2019年8月15日(木)
台風10号の中心が頭上を通るというので諸方面から心配してもらったが、当方に関しては久々にまとまった雨が降るぐらいのことですんだ。S先生と電話でしんみり話す間は雨が中断し、屋外ではアブラゼミが合唱キジバトが鳴くという暢気さである。東に発達した暴風域に呑み込まれて高知は大変、徳島も阿波踊り四日日程の後半二日が中止になった。台風報道で終戦記念日のがすっかり食われたのも落ち着かないことで、夜になってNHKスペシャルが二・二六事件の新資料をとりあげているのを見て、ややそれらしい気分を味わった。
新資料というのは、海軍軍令部が事件の進行を逐時克明に記録した膨大なもので、歴史専門家にとってどれだけ新規かわからないが、僕などにはかなり認識を改めさせられるところがある。とりわけ驚いたのは、事件の数日前に東京憲兵隊から海軍軍令部に情報提供があり、その中で首謀者も殺害の標的も全て正確に把握されていたことである。海軍はその情報を、何ら活用しないというやり方で最大限に利用した。この事実ーつとっても学ぶべきこと考えるべきことが山ほどある。
本筋と別に気にかかったのは、この資料 ~ 極秘ながら海軍という組織にとっては、超・公的な性質をもつ浩瀚な書類が、海軍軍令部の一要職によって個人的に保管され、70年余も秘匿された末、今この時に世に出てきたという事実である。この項を書いているのは18日(日)、その時点から見る昨17日(土)のNHKスペシャルが、今度は初代宮内庁長官・田島道治の遺した『拝謁記』をとりあげた。これまた新知識満載だが、こちらは基本的に田島氏一個の備忘であり、氏が晩年に焼き棄てようとしたものを、子息が「決して悪いようにはしないから」と説得して焼却を免れたという。
このように記録やメモを保存する心理と廃棄する心理について、これはずいぶん前から考えさせられている。かなり深い意味をもつ自問だが、現実的な意味もあるというのは、「焼いてしまおうと思う」「頼むから焼かずにおいて」というやりとりを、父との間に何度となく繰り返してきたからである。
田舎のありがたさで空襲にあうことなく、戦前からの物品・書籍や文書類が、築80年を越えてびくともしない日本家屋のそこここに大量に埃をかぶっている。大正年間の美装本は現在でも古びていないのに、昭和も10年代後半には急速に紙質が落ち、戦後のどん底レベルから回復するのに多年を要した推移が、目で見てわかる。地主だった曾祖父が手ずから記した年貢米の台帳、南支派遣軍に配属された祖父の広東周辺での軍務の記録、祖母が購読していた婦人雑誌、幼年学校時代の父の検閲つきの日記など、いずれもとりたてて価値のあるものではないが、特別ではない生活の、特別ではない記録であることが貴重に思われる。どこの家にでもあったものが、国中の大半の家庭で戦災のために焼亡した、その無念が思われもする。
「そんなもの、誰が見るんじゃ」
「孫や曾孫がさ、歴史ってそういうものの積み重ねだし。そうだ、いつかどこかの歴史家の目に留まるかもしれない」
この理屈にどの程度納得したかは疑問だが、父もけっして生来の「焼却派」ではない。むやみに焼いてしまう癖のあった祖父のおかげで、父の幼児期の描画や作文・作品など何も遺っていないのを嘆いたことがある。また読書家でもあるだけに、書かれた記録の重要性はよくわかっているはずなのだ。
「確かに、とっておく意味があるかもしれん。大した内容ではないとしても...」
と父、
「ウソや改竄はありゃせんからな。」
そのことである。後世というものが仮にあるとして、平成の政治史を研究する人々は、公的機関の残した資料の価値の低さ・疑わしさにどれほど悩むことになるのだろうか。記録に虚偽や改竄を加える行為は、現在の同胞ばかりでなく未来の知性までも裏切る悪辣な犯罪である。この夏公開された二つの文書が、少なくともこうした悪事に毒されることなく今の我々に伝わったのだとすれば、それ自体を小さからぬ幸いとすべきであろう。
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