昨日の 「つぶやき」 に屋根裏人さんから頂きましたコメントへの返信と
合わせての 「つぶやき」 です。 「返信」で書きました「資料」とはこの記事。
「10月14日日本経済新聞朝刊 ・文化欄」で、見出しの部分を拡大すると
下の写真です。
写真の「仏頭」は国宝の「銅造仏頭」です。
その下の御婦人が98歳の黒田康子(しずこ・と読みます)さん。
写真説明に≪夫・義氏の遺影を持つ筆者(写真下)。夫は生前、興福寺
仏頭のことを「お前に似ている」と語っていた≫
「仏頭の目覚め 見届けた夫」の脇にある言葉は、「戦前の興福寺修理中、
500年ぶり再発見に立ち会う」と書かれています。
記事より ≪1937年。秋の深まる古都で、興福寺は東金堂の解体修理中
だった。当時夫は奈良県で古建築保存業務に携わっていた。10月の終わ
る頃、本尊・薬師如来の後ろの板壁をはがすと、~内部にあの仏頭が。
夫は静岡県出身~建築史が専門の技官。古美術にも明るかった、~「しみ
じみと眺めた時の興奮はなお生々しく残っている」と夫はよく述懐した。胴体
のない破損仏だが、異例の早さで翌年には国宝に指定された。≫
さらに義さんとのことでは≪ある歴史の講習会に参加した私は講師だった
夫に一目ぼれ。半年にわたる文通の末、1941年に結婚した。夫の勤務地
だった奈良で新婚生活を送り、息子も授かった。しかし夫は44年に召集され、
翌年フィリピンで戦死した。31歳だった。≫
屋根裏人さんの疑問に答えるとすれば
夫・義(よしのり)さんは31歳でした。「もう一つの短歌」はその葉書を載せた頁
にあります。
これは黒田康子さんの研究された郷土史(逗子・葉山など)関係を中心にした
文集シリーズの第6集に載せられたもので、康子さんが夫から受け取った「最後
の葉書」で、昭和19年8月以降(その前の葉書の日付が8月20日の消印、「最
後の葉書」には消印も日付もありません、検閲済の印はありますが)。
発信地としては「比島派遣第10612部隊」と書かれていますので、フィリッピン
であったことは分かります。
昨日の短歌も含め二首を記します。
この海の つづきの海を はろばろに 越えて来にしか 夕日に 対ふ
(〇〇上陸)
日盛りは ねむの木かげに 椅子ならべ 裸ひとつが 熟睡(うまい) しにける
(高尾にて)