散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

七草

2023-01-07 09:36:21 | 日記
2023年1月7日(土)

 朝食のテーブルを見て七草と気づいた。たまたま満月に重なるのが、他愛もなくめでたいことに思われる。
 20世紀も終わり近くに生まれ育った息子が、春秋の七草を言えるのに先日驚いた。父、つまり祖父が幼稚園へ歩いて送った時期があり、道々なにかしら教えて聞かせた賜物だという。
 夜半の雨があがり柘榴の枝に日が射してきた。夜は月が明るいことだろう。松山では太陽は山から昇り海に沈む。頂が千メートル近い高縄山系を背負う分、河野郷の日の出は東京よりいっそう遅く、おかげで早起きせずとも朝日を待ち迎えることができる。
 別府では太陽は海から昇り山に沈んだ。千メートルを超える鶴見岳を背後に擁し、いつも日の入りが早かった。
 われら海山の民、日と月の子ら。

Ω

徒長枝(とちょうし)を調べようとして多くを知ったこと

2023-01-07 08:16:31 | 日記
2023年1月7日(土)

 松山は実に久々の雨、今夜は満月なのに残念なこと。
 https://www.kusakari-a.com/news/20211116-2/ より拝借、図の下の説明も同じ。


  ふところ枝    幹の近くから伸びる枝
  腹切枝    幹と交差して伸びる太めの枝
  交差枝    主枝と交差して伸びる枝
  車枝     車輪の軸のように枝分かれして伸びる枝
  下り枝    地面に向かって伸びる枝
  胴吹き枝   幹の根元に近い場所に伸びる枝
  平行枝    主枝と近い場所で平行して伸びる枝
  逆さ枝    幹に向かって伸びる枝
  絡み枝    主枝に絡むように伸びる枝
  ひこばえ   幹の根元から生える枝

 名前を知るとそのものが見えてくる。認知の不思議であり基本でもあるが、ここにまた鮮やかな実例があった。
 ありがとうございます。助かりました!

Ω

希望の約束/第二の戒め

2023-01-06 07:02:59 | 日記


2023年1月6日(金)
 Facebook でときどき窺う教え子の近況。
 1月1日、おせちか和菓子の投稿を予測していたところ、この青空に目を見張った。下記の聖句に彼が添えたものである。

 わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書 29:11
 
 是、君が信じたとおりになるように!

***

 転じてこちらは教室ではなく診療の場で知り合った人で、統合失調症からの回復過程にある。国際色豊かな家庭の全員が素朴な信仰に結ばれている、そんな中で養生を続ける柔和な若者である。
 その彼が新型コロナに罹患してしばらく寝込んだ。幸い症状は軽くすみ、峠を越してからは病床の退屈しのぎに YouTube を見ることが増えた。日頃おだやかな若者なのに、あるいは日頃おだやかであるからか、意外にも格闘技の動画にハマってしまい、次から次へとむさぼるように見続けることがしばらく続いた。
 「でも、やめました」
 「よくやめたね、どうしたらやめられたの?」
 「神さまより大事なものがあっちゃいけないから」
 そう言ってにこにこ笑っている。2022年11月のある日、診察室での会話である。

 この話をあるところでしたら、聞いた人々が異口同音に彼の真面目さを驚き賞賛した。賞賛にいくらかの揶揄が混じるようでもある。ふつう、できないよね、ふつうじゃないね、といったような。
 ふつうかどうかはともかく、そもそもの出発点に違和感がある。
 真面目と評して間違いではないだろうが、それより驚きたいのは彼のしなやかな賢さである。そうすべきだ、そうせねばならないと考えて、むりやり行動を修正したのではない、そうすることが自分のためであり、自分の命を救う最捷径であることを彼は知っていて、内なる声に自然に従ったのである。何と大きな祝福だろうか。
 このとき彼は、第二の戒めに従ったのだ。

 第二戒は「偶像を刻んではならない」という形で知られているが、だから仏像がけしからぬなどというつまらない話ではない。聖なる力の目に見えるシンボルは人間誰しも必要とするし、それがシンボルであることをわきまえる限り非難されるいわれはない、大いに楽しんでよいのである。
 戒めの真意は、神ならぬものを神とし、相対的な価値しかもたないものを絶対の地位に置くこと、魂の倒錯に対して根源的な警告を発するところにある。現代社会の至るところにはびこるその種の倒錯の端的な表れが、依存症と呼ばれる精神と行動の変調なのだ。
 アルコール依存症は長年にわたる日本社会の痼疾だが、若者が酒を飲まなくなってきたから、今後ゆるやかに縮小する見込みがもてそうである。入れ替わりに巨大な問題となりつつあるのが、ゲーム/インターネット/スマホ系列の行為依存であり、私見ではこれが21世紀後半のこの領域最大の課題として、人類の生存すら脅かす恐れがある。
 依存性疾患はヒト自身の不適応行動に本態のあるもので、厄介の性質が他の精神疾患と根本的に違っている。報酬系と呼ばれる脳のシステムに変調が起きていることがほぼ確実で、これを修正する方向から画期的な薬物療法が登場する期待も抱くのだが、それを待つ間に考えるべきことがいくつかある。

 一つは、依存性疾患や嗜癖行動を神学的方向から見た場合、それが第二戒に対する真っ向からの挑戦になっていることである。先の若者はそのことを知っており、従ってまた律法のうちに最善の予防法があることを、身をもって示してくれた。「神さまより大事なものがあっちゃいけない」とは、倫理規定であると同時に、きわめて理にかなった養生訓にもなっている。まことに「戒めに聞き従うなら祝福を」受けるのだ(申命記 11:27 他)。
 二つは、個人精神療法では歯が立たない依存性疾患に対して、断酒会に代表される「語りっぱなし」型の自助活動がしばしば驚くべき効果を発揮することである。一人ではどうしてもできなかったことが集いの中で達成され得る不思議を、事実は繰り返し証明してきた。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ 18:20)との約束が思い出される。
 若者は一人の病床で内なる声に従って滅びの道を未然に避けたが、実はそもそも一人ではなかった。ここに祝福がある。

Ω

触れてはならない/ホセ・リサール

2023-01-04 19:38:27 | 日記
2022年1月5日(水)

 イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスは言われた。
 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから…」
ヨハネによる福音書 20章16-17節

 星空に酔って寝支度をしていて、ふと「すがりつくのはよしなさい」というこの言葉が浮かんだ。
 後にカトリックに転じたH.Y.姉は美術に造詣の深い人で、ある出版物でコレッジョの絵を解説するにあたり、この場面を「最高のメロドラマ」と評した。その意味が長らくわからなかったのである。
 ひょっとしてそういうことだったのだろうか。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい」(新共同訳)
 「わたしにさわってはいけない」(口語訳)

 ラテン語の「ノリ・メ・タンゲレ Noli me tangere」が画題にも採用されている。ギリシア語では "Μή μου ἅπτου" であり、Wikipedia の現代ギリシア語サイトでは "μη με εγγίζεις" と言い換えられているが、何語でつついてもとりたてて秘密などはありそうにない。要するに「さわるな!」というのである。なぜ?
 ある外国映画で主人公の男が、これまで実の妹と思い込んでいた女性が実は他人とわかった瞬間、相手の手を振り払って飛び退くシーンがあった。適切な連想かどうかは置くとして。

Correggio "Noli me tangere" (1525年頃、プラド美術館蔵)

 『Noli me tangere』という小説を書いた人物がある。通称ホセ・リサール(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda,1861-1896)、フィリピンの革命家である。
 フィリピン先住民のほか、父方に中国人とマレー人、母方にスペイン人と日本人が混じっているという見事なハイブリッド。小説の内容は事情から推しておよそ護教的なものとは思われないが、できれば読んでみたいものだ。
 早熟の天才の趣あり、二十数カ国語を習得する一方、動植物の研究まであるそうな。20代の頃にはロンドンで植民地化以前のフィリピンの歴史を研究し、1889年に日本の『さるかに合戦』とフィリピンの『さるかめ合戦』を比較した論考を著したとある。
 その前年、サンフランシスコへ向かう船の中で末広鉄腸(1849-1896)と出会って意気投合し、米国を経てロンドンまで数週間行動を共にした。鉄腸はこのとき英語が話せず「親切なフィリピン人青年が助けてくれた」と書き残しているそうで、リサールの方はこれに先立つ二ヶ月足らずの日本滞在の間、臼井勢似子なる女性との交流もあって、通訳できるようになっていたらしい。
 惜しいかな好漢、35歳で刑場の露と消え、今ではフィリピンの国民的英雄である。雑司ヶ谷の臼井勢似子の墓所には、毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられているとのこと。


この項の資料・写真はすべて Wkipedia による。以下も同じ。

※ さるかめ合戦(一例)
 むかしむかし。サルとカメが川沿いを歩いているとバナナの木が流れてきた。サルとカメは協力してバナナの木を川から拾い上げ、サルはバナナの木の上半分、カメは下半分(根のほう)に山分けすることになった。サルは実っていたバナナを食べ、カメは木を植え育てた。
 時が流れ、サルがもらったバナナの木の上半分は枯れてしまったが、カメがもらった下半分は育って、新たなバナナを実らせた。バナナの木に登れないカメに、サルは自分がバナナを取ってくると告げ木に登ったが、カメには渡さずに自分だけバナナを食べた。怒ったカメは策略を用いてサルを木から落とし、大けがをさせた。
 怒ったサルはカメを捕らえるが、カメは「自分は泳げないから、川には投げ込まないで」とサルに頼む。それを聞いたサルはカメを川に投げ入れ、カメは悠々と逃げ去った。

Ω


火星と月と

2023-01-04 19:38:27 | 日記
2023年1月4日(火)

 12月に入った頃からえらく明るいのに気づいていたが、やはり接近していたのだ。

〈2022年12月1日、約2年2か月ぶりに火星と地球が最接近します。約8100万kmまで近づきます。2022年9月から2023年3月ごろまで明るく見えます。冬の星々と競うように赤く輝く光景は見ものです。おうし座の中を動きまわる様子も楽しめます。〉

 両惑星間の距離にどのくらいの振れ幅があるかと調べて驚いた。6千万km弱から3億km近くまで振れるのだ。もっとも、これは驚く方が少々まぬけである。太陽との平均距離は地球が約1億5千万km、火星が2億3千万km、太陽の同じ側にあるか反対側にあるかだけでも、そのぐらいの振れは生じるだろう。古代人にはさぞや大きな謎だったろうが、太陽系の構造を教わってしまえばあたりまえのことである。
 2018年の下記のサイトがわかりやすい。地心における火星の視直径/惑星間距離は、同年1月1日に4.8"/2億9,307万kmだったが、8月1日には24.3"/5,759万kmまで拡大/接近した。8,100万kmなら16"台だろうか、明るいのも道理である。あたりまえなどと書いたが、7つの惑星(降格された冥王星は除き)の中で火星だけが目に見えて大きさを変えるのは、外惑星であってしかも地球に近いという条件を備えているからである。そのことに想到するのにしばらく時間がかかった。

 冬の星空は美しいが、何しろ寒い。東京では地上の照明に妨げられて興も劣り、じっと見あげることが最近は減った。火星の大きさに気づいたのは、日没後に帰宅して東向きに歩く道で、昇ってくる満月の近くに見えたおかげである。
 月を見るのはいつでも楽しい。日ごとに形と大きさを変え、形とともに太陽との相対的な位置がずれていってはぐるりと戻る、それを見あげて日を数え、満ち欠けを楽しむうちに人生はあっけなく過ぎていきそうだ。
 月は太陽の光を反射して光る、そのことが多くを考えさせる。月が太陽の近くにある限り、その姿はまことに細く頼りない。光源から離れるほどに反射は強まり空に見える時間が伸びていき、ついには地球をはさんで真向かいに対面する。このとき日没と入れ違いに昇ってくる十五日の月は、女王のように煌々と地を隈なく照らす。人もまた、力を授かる源から十分離れることによってこそ、はじめて充分に輝くことができるのではないか。裏切りではない、真の応答として。
 しかし満月は続かない。再び光源に近づくにつれ逆の側から細っていき、光源の中に姿を消す。姿を消してはまた現れる。その様を人工の建物と照明に妨げられることなく、晴れた空に昼も夜も追うことができるのが、田舎の暮らしの楽しさである。

 ふと思い立ってブランケットを肩に巻き、夜の庭に出てみた。高く昇った十二日の月のすぐ隣で、火星が冬の大三角と肩をぶつけている。ベテルギウスの赤は大きくなった火星の前に顔色ないが、シリウスの煌めきはひるむことなく青く美しい。それより明るい木星が、西の空で火星に挑み返すようだ。土星はどこにと探そうとして、早くも体の芯が震えはじめた。
 またあした。

Ω