散日拾遺

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赤毛の転校生

2017-03-14 22:14:44 | 日記

2017年3月14日(火)

 メアリー・ポピンズの黒髪のことを書いたら、被爆二世さんが反応をくれた。小さい頃は髪が赤く、「赤毛」「外人」と呼ばれることが悩みだったという。「他の人と違うことは、日本ではハンディキャップですので」と、これは21世紀に入ってもなかなか克服できない国民的痼疾らしい。

 「赤毛」といえば「アン」と反射的に答えてしまうが、案外なところに赤毛の同類がいるのに気づいた。

 ・・・ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるへました。がひとりはたうとう泣き出してしまひました。といふわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないをかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座ってゐたのです。そしてその机と言ったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです・・・

 風の又三郎は赤毛だった。それは又三郎がどこか「外人」性あるいは「異人」性を帯びていることの象徴かもしれない。彼は高田三郎という日本人少年であるけれど、根本は同じでも微妙に違っている。決して相和さないのではない、転入早々、友達に加わって6学年一教室の学校生活を共にし、馬を追い、葡萄を摘み、水遊びする。それでも決まって微妙な違いがある。木ペンをなくした佐太郎にそっと自分のを譲ってやる姿、馬に不慣れと指摘されて負けずに競べ馬を提案する場面、専売局に収めるタバコの葉を無造作にむしって囃され、仕返し、仲直りする逸話、そして何やら複雑な不思議を孕んだ水遊び。そう、皆と一緒の最後の場面になるこの水遊びに、こんな描写がある。

 ・・・又三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃしてゐるのにあんまり永く水につかって唇もすこし紫いろなので子どもらは、すっかり恐がってしまひました・・・

 髪と並んで又三郎の「外人/異人」の標徴となるのは、言葉の違いであろう。

 「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけだんだぞ。うな、連れでぐさ来たぞ。」「みんな又三郎のごと囲んでろ囲んでろ。」

 これが又三郎を気遣い守ろうとする子どもたち、いっぽう・・・

 「何だい、こはくないや」「ぼくを連れにきたんぢゃないや」

 こちらが強がる又三郎である。微妙とはいえないきわだった違いで、ことによったら髪の色以上に「我ら」と「彼」を鋭く隔てたかも知れない。一転すればいわゆる「いじめ」の材料を無限に与えるような、明白鋭利な違いである。

***

 髪の色の与える異様な印象は時とともに和らぎ、赤毛は成長につれてつややかな黒髪に変じる。言葉の変化が桁違いに速いことは、僕自身が立派に証明した。小6の夏に松江から山形に転校し、3か月経った頃には完璧な山形弁をしゃべっていたから、子どもの順応性は驚くべきものである。「完璧な」と思っていたのは自分だけだろうが、行商のおばさんの言葉を母のために通訳するまでに上達していたのは事実である。宮沢賢治を読む時には、それが助けにもなり懐かしさともなる。

 東北は広く言葉も一様ではないけれど、たとえば「どうした?」と訊くところを「何した?」と言うのは山形も同じ。「ははあ、塩をけろづのだな」ぐらいなら、自分自身の言葉として変換なく読み抜けるし、そこに漂う温もりを内側から楽しめる。又三郎もこの山里にずっと居続けたなら、ほどなく言葉を習得し、やがては髪の色を変えつつ成長してその土地の人間になったことだろう。少年は又三郎であることを止め、ただの高田三郎として定着していったはずである。

 けれども彼はわずか12日でその地を去った。居続ける者たちにとって、少年は又三郎であり続けることになった。生身の高田三郎は別の土地で別の平凡な生身に育ち、山里の数週間を懐かしみつつ自分の居場所から又三郎を畏敬しつづけただろう。彼自身は決して又三郎ではないし、又三郎のままでは人として人の世に住めはしない。

 僕はぴったり一年間で山形を離れた。又三郎よりずっと長いが、心理的な意味としては12日と大差ない。父の転勤はいつでも三年毎だったから少々異例の人事である。移った先の名古屋で、中学の大半を過ごすことになった。先月、還暦同窓会が開かれた名古屋市立汐路中学校がそれである。

 名古屋からさらに東京の高校へ進んだ頃、突然、山形の同級生から手紙をもらった。「君は、風の又三郎であったのか?」とそこに書かれていた。答えようが分からぬまま返事も出さず、そのことを長らく気に病んできたが、気に病むことはなかった、やむを得なかったのだと今日初めて確信する。返事など書けはしない。「そうだ」と書いても、「そうではない」と書いても嘘になっただろう。だいいち僕はその頃『風の又三郎』を読んでおらず、それを正直に白状する心のゆとりもなかった。

 僕は彼らにとって又三郎であったに違いない。けれども僕にとって又三郎は他にいる。そうでなければ僕が生きられない。僕を又三郎にしたのは彼らであって僕ではない。自ら又三郎であり続けねばならないような、幼い錯覚をひょっとしたらもち続けて気に病んできたのかもしれない。

***

 「・・・お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんはもいちどちょっとこっちへ戻られるさうですが高田さんはやっぱり向ふの学校に入るのださうです。向ふにはお母さんも居られるのですから。」

 「なして会社で呼ばったべす。」一郎がききました。

 「ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになった為なさうです。」

 「さうだないな、やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。

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