散日拾遺

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希望の約束/第二の戒め

2023-01-06 07:02:59 | 日記


2023年1月6日(金)
 Facebook でときどき窺う教え子の近況。
 1月1日、おせちか和菓子の投稿を予測していたところ、この青空に目を見張った。下記の聖句に彼が添えたものである。

 わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書 29:11
 
 是、君が信じたとおりになるように!

***

 転じてこちらは教室ではなく診療の場で知り合った人で、統合失調症からの回復過程にある。国際色豊かな家庭の全員が素朴な信仰に結ばれている、そんな中で養生を続ける柔和な若者である。
 その彼が新型コロナに罹患してしばらく寝込んだ。幸い症状は軽くすみ、峠を越してからは病床の退屈しのぎに YouTube を見ることが増えた。日頃おだやかな若者なのに、あるいは日頃おだやかであるからか、意外にも格闘技の動画にハマってしまい、次から次へとむさぼるように見続けることがしばらく続いた。
 「でも、やめました」
 「よくやめたね、どうしたらやめられたの?」
 「神さまより大事なものがあっちゃいけないから」
 そう言ってにこにこ笑っている。2022年11月のある日、診察室での会話である。

 この話をあるところでしたら、聞いた人々が異口同音に彼の真面目さを驚き賞賛した。賞賛にいくらかの揶揄が混じるようでもある。ふつう、できないよね、ふつうじゃないね、といったような。
 ふつうかどうかはともかく、そもそもの出発点に違和感がある。
 真面目と評して間違いではないだろうが、それより驚きたいのは彼のしなやかな賢さである。そうすべきだ、そうせねばならないと考えて、むりやり行動を修正したのではない、そうすることが自分のためであり、自分の命を救う最捷径であることを彼は知っていて、内なる声に自然に従ったのである。何と大きな祝福だろうか。
 このとき彼は、第二の戒めに従ったのだ。

 第二戒は「偶像を刻んではならない」という形で知られているが、だから仏像がけしからぬなどというつまらない話ではない。聖なる力の目に見えるシンボルは人間誰しも必要とするし、それがシンボルであることをわきまえる限り非難されるいわれはない、大いに楽しんでよいのである。
 戒めの真意は、神ならぬものを神とし、相対的な価値しかもたないものを絶対の地位に置くこと、魂の倒錯に対して根源的な警告を発するところにある。現代社会の至るところにはびこるその種の倒錯の端的な表れが、依存症と呼ばれる精神と行動の変調なのだ。
 アルコール依存症は長年にわたる日本社会の痼疾だが、若者が酒を飲まなくなってきたから、今後ゆるやかに縮小する見込みがもてそうである。入れ替わりに巨大な問題となりつつあるのが、ゲーム/インターネット/スマホ系列の行為依存であり、私見ではこれが21世紀後半のこの領域最大の課題として、人類の生存すら脅かす恐れがある。
 依存性疾患はヒト自身の不適応行動に本態のあるもので、厄介の性質が他の精神疾患と根本的に違っている。報酬系と呼ばれる脳のシステムに変調が起きていることがほぼ確実で、これを修正する方向から画期的な薬物療法が登場する期待も抱くのだが、それを待つ間に考えるべきことがいくつかある。

 一つは、依存性疾患や嗜癖行動を神学的方向から見た場合、それが第二戒に対する真っ向からの挑戦になっていることである。先の若者はそのことを知っており、従ってまた律法のうちに最善の予防法があることを、身をもって示してくれた。「神さまより大事なものがあっちゃいけない」とは、倫理規定であると同時に、きわめて理にかなった養生訓にもなっている。まことに「戒めに聞き従うなら祝福を」受けるのだ(申命記 11:27 他)。
 二つは、個人精神療法では歯が立たない依存性疾患に対して、断酒会に代表される「語りっぱなし」型の自助活動がしばしば驚くべき効果を発揮することである。一人ではどうしてもできなかったことが集いの中で達成され得る不思議を、事実は繰り返し証明してきた。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ 18:20)との約束が思い出される。
 若者は一人の病床で内なる声に従って滅びの道を未然に避けたが、実はそもそも一人ではなかった。ここに祝福がある。

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