2019年5月1日(水)
これも母の屑かごから回収したのだが、こちらは筆者名もわからない。ということは、美術展の解説文か何かだろうか。テーマは、オーギュスト・ルノワールによる、オーギュスト・ロダンの肖像である。二人のオーギュストにモネを加え、印象派三巨匠の多年にわたる親交が紹介されているようだ。おまけにこの三人がほぼ同年生まれというのである。
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整理すると・・・
ロダン (François-Auguste-René Rodin: 1840-1917)
モネ (Claude Monet: 1840-1926)
ルノワール (Pierre-Auguste Renoir: 1841-1919)
ルノワールは1897年頃からリウマチを発症し、その後の生涯では苦しい闘病を余儀なくされた。1912年頃には、動かない手に絵筆を縛りつけて描かねばならず、しかし描くときには往時に変わらず上機嫌で幸福そうだったという。
上掲の作品はリトグラフで、正確な制作年代は不明ながらおそらく1910年から1914年の間。上記紹介文によれば「1914年、ロダンは南仏カーニュにルノワールを訪れた。もしこの版画がモデルの実写あるいはそれに基づくものであるとしたら、このときに描かれたものと考えられる」とある。さらに続けて、次のように記す。
「病に手足の自由を奪われた晩年のスケッチだけに、描線に往年の闊達さは欠けているが、この悠揚迫らぬ風貌は、大事業を成し遂げた老彫刻家のひととなりをよく表している。それはまた、ルノワール自身の心境の反映でもあるだろう。」
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訪問の3年後、第一次世界大戦のさなかにロダンが他界する。その2年後にルノワールが没したとき、モネは強く衝撃を受け「とてもつらい、私だけがのこってしまった」と友人宛に書いたという。
三人は生まれ年が近いばかりでなく、いずれも貧しい境遇の出身で、長年にわたって生活苦と闘いながら芸術的信念を貫いてきた。ロダンとモネの親交は1889年、ルノワールとロダンが出会ったのはその後というから、人生の後半に生まれた友情と思われるが、だからこそ深いものであったかもしれない。
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標題に「2セット」と書いたが、フランス人芸術家らの第一のセットに比べ、もう一方はだいぶ様子が違う。こちらの三人はいずれ劣らぬ著名な精神医学者である。
クレペリン (Emil Kraepelin: 1856-1926)
フロイト (Sigmund Freud: 1856-1939)
ブロイラー (Eugen Bleuler: 1857-1939)
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学問上の影響・被影響や系統関係は当然あるものの、三人の間にとりたてて親交があったとは聞いていない。むしろ関心を引かれるのは、この三人がいずれもドイツ語圏ながら違う地域の出身であることだ。クレペリンは北ドイツに生まれハイデルベルクで大成した生粋のドイツ人、フロイトはオーストリア出身のユダヤ人、ブロイラーはドイツ語圏スイスである。そうした背景が彼らの学風と呼応している気配は確かにあり、そんなことを少し言語化できたら面白いかとも思われる。
なおクレペリンに関しては、留学中の斎藤茂吉が1923年にミュンヘンで臨床講義をこめ、長年の憧れを込めて握手を求めたところ拒否されたという逸話がある。これを僕は単純な人種・民族的偏見とばかり解釈していたが、Wiki の記事には「(クレペリンは)他の東南アジアの留学生とはにこやかに握手をしたにもかかわらず 、斎藤茂吉との握手を拒否した」とある。
1923年と云えば第一次大戦終結からまだ5年しか経っていない。この年の初めには賠償金の支払い遅れを理由にフランスとベルギーがルール地方を占領した。こうした屈辱や経済的困難を背景として、11月にはヒトラー一味が他ならぬミュンヘンでクーデター未遂を起こしている(ミュンヘン一揆)。第一次大戦で日本は連合国側で参戦し、青島など中国のドイツ植民地を攻撃占領した。この文脈で見れば当時の愛国的なドイツ人にとって歓迎しやすい相手ではなかっただろう。
そんなことが関係したかどうか、資料があるなら確認してみたいところである。
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