散日拾遺

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ほぼ同年生まれの三人組2セット

2019-05-01 23:47:40 | 日記
2019年5月1日(水)
 これも母の屑かごから回収したのだが、こちらは筆者名もわからない。ということは、美術展の解説文か何かだろうか。テーマは、オーギュスト・ルノワールによる、オーギュスト・ロダンの肖像である。二人のオーギュストにモネを加え、印象派三巨匠の多年にわたる親交が紹介されているようだ。おまけにこの三人がほぼ同年生まれというのである。
 
    
 整理すると・・・

 ロダン    (François-Auguste-René Rodin: 1840-1917)
 モネ     (Claude Monet: 1840-1926)
 ルノワール  (Pierre-Auguste Renoir: 1841-1919)
 
 ルノワールは1897年頃からリウマチを発症し、その後の生涯では苦しい闘病を余儀なくされた。1912年頃には、動かない手に絵筆を縛りつけて描かねばならず、しかし描くときには往時に変わらず上機嫌で幸福そうだったという。
 上掲の作品はリトグラフで、正確な制作年代は不明ながらおそらく1910年から1914年の間。上記紹介文によれば「1914年、ロダンは南仏カーニュにルノワールを訪れた。もしこの版画がモデルの実写あるいはそれに基づくものであるとしたら、このときに描かれたものと考えられる」とある。さらに続けて、次のように記す。
 「病に手足の自由を奪われた晩年のスケッチだけに、描線に往年の闊達さは欠けているが、この悠揚迫らぬ風貌は、大事業を成し遂げた老彫刻家のひととなりをよく表している。それはまた、ルノワール自身の心境の反映でもあるだろう。」
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 訪問の3年後、第一次世界大戦のさなかにロダンが他界する。その2年後にルノワールが没したとき、モネは強く衝撃を受け「とてもつらい、私だけがのこってしまった」と友人宛に書いたという。
 三人は生まれ年が近いばかりでなく、いずれも貧しい境遇の出身で、長年にわたって生活苦と闘いながら芸術的信念を貫いてきた。ロダンとモネの親交は1889年、ルノワールとロダンが出会ったのはその後というから、人生の後半に生まれた友情と思われるが、だからこそ深いものであったかもしれない。
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 標題に「2セット」と書いたが、フランス人芸術家らの第一のセットに比べ、もう一方はだいぶ様子が違う。こちらの三人はいずれ劣らぬ著名な精神医学者である。
 クレペリン  (Emil Kraepelin: 1856-1926) 
 フロイト   (Sigmund Freud: 1856-1939)
 ブロイラー  (Eugen Bleuler: 1857-1939)

      

 学問上の影響・被影響や系統関係は当然あるものの、三人の間にとりたてて親交があったとは聞いていない。むしろ関心を引かれるのは、この三人がいずれもドイツ語圏ながら違う地域の出身であることだ。クレペリンは北ドイツに生まれハイデルベルクで大成した生粋のドイツ人、フロイトはオーストリア出身のユダヤ人、ブロイラーはドイツ語圏スイスである。そうした背景が彼らの学風と呼応している気配は確かにあり、そんなことを少し言語化できたら面白いかとも思われる。
 なおクレペリンに関しては、留学中の斎藤茂吉が1923年にミュンヘンで臨床講義をこめ、長年の憧れを込めて握手を求めたところ拒否されたという逸話がある。これを僕は単純な人種・民族的偏見とばかり解釈していたが、Wiki の記事には「(クレペリンは)他の東南アジアの留学生とはにこやかに握手をしたにもかかわらず 、斎藤茂吉との握手を拒否した」とある。
 1923年と云えば第一次大戦終結からまだ5年しか経っていない。この年の初めには賠償金の支払い遅れを理由にフランスとベルギーがルール地方を占領した。こうした屈辱や経済的困難を背景として、11月にはヒトラー一味が他ならぬミュンヘンでクーデター未遂を起こしている(ミュンヘン一揆)。第一次大戦で日本は連合国側で参戦し、青島など中国のドイツ植民地を攻撃占領した。この文脈で見れば当時の愛国的なドイツ人にとって歓迎しやすい相手ではなかっただろう。
 そんなことが関係したかどうか、資料があるなら確認してみたいところである。

Ω

俵屋の仕掛け

2019-05-01 20:52:17 | 日記

2019年5月1日(水)

 親の遺品を整理していたら、あれが出てきたこれが出てきたという話はよく聞くもので、これだけで一つの随筆ジャンルを形成するのではないかと思うぐらいである。故人の人となりからは予想外の品だの手紙だのを発見し、由来・経緯や思いなどを聞いておけばよかったと悔やむ一方、そんなものは後知恵であって実際に聞けはしなかった、それで良いのだと思い直したりする。その行きつ戻りつが故人の不在に慣れる歩みの一部を為していて、寂しくもあり慰めもあり、誰しも通過する人生の一コマというところか。
 御多分に漏れず、苦笑したり考え込んだりが進行中だが、ここに記すのは至って軽いものである。これを遺品というのも大げさな話で、机まわりに屑籠代わりにつるした紙袋に、軽くもしゃぐった雑誌のページらしきものが数枚、捨てようとしたのか思い直したのか、そこからしてはっきりしない。読めば面白く、捨てるならこちらに回してくれれば良かったのにというようなものである。
 その一が下記、有名な風神雷神図屏風についてである。肝心の部分を転記する。

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 二曲一双の《風神雷神》は、正方形を二つ横に並べた比率の画面の左右やや上方に、両神を対称に配している。しかしそれは単純に対称なのではなく、右の風神は左の雷神の方を向いて駆ける姿勢をとり、雷神は中央下部に向かって見得を切る歌舞伎役者さながらに身構えている。従って、座して対峙する鑑賞者は両神とともに、反時計回りの運動性の三つの視点を形成する形になる。彼はもはや単なる傍観者ではなく、このおどろおどろしい舞台に取り込まれてしまうのだ。実に巧みな着想である。
 よく見ると、この両神の位置関係には微妙な位置的ずれがあるのだが、それがこの構図の脈動感を高めるための画家の秘策であったらしい。そのことは、尾形光琳がこの図をほぼ忠実に模した作品と比べてみるとよく解る。完全主義の光琳は、意図的にかどうか(私はそうに違いないと思うのだが)宗達における両神の位置的ずれを修正しているのだ。結果は・・・風神・雷神の大きさや姿は全く変わらないのに、原作に比べて著しく動感を欠いたものになってしまっているのだ。全く、絵とは難しいものである。

『風神雷神の闘い ー 宗達 vs 青邨』セキ美術館 学芸監督 八重垣春樹氏
所収雑誌等不明
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 これ非常に面白く、同時に何かもやもやするものがある。これ自体が面白いのだけれど、さらに大きな何かにつながっているはずだというような・・・さしあたり書きとめておく。
Ω