私は翳っている階段の降り口まで来ると、一寸ばかり気持ちが怯んだ。が、ここまで足音を忍ばせずに来たのだから、もし私の予想通り階下に母がいるとすれば、彼女は当然私が現在到達した場所、この階段の降り口に、今将に私がきちんと存在している事を察知している筈だ。
そう考えると私は、ここ迄の歩みと同様にてこてこと、普通の足音を立てて眼下の黒っぽい漆で塗られた古びた板に、私の最初の1歩を踏み下ろさざるおえなかった。
とんとんとん、足を階段の板に下ろしていくに連れ、私の目には階下の部屋の様子が広く視界に入って来た。目の前にある階下の天井で遮られた場所以外の部分に人影は見えなかった。そんな光景に、一足毎に私の淡い期待は膨らんで行った。『良かった。』母が下にいそうだという私の考えは取り越し苦労だったようだ。
が、遂にそれは来た。私のぽっと灯った明るい希望は、自身のその後の1、2段の下降で瞬く間に消え失せてしまった。それは本当に一段の上下の差だったのだ。私の視界に入って来た母の衣類。はっと来た私が目に留まる彼女の一部を確認すると、それは彼女の腕部分と袖口から出ている掌だった。その彼女の洋服の片袖の色と服地の質感、形から、私の目にしたものが母のパーツの一断片だと確信した私は、声にならない溜息を吐いてしゅんとした。来るべき災難、避けられそうにない。私は厄介事をしょい込む事を予想すると階段途中でがっかりして思わず立ち止まってしまった。
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