10月10日の読売新聞に掲載された小泉今日子さんの寄稿文が話題を
呼んでいます。今日図書館で読んでなるほどと思いました。
こんなところ ≪「あまちゃん」は海女ちゃんだけど、甘ちゃんでもある。
ヒロインのアキは「海女になるなりてぇ」 「東京さ行ってアイドルになりてぇ」
と夢をころころ変えては大人達を振り回す。そんな時にあの震災が起こる。
誰の胸にもまだあの痛みは残っている≫、そのあとに (ゴシックはkaeru)
≪出来上がった台本を読んで私は泣いてしまった。≫とあります。
≪誰も死なせないというのが宮藤さんの選択だった。夢の箱の中にいる
私達に出来ることは希望を与えることなのだと強い気持ちが湧き上がった。
ヒロインは地元に帰り、一番好きな場所で自分らしく生きると決めた。≫
昨日と今日のこの「kaeruのつぶやき」のテーマ「死刑」の対極にあるの
が 「誰も死なせない」(誰も殺さない) という選択だということを教えてくれ
ています。その選択こそが役者の役割の自覚となり 「強い気持ち」 を湧き
上がらせたのです。
このドラマに対して何故原発を取り上げないのか、避けているのだとい
う批判も読みましたが、産業のエネルギー問題を問う前提に人間の生命
のエレルギーを守り発揮させることを優先させ、人間の生きるエネルギー
に依拠してこそその他の社会的諸問題を解決する社会的協同力が生ま
れてくるのだ、とのメッセージが送られていたのです。
今日「あまちゃん総集編」の再放送でしたが、都合で見られませんでした。
注目して見ようと思っていた「三陸鉄道」については、今述べました「社会的
協同力」の結合する場として見てみたかったのです。 企業体が内部発展論
理=利益追求型から地域の諸問題解決の地域力集合体として位置づけら
れる可能性を感じています。