26年)が「琉球とアイヌの年」で、この二つが結びつくことに何の違和感もないどころか、強い必然性を感じている。ただ、そのことに自分が初めて気づいたような錯覚を覚えるのが「殆(あやう)い」というのだ。(論語 為政第二 15)

 見る人は見ている。それに学ばないといけない。

 そして、現に見た人々からも。

 

 国中が祈る日でありますように。