2016年5月10日(水)
8日(日)帰宅後に呆然とテレビ画面を眺めていたら、冨田勲さんの訃報が伝わった。「月の光」というアルバムは僕も買って、それこそすり切れるぐらい聞いた。単純に音楽として魅力的だったからだが、同時に印象派ドビュッシーとデジタル・シンセサイザーとの思いもかけないマッチングの良さに驚いた。それに着目した冨田さんは慧眼なのだが、これってどういうことなのだろう。絵画の方面で、モネらが風景を光のモザイクとして捉えたのは、やはり基本的にデジタルな発想である。先日の「若冲」もこれに類する ~ 時間の先後から言えば彼こそが嚆矢である。
あ、思い出した。30年ほど前、ある女性声楽家と話す機会があった時、彼女は不思議そうにもせず、「ええ、よく合うんです。もしもシンセサイザーがその時代にあったら、ドビュッシーなどは使っていたと思いますよ」と事もなげに言った。事情を知る人には、当然のことなのだ。
翌日の朝刊でやや詳しく事情を読んで二度びっくりしたのは、その日の冨田さんの行動である。亡くなる1時間ほど前には自宅で好物のウナギを食べ、レコード会社の担当者と11月の仕事の打ち合わせをしたのだそうだ。実にかくありたいものだが、もちろん人は「生きてきたとおりに死んでいく」のであって、僕などには望むべくもない。
感嘆し、敬服する。
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回収した答案の整理だけは何とかその日のうちに終え、今度は大河ドラマをこれまた呆然と見流していて、最後の場面でふと何かが不愉快を囁いた。大坂からの帰途、秀吉の指示で浜松に回った真田親子の平伏する姿を見て、徳川家康がさも愉快げに高笑い(ほとんどバカ笑い)し、傍らの本多正信らまでも哄笑に合するという場面である。上田城ではさんざん痛めつけられたが、様(ざま)を見よ、さぞ悔しかろうということだろうか。
史実は知らないが、僕はこれはあり得ないと思う。こんな場面でこんな風に笑える小物だったら、家康に天下なんか取れっこない。だいいち人の心理というものをあまりに薄っぺらく見ていないか。
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徳川家康は「老獪・狡猾な狸オヤジ」というのが通り相場で、ただ忍耐と策略によって織田・豊臣の成果を略取したかのように言われているが、それはまるで事実と違うというのは、いつも引用する『二流の人』なんかを読めばよく分かる。若い時に到底勝てっこない武田信玄の軍団に家臣の制止も聞かずつっかかり、命からがら落ち延びた三方原の一幕、このときの家康の台詞というのが「寝ている枕を蹴飛ばされて、黙って引っ込んでいられるか」というのであった。匹夫の勇ではない、というのも、家康麾下の三河衆は野戦では戦国屈指の精強を誇り、たとえば姉川では崩れかかる尾張勢をよく支えて朝倉・浅井連合軍を粉砕している。三方原では武田が強すぎた上に、台地の上で待ち構える敵に坂を駆け上って攻撃を仕掛ける愚を冒した。実力もあれば闘争心も旺盛だったのが三河衆で、その大将として武門の棟梁を目ざしていたのが家康である。
その勇将の軍団が、第一次上田城攻防戦では数的に劣勢の真田勢にコテンパンに負かされた。以来、リベンジの機会到来を待つ家康に、秀吉はいったんは開戦の許可を与えながら次には出動延期を命じ、さらに真田を徳川の与力に配して浜松へ向かわせたのである。この場で明らかにされているのは、徳川も真田も秀吉の許可なくして何一つできず、唯々として秀吉の命に従うほかないという事実、秀吉の絶対的優位に他ならない。
だから家康には二重の敗北感があったはずだ。真田に負けた事実は動かず、その恥をそそぐ機会は失われた。真田が勝者、自分が敗者である。にもかかわらずその相手が、他ならぬ秀吉の命によって自分の前に平伏している。戦の勝敗までも覆す力を秀吉がもち、その力を自分の上に存分に振るっているのだ。家康は真田に負け、秀吉に負けた。それをイヤと言うほど思い知らされるこの場面で、憎い真田が自分の前に平伏しているからといって、嬉しそうに高笑いするおバカな主従がいたもんだろうか。少なくとも徳川がそんなおめでたい了見だったら、その後の歴史は到底あんなふうには動かなかっただろうというのだ。
秀吉という巨大な勝者を意識するとき、むしろ家康の中に真田に対するアンビヴァレンスが胚胎しても不思議はなかった。敵意と憎悪の反面で、彼も我もともに秀吉に負けた、軍事においてでなく政治において負けたという、ある種の共感の構図がある。実際この時の真田の姿は、小牧長久手で数的劣勢にも関わらず軍事的優勢を維持しながら、政治に負けて屈服を余儀なくされが徳川の姿によく重なる。「お宅もわしらも、猿めに負かされたよね」といった苦い共感を、もちろん言葉になどすまいけれども、特に家康の側が意識していて不思議はない。そしてともに敗者だとするなら、直接対決で負かされている分だけ家康の側に武将としての苦い思いが強く働く。秀吉の差配で与力に従えることになったからといって、高らかに笑える理由を家康はおよそもちあわせていない。
だからこそ、ではないかしら。家康麾下の諸将の中でも特に勇猛精強をもって知られ、武田方まで歌に詠んで褒め称えたという本多平八郎忠勝(「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」)、その娘を真田の惣領・信之が娶ることになる。この不思議な縁組みは真田の歴史の中でもとりわけ注目すべきもので、ここから生まれた家系は徳川の歴史を長く生き延びて明治にまで至る。大河では次回あたりその話になるのだろうが、これがまたドロドロの政略結婚としてばかり扱われないと良いのだけれど。
自分を負かした憎く恐ろしい敵だからこそ、よしみを通じたい気持ちが人にはある。「攻撃者との同一化」という機制については、当ブログでも何度も触れた。そのように真田を逆説的に買う気持が家康と忠勝になかったら、いかに政略とはいえ秘蔵の娘を嫁に与えたりはしない。このあたり、真に実力あるもの同士がお互いを認める不思議な機微が動いて、途方もなく面白いのである。これに関しては井上靖『真田軍記』所収の『本多忠勝の女(むすめ)』が出色だ。一カ所だけ引用しておく。
「(月姫は)真田へも加担しなかったし、実家の本多へも加担しなかった。彼女は自分のただ一つの生き方として今や夫信之に加担したのであった。
『やはり、本多の娘だな』
昌幸はまた唸るように言った。」
(角川文庫版 47頁)
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いつ頃から始まったか分からないが、「悪役を薄っぺらく描く」という悪弊が大河ドラマに定着してしまっている。『天地人』の家康なんかその典型だったが、今回も基本的に変わらない。真田家にとって最大の敵であり、やがて敵とも味方ともいえない巨大な壁として立ちはだかることになるのが徳川である。ならば、その徳川をそれなりに価値あるものに描かなければ、真田の生き方もまた価値下げされることになる。人は何と闘うかで、自分の価値を量られる。
これじゃダメでしょ。
Ω