散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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郵便ポスト/東京マラソン/恩田氏のルーツ

2017-03-08 10:37:53 | 日記

2017年3月7日(火)

 午後からA君のクリニックへ出かける日、最寄り駅に着いたのがいつもより1時間ほど早い。常はタクシーを使うところ、試しに歩いてみたら20分余りであっけなく到着した。もっと距離があるように感じていたが、2kmほどである。風にかすかに潮が香って海の近さが分かるなど、やはり歩いてみるものだ。旅先でいろんな歩き方をしてみたが、中でも気に入っているのは1982年春にドイツはリュベックの城壁に沿って、街を一周してみたことである。古代ギリシアのポリスなんぞと違い、中世の都市は近隣の農村との相互依存を前提として成立するから、案外小さいのだと何かで読んだ。その小ささを感じてみたかったのが一つ、もう一つの理由はトーマス・マンだった。

 歩いてもうひとつ得したこと、懐かしい筒型の郵便ポストに出会った。たばこ屋さんの前にあるのも良く、たばこ屋さんにはジュンペイ君が大好きなホーロー看板が出ている。

  遠くから・・・  近寄って・・・   ごあいさつ!

 だいぶくたびれている?などと言ったら「なにをっ!」と睨まれそうな存在感があるでしょう。嬉しいのはどうやら現に使われているらしいことで、集配時刻がちゃんと書かれている。ハガキがあったら出してみたかった。次回のお楽しみか。

***

 マラソン好きのA君は2月26日に東京マラソンを走ったところで、夕食はずっとその話になった。第一回大会の頃は僕もちょいちょいハーフなんぞを走っていたが、東京マラソンに応募する気になれなかったのは、石原都知事(当時)のやり方が腹に据えかねたからである。長い歴史のある青梅マラソンが例年この日と決めていた二月の日曜日に、東京マラソンをかまわずぶつけ、青梅マラソンのほうが日程を変更せねばならなくなった。あの御仁らしい傍若無人ではある。先の記者会見でも健在だった。

 「でも、死ぬまでに一回は走ってみたら」とA君。東京マラソンは制限時間が7時間だから、大半歩いて一部走るだけでも十分間に合う。現に完走率は96%とフルマラソンでは異例の高さ。東京の目抜き通りの車道の真ん中を、堂々闊歩する気分が最高だというのである。なるほどいいかもしれない。青梅の30kmは制限時間が3時間20分で僕は3時間10分ほどもかかり、ゴール直前では沿道から「そこ、止まるな、止まったら間に合わないぞ!」と声援をもらった。ジョグウォークと初めから決めれば、別の楽しみ方があるかもしれない。

 

2017年3月8日(水)

 会議前にうちあわせあり、事務担当者来訪。ついまたクセが出て・・・

 「つかぬことを伺いますが、群馬県の御出身ではありませんか?」

 「私は千葉ですが、父方の先祖が群馬と聞いています。」

 やっぱりそうか。これまでこの姓の人に3人出会ったが、すべて群馬県の出身者だった。ただ、かねがね分からないことがあると思っていたところへ、

 「家の伝説では、真田氏の家来だったとか申します」

 「あ!」

 なぜ気がつかなかったんだろう、それでつながった。分からなかったことというのは、『日暮硯』の著者・恩田木工(おんだ・もく)の存在で、彼は松代藩の家老つまり信州人である。松代藩は酒井氏・松平氏に続いて1622(元和8)年に真田信之(幸村の兄)が入り、真田氏が領して幕末に至った。もともと上州沼田に本拠のあった真田氏だから、家臣の恩田姓が群馬と長野にまたがって存在して何の不思議もない。

 おかげで朝からすっきりした気分である。

Ω


面接課題と父の宿題

2017-03-08 08:10:03 | 日記

2017年3月7日(火)

 三男が入試発表待ちの落ち着かない日々を送っている。偉いと思うのは、後期日程に備えて問題演習に余念のないことで、僕だったらそうはいかない、マンガか映画か小説なんぞにウツツを抜かしたに違いない。入試は一日目の筆記試験に続いて二日目に面接があった。そのお題というのが以下のようなものである。

1)級友が試験の不正行為で退学を申し渡された。友人たちが救済を求めて署名活動を始め、協力を頼まれた。君はどうする?

2)指導医である君がある患者を若手に割り当てたところ、「この疾患は過去に何度も担当しており勉強にならない、別の患者にしてほしい」といってきた。君はどうする?

3)ガン治療のために入院中の患者が、「知人が民間療法でガンを治した。自分もそうしたいので退院したい」と言ってきた。君はどうする?

 学生間、医師間、医師患者間にそれぞれ例をとり、モラルについて考えさせる設定である。大勢で入室してグループで待機するが、面接自体は三つの質問を三人の面接官が分担し、常に一対一で行われるのだと。グループ討論をさせたらさぞ面白かろうが、これは面接官側に相当の技量を要するチカラワザで、入試の合否判定に必要なレベルを超えている。単純な一問一答でも、さぞいろいろな答えがあったことだろう。

 面接が終わってもすぐに解散させてもらえない。別室で待たされ、一部の学生は再度呼ばれて追加の面接になるらしい。三人の面接官の評価が著しく異なる場合に行うのではないかと、当の受験生の推量である。

 僕に面白かったのは、三男が報告した彼の回答内容である。純粋であり潔癖でありウソや技巧が微塵もないが、やや一面的で柔軟性を欠くことは否めない。要するにいたって若々しく清々しいのだ。君ってそういう人柄だったのねと、刮目したのでもある。

***

 それで思い出した。最初の大学受験が終わって結果待ちのある日、出勤した父から電話がかかってきた。考えて、書いてみてほしいことがあるという。そのお題が、

1)人間とはどういうものか

2)農民とはどういうものか

3)日本人とはどういうものか

  というのである。受話器を置いて不思議な気がしたが、ひどく大事なものを投げかけられたのは確かだった。父は大学で農業経済を専攻し、金融の立場から農民援助と農業立国に取り組んできたから、「人間」と「日本人」のあいだに「農民」が入るのは至って必然的なことだったのである。

 ヒマでもあったから直ちに取り組んだのは嘘のないところ。考えてみればとてつもないテーマでいきなり大論文が書けるわけもなく、モンテーニュ/パスカル風の(と考えたかどうか)断章スタイルを狙ったような記憶がある。実際の作業は面白いのが半分、考えるほどに謎が増えるのが半分で、楽しくはあるものの手の焼ける迷走が始まり、そうこうするうちに発表の日が来てしまった。結果的に父の課題にはちゃんとした成果を出せずじまいで、うやむやになった次第。

 ただ、その後40年におよぶ右往左往ぶりを振り返れば、何のことはない18歳の誕生日前に父から投げかけられた課題に、遅まきながらの答案をあれこれ思料することの連続ではなかったか。「農民」については残念ながら解答の機を逸したようだけれど、他の二つについてはたぶん終生、自問自答を続けていくのだろう。

 翻って自分が息子たちに「課題を投げる」ことをイメージしようとすると、喉元あたりに得体の知れないひっかかりのようなものがあるのに気づく。既に大きすぎる課題を投げて無用に負荷をかけたようでもあり、何かのバランスを失うことを恐れて投げ控えているようでもある。矜恃・願望・幻滅といったものが入り乱れてよくわからない。ただ、父が自分にかけてくれた期待の大きさばかりが、年を追っていよいよ痛感されるのだ。

 三男は黙々と問題を解き続けている。さしあたり、かける言葉がない。

Ω