彼は自分の心臓に手を遣った。ドキンドキンと大きな鼓動が伝わって来る。そうしてそれは段々と音を増し、今や早鐘のようだ。
カンカンカン…
この時彼は故郷の村、過去にそこで聞いた半鐘の光景を思い出していた。彼の目の前に危険が迫っているのだ。彼の目の前の相手はその顔を渋面として彼ににじり寄って来る。彼はハッとして思わずその相手の顔を見た。
額には古参の皺が刻まれている。両の頬には複数の皺が丸く弧を描いて盛り上がり、それは深い溝を刻んで顎に落ちていた。『熟練の兵、正に名うてのハンターの容貌そのものだ。』彼は思った。そうしてそのハンターの目は今やガッシリと自分の獲物を見据え、その獲物を仕留めるべく相手との距離を縮めているのだ。その見覚えのある狩人の表情。そうだ!、彼は狩人の狙う獲物が何かと興味を持ち、それを知ろうとして自分の後方を振り返った。
おやっ?、雪原も森も見えない。「冬じゃ無いのか。」彼は思った。では夏、否、緑の草原も無い様子だ。空は青いか?、空には季節の色があるものだと、彼は時節を知ろうと遥か上方を眺め遣った。
ぼうっとした白い丸い物が見える。太陽、お日様かな?。彼は思ったが如何も腑に落ちない。太陽も白っぽく見える時があるがもっと違った白光だ。彼は直に太陽を見詰めると目に悪いがと躊躇したが、自分の置かれた状況を把握するべくその白く見える太陽を見詰める事にした。思いがけず眩さは無い。彼は太陽に焦点を合わせて行く。すると、
「2、3…、数字か?。」
思わず呟く。彼は半信半疑だった。狐にでも摘まれた…、自分は化かされているのかな?。と彼が思い始めた時、ふいっと彼の思考は現実に帰って来た。「家だ。」彼は独り言を言った。
「ここは家だ、家の時計だ。」
これは家の玄関の壁時計だ。太陽じゃ無い。道理で、自然の光景じゃ無いと思った。彼は思った。
「嫌だって、ここが嫌なら何処でやるって言うんだい。」
後ろから声がした。清の父は誰の声だろうと考えた。その声の主は彼の直ぐ背後まで迫り、身を屈め拳を上げると、その拳を彼の黒い丸みを帯びた後頭部に向けて狙いを定め、今や遅しと迄に待機していた。
『誰だったかしら?。』彼はのんびりと考えていた。
「何処でやるんだ。」
再び、智の母の太い声が彼の背に掛けられた。『はて?、誰かしら?。ドスの効いた声にも思えるが、』彼は考えた。男にしては弱い、大して強く無い奴だな。なんだか自分に喧嘩を売っている様だが…。この声の調子なら歳下だな。これなら相手をしてもまぁ自分の手には余ら無いだろう。彼は判断した。ふふ…、口元から笑いを漏らし、後方にいる相手を甘く見た彼は振り返ろうとした。間一髪!。
「お止め!。」
彼の妻、清の母の声が夫に掛けられた。否、ご近所さん、彼女と仲の良い智の母にだったかも知れない。彼女の夫は振り返ろうとした動作を止めて彼の妻の言葉の続きを待った。
「背後から襲うのは趣味じゃなくてね、正々堂々だよ。」
「真っ向から勝負といこうじゃ無いか。」
と、これは妻の声じゃ無いなと夫は思った。
「こっちに向きな。」
これも妻じゃ無い。夫は未だ彼の妻の次の言葉を待っていた。彼の背後から聞こえる声を無視するべく、彼の妻の指示待ちで夫は待機中の儘でいた。
「それ以上やるんだったら、あんたとの仲もこれ迄だからね。」
妻にしては低い声。生真面目な声だ。彼女は真剣なんだと彼は感じ取った。
「おかあさん、」
不意に子供の声がした。おやっ⁉︎、彼は思わず声のした方向に振り返った。