Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

うの華4 31

2022-03-04 10:32:26 | 日記

 彼は自分の心臓に手を遣った。ドキンドキンと大きな鼓動が伝わって来る。そうしてそれは段々と音を増し、今や早鐘のようだ。

 カンカンカン…

この時彼は故郷の村、過去にそこで聞いた半鐘の光景を思い出していた。彼の目の前に危険が迫っているのだ。彼の目の前の相手はその顔を渋面として彼ににじり寄って来る。彼はハッとして思わずその相手の顔を見た。

 額には古参の皺が刻まれている。両の頬には複数の皺が丸く弧を描いて盛り上がり、それは深い溝を刻んで顎に落ちていた。『熟練の兵、正に名うてのハンターの容貌そのものだ。』彼は思った。そうしてそのハンターの目は今やガッシリと自分の獲物を見据え、その獲物を仕留めるべく相手との距離を縮めているのだ。その見覚えのある狩人の表情。そうだ!、彼は狩人の狙う獲物が何かと興味を持ち、それを知ろうとして自分の後方を振り返った。

 おやっ?、雪原も森も見えない。「冬じゃ無いのか。」彼は思った。では夏、否、緑の草原も無い様子だ。空は青いか?、空には季節の色があるものだと、彼は時節を知ろうと遥か上方を眺め遣った。

 ぼうっとした白い丸い物が見える。太陽、お日様かな?。彼は思ったが如何も腑に落ちない。太陽も白っぽく見える時があるがもっと違った白光だ。彼は直に太陽を見詰めると目に悪いがと躊躇したが、自分の置かれた状況を把握するべくその白く見える太陽を見詰める事にした。思いがけず眩さは無い。彼は太陽に焦点を合わせて行く。すると、

「2、3…、数字か?。」

思わず呟く。彼は半信半疑だった。狐にでも摘まれた…、自分は化かされているのかな?。と彼が思い始めた時、ふいっと彼の思考は現実に帰って来た。「家だ。」彼は独り言を言った。

「ここは家だ、家の時計だ。」

これは家の玄関の壁時計だ。太陽じゃ無い。道理で、自然の光景じゃ無いと思った。彼は思った。

 「嫌だって、ここが嫌なら何処でやるって言うんだい。」

後ろから声がした。清の父は誰の声だろうと考えた。その声の主は彼の直ぐ背後まで迫り、身を屈め拳を上げると、その拳を彼の黒い丸みを帯びた後頭部に向けて狙いを定め、今や遅しと迄に待機していた。

 『誰だったかしら?。』彼はのんびりと考えていた。

「何処でやるんだ。」

再び、智の母の太い声が彼の背に掛けられた。『はて?、誰かしら?。ドスの効いた声にも思えるが、』彼は考えた。男にしては弱い、大して強く無い奴だな。なんだか自分に喧嘩を売っている様だが…。この声の調子なら歳下だな。これなら相手をしてもまぁ自分の手には余ら無いだろう。彼は判断した。ふふ…、口元から笑いを漏らし、後方にいる相手を甘く見た彼は振り返ろうとした。間一髪!。

 「お止め!。」

彼の妻、清の母の声が夫に掛けられた。否、ご近所さん、彼女と仲の良い智の母にだったかも知れない。彼女の夫は振り返ろうとした動作を止めて彼の妻の言葉の続きを待った。

「背後から襲うのは趣味じゃなくてね、正々堂々だよ。」

「真っ向から勝負といこうじゃ無いか。」

と、これは妻の声じゃ無いなと夫は思った。

「こっちに向きな。」

これも妻じゃ無い。夫は未だ彼の妻の次の言葉を待っていた。彼の背後から聞こえる声を無視するべく、彼の妻の指示待ちで夫は待機中の儘でいた。

「それ以上やるんだったら、あんたとの仲もこれ迄だからね。」

妻にしては低い声。生真面目な声だ。彼女は真剣なんだと彼は感じ取った。

「おかあさん、」

不意に子供の声がした。おやっ⁉︎、彼は思わず声のした方向に振り返った。


うの華4 30

2022-03-04 09:07:40 | 日記

 「お母さん、痛いじゃ無いか。」

屈み込んだ智は直ぐに顔を上げ、空かさず彼の母に抗議した。

「何もしてい無いの打つなんて…。」

如何いうつもりなんだ。という訳である。

「したんだよ。」

智の母は自分の子から顔と背を背けるとぽそっと言った。こんな時間に他所のお家を訪問したりするから…。そう彼女は口にしながら、「申し訳もございません。」と、取って付けたような大きな声と愛想良い笑顔を、共にこの屋の階段へと向けた。

 階段の方では物怖じしたような顔付きで、控え目ながらに玄関に立つ夫、彼女の横、自分の夫の方を気にする気配を彼女に見せる素振りをした。『えっ!、ええ。』と、彼女は階段の方の意向を直ぐに判じた。

『全く、こんな取るに足ら無いような男に…。どこが良くって、彼女ともあろう人が結婚したのかしら。』

彼女は内心不満を口にしながら、階段にいる清の母の意向を汲む事にした。彼女は階段に向けていた彼女の正面を清の父の方向へと戻した。そうして彼ににこやかに微笑んで見せると言った。

「こんな朝から、宅の智が失礼をいたしまして、申し訳もございませんこと。」

こんな物かしらと思う。彼女はこれで済ませてしまおうと考えを纏めると、自分の手を彼女の子である智の肩へと伸ばした。ほいほいと子の体勢をこの屋の入り口へと向けた。

「失礼のお詫びは後程重々に。」

そんな事を愛想よく口にし、彼女は彼女の子を自分の腕で前に押し出しながら、漸う漸うこの屋を後にしようとした。

 「奥さん、一寸!。」治まらないのがこの屋の主だった。妻の手前もあったのだろう、玄関から消えようとしていたこの屋の訪問者が振り返ると、彼は厳しい怒りの形相をその顔に浮かべていた。

「そっちはそれでいいんだろうが、こっちはそれじゃあ…。」

彼は振り返った訪問者の大人の方の顔の、その怒りに燃えた目と口元が釣り上がった顔を見た。彼には彼女のパカッと開いた赤い口と敵意に燃えたぎらつく目が、これから自分を襲おうとしている飢えた狼の顔の様に見えた。

 彼は故郷の山林にでもいる様な錯覚を覚えた。思わずブルっと身が震える。遠い記憶が甦って来る。彼は幼い日に故郷の冬山で飢えた狼と出会っていたのだ。幸い直ぐに同行していた数人の大人が気付き、彼は事なきを得たのだが、その時の彼を見据えた狼のギラリとした眼とパカリと開いた赤い口は、意味も分からず長く彼の記憶に残っていた。

 「思い出した。」

彼は当時の身の危険を今更ながらに悟った。「危なかったんだ。」彼は呟いた。そうしてハッとして未だ階段にいる自分の妻を見詰めた。危ないんだね、彼は目で妻に問い掛けた。彼女は彼の目を見詰め返すと相槌を打つようにこくりとした。彼の妻は生真面目な顔をしている。やはりそうか、この奥さんは危ないんだ。そう彼は確信した。それで妻が2階から降りてきたのだと、この時夫は悟った。心臓がドキンとした。