母の手には何やら布の切れ端の様な物が見えた。私は何だろう、見た事のない物だなと思った。母はそんな私の顔を見て、にっこり笑ったかというとそうでは無かった。むすっとした感じで愛想無い一瞥をくれると、直ぐにあちらを向いてしまった。私から顔を背けてしまった。私には母の頭の黒い髪の毛だけが見えていた。
そんな母に、
「お母さんたら、熊の真似してるのかい。」
と、私は彼女の機嫌を直すように陽気に尋ねた。母は私のこの言葉は聞いていたらしく、「くまだって?」と彼女の頭の向こうで合点のいかないような返事をした。
「お前、今、クマだと言ったのかい?。」
怪訝そうな顔付きで、ややこちらに顔を向けた母は口の中で、くま、クマ…。と繰り返し呟いていた。そして「くまは動物の熊だよね。」と「お前そう言ったんだよね。」と言った。
私はそうだよ勿論と答えると、「お母さん、熊の真似が上手いね。」と彼女の事を褒めた。私が正面から母の顔を覗き込むと、母は訳が分からないという様に眉間に皺を寄せると意味不明な顔をしていた。私ははははと笑うと、
「可愛いね。」
と言った。すると母が嬉しそうに微笑んだ。私は誤解の無いようにと「熊さんが。」と付け加えた。母はがっかりした顔つきでまた私の視線を外すとプイとそっぽを向いた。
「熊さん可愛い。」
と私が母の頬に片手を掛けると、母はむっつりした顔で目だけ私の方に向けた。その私を捉える母の目が本当に動物園で何時も見る熊の目にそっくりだった。
「お母さん、本当に熊そっくり。目までそっくり、上手いねぇ。凄いよ、クマさんの真似。」
私はとても上手だと母に拍手喝采し、彼女の熊の真似を持て囃した。そして金太郎の童謡を歌い出すと、縁側を跳ね回り、廊下の入り口達するとUターンして、「…お馬の稽古…」と母の後方に回った。
母の丸い背が目に入り、!、ピン!と、私はこのまま母さん、熊さんに馬乗りだ…。と、ポンポンと弾んで母の背中を目指した。すると母は、伏せていた上半身をぱっと起こし、丸めていた背筋をしゃんと伸ばして見せた。母は正座したのだ。私の目の前には母の背中が立ちはだかった。
「あー、んー、おんぶよりお馬さんがいい。」
と私は母の背に持たれた。母はピンと正座した儘、
「おんぶもおんまさんも駄目だよ。今はね。」
とそっけなく言った。
「私はする事が有るんだから。それもお前のお陰でね。」
そんな事を言うのだ。
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