古いところからブログにアップしていますが、整理中に、感想をメモしていたので
下記に追記しました。4月6日にアップしたものですが、更新版です。
やっぱり見てすぐ書かないと感動が記録されないですね。しばらくたって
落ち着いて書くのもまたいいですけれど・・
初期のころの北斎の動きのある躍動的な風景画には驚きました。
去年小布施の北斎館で北斎の人生の全容と肉筆画の素晴らしさに
それこそ北斎再発見をしたのですが、今回はさらに規模の大きな展覧会でした。
あるばとろすさんからとても良かったとのお話を伺って、ぜひ期間中に
行かなくてはと思っていました。
入るのに少し待たされましたが、充分ゆっくりと見ることができて良かったです。
終わりに近づくとまた混みそうなのでできるだけ早くと思って出かけました。
まぁ彼は天才ですね。その時代時代で夢中になったものが違って、単なる浮世絵で
終わらなかったところがすごいです。
私の持っている博多帯が北斎漫画から取ったと説明がありましたが、着物の柄の
ノートがあったので、このシリーズに入っているのかしらと思いました。
風景画ではブリューゲルの絵みたいと話している人がいました。
最後の2枚も心に残る絵でした。
とにかく動きがある彼の絵はすごい。若いころの歌舞伎役者の絵の時からもう仕上がって
いたようですが、70を過ぎてからのがまたすごくてここから本番かみたいな・・
人間ってすごい人はすごいと本当にそう思います。凡人も少しは希望が持てます。
3月15日
桜はまだの頃、六本木ヒルズの中の森ミュージアムまで北斎の全容を追った新北斎展 HOKUSAI UPDATED があり、
そろそろ終わりに近づき、込み合う前に行こうと金曜の午前中に行ってきました。
タイトルはなんとなくサントリーでやっていた広重VIVIDを連想しますね。
北斎については漠然としか知らなかったのですが、昨年信州に旅行した時に小布施の北斎館で
その生涯と変遷に触れて驚きました。今まで北斎の一部しか知らなかったのだと思いました。
そこでしばらく英国で展示され戻ったばかりの上町祭屋台や多くの肉筆画を見て素晴らしいと
思いました。今回は永田コレクションが島根県に寄贈されて他の場所では見れなくなるとのこと
もあり、見ておかないとと思いました。
それぞれの期に完成に近いものができ、次々興味が移っていった北斎でしたが特に晩年のものが好きです。
●春朗(しゅんろう)期
役者絵の名手の弟子として、江戸画壇に登場
葛飾北斎は1760(宝暦10)年9月、江戸本所割下水(ほんじょわりげすい)に生を受けています。
その後、4歳で幕府御用鏡師、中島伊勢(なかじまいせ)の養子となり、好んで写生をして過ごし、手先が
器用だったことから14歳で木彫り職人に弟子入り。19歳のときには、当時名うての役者絵師、勝川春章
(かつかわしゅんしょう)のもとに入門。間もなく彼は勝川春朗(しゅんろう)の名を得て、20歳のころ、
細判役者絵によって浮世絵の世界に登場します。しかし、その好奇心に富む性格から、師の模倣に飽き足らず、
内緒で狩野派や洋画を学び、ついに破門。それがひいては、波乱に富んだ絵師人生へとつながっていくのです。
●宗理(そうり)期
浮世絵画派とは一線を画した、独自様式で評判となる
勝川派から追われた葛飾北斎は、36歳ごろから宗理(そうり)の落款(らっかん)を使用するようになりました。
前年に琳派の町絵師、俵屋(たわらや)宗理を襲名したものと考えられています。当時、仕事場を失った彼は生活に
窮するようになってしまいます。しかし、絵に対する情熱はかえって高まっていく一方。オランダの風景版画などに
影響を受けたのもこのころです。春朗時代に手がけていた、浮世絵版画や黄表紙などからは当然疎遠に。そこで
出合ったのが、当時全国的な流行となりつつあった狂歌の世界でした。結果、宗理の名で、豪華な狂歌絵本や
優れた摺物(すりもの)を多数発表しています。さらに、たくさんの肉筆作品を描き、自らの個性を前面に出す
ようになっていくのです。
●葛飾北斎(かつしかほくさい)期
読本挿絵の第一人者となり、肉筆画にも異才を発揮
葛飾北斎にとって大きな転機は、宗理の名を門人に譲り、1805(文化2)年に葛飾北斎と号するようになったとき。
以後、彼はどの画派に属することもなく、独立した絵師としての道を拓いていったのです。宗理期の享和年間に洋画に
触れてきた北斎は、文化年間になって新たに脚光を浴び始めていた長編小説、読本の挿絵へと仕事の中心軸を移して
いきます。これは読本の隆盛へとつながり、北斎が挿絵を手がけたからこそ読本は大流行したといわれるほど。
北斎は、浮世絵版画においても多彩な表現を用いるようになり、名所絵や戯画などを発表。また、肉筆画の作品も
最晩年と並んで多く手がけており、美人画など幾多の名作を残しています。
●戴斗(たいと)期
絵手本へと興味が移り、その最高峰『北斎漫画』を刊行
50歳を過ぎてから、葛飾北斎はまた新たな雅号である、戴斗(たいと)を得ます。さらに、読本挿絵から絵手本へと、
興味と制作の対象を移しています。絵手本とは、門人や私淑する人たちが絵を学ぶ際の手本となるよう、版画を本に
したものです。葛飾北斎の絵手本は徐々に対象が広がっていき、工芸職人向けのデザイン集、図案集という存在に
なります。これは、いかに多くの門人、私淑者が北斎のもとにいたかを証明するものでもあります。葛飾北斎は
関西旅行の途中、300あまりの絵手本を描いています。それをまとめたものが、後世に名を残す『北斎漫画』
初編でした。そのデッサン力は評判となり、以後、15編も刊行されるにいたっています。
●為一(いいつ)期
『富嶽三十六景』をはじめ、錦絵版画の名作を連発
現代では定年を迎える60歳を過ぎて、葛飾北斎はまたしても新たな雅号を使い始めます。1820(文政3)年正月の
摺物に署名した為一(いいつ)がそれです。この期の前半は戴斗期に引き続いて絵手本制作に熱中していましたが、
次第に色紙判の摺物に秀作を数多く残すようになっていきます。そして、錦絵に傾注するようになり、不朽の名作を
世に送り出すことになります。その作品こそ、今日、北斎と聞いて多くの人がすぐに思い浮かべる、『富嶽三十六景』です。
また、『諸国瀧廻り』、『諸国名橋奇覧』などの風景版画や花鳥版画、さらには古典や怪談をモチーフにした色鮮やかな錦絵
版画など、このころの秀作は枚挙にいとまがありません。
●画狂老人卍期
(がきょうろうじん まんじ)
老いてなお、意欲は旺盛、最晩年まで肉筆画に没頭
浮世絵版画で名声を得たにもかかわらず、葛飾北斎は次第に版画への熱意を失っていきます。しかし、75歳にして上梓
(じょうし)した風景絵本『富嶽百景』に、葛飾北斎は作画へのあふれる情熱を記し、画狂老人卍へと号を変更。老いて
なお意欲は衰えず、晩年を迎えてさらに新たな世界に挑む姿は感嘆に値します。北斎が最後に手がけたのは、肉筆画。
それも、当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていました。
また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、その旺盛な制作意欲は常人を超えたものといっても過言ではないでしょう。
70年にわたって、貪欲に独自の画風を追求し、今際(いまわ)のきわまで絵筆を握り続けた葛飾北斎。その驚異的な絵師
人生は、新時代の足音が大きくなった1849(嘉永2)年、ひっそりと幕を下ろしました。
北斎の衝撃 和楽ムックより
今回の展覧会ではその気ごとの絵が展示され、どれだけ絵が好きだったのかと思いました。特に年齢が上がっていくほど
素晴らしくなっていくことが何か凡人にも勇気を与えるようなものでした。
私の持っている博多織の帯も北斎漫画から取ったと説明がありました。今回の展覧会でも和装の図案帳もありました。
その構図の斬新さから、素描の生き生きとした表現、晩年のやさしい植物の肉筆画。これだけの作品を見るだけでも
受け取るものが大きくて衝撃的です。描かずにはいられない、描くことが大好きな人というイメージです。
また小布施に行ってみたくなりましたが、次回は岩松院の天井画の大作「大鳳凰図」を見てみたいです。私も好きな街です。
最晩年に近い作品 向日葵 はシンシナティからの里帰りでした。
晩年の北斎を表したものとの説もあります。遺作は富士山の絵とか。
最後まで情熱を持ち続けた画家です。
六本木ヒルズの一日
何回来ても同じ写真を撮っています。変わりゆく東京。新宿御苑の手前に建設が進んでいる国立競技場が見えます。
新宿御苑や明治時宮の森が見えます。
真ん中近くに迎賓館と東宮御所でしょうか・・
スカイツリー方向に見えるのは皇居。東京の緑はほとんど皇室関係か江戸時代の大名屋敷の名残とかですね。
六本木についたら、キューピーさんにつかまってしまいました。何かキャンペーンをやっていて
無理やりでもないけど、写真を撮ってくれました。
毛利庭園の桜はまだでした。
ヒュウガミズキとアシビくらいしか咲いていなかったけど、池のほとりでお弁当を食べました。
自分で作ったお弁当はおいしいです。
まだ少し肌寒かったので、この水のオブジェ?は寒すぎる。
March 15 2019 Roppongi
下記に追記しました。4月6日にアップしたものですが、更新版です。
やっぱり見てすぐ書かないと感動が記録されないですね。しばらくたって
落ち着いて書くのもまたいいですけれど・・
初期のころの北斎の動きのある躍動的な風景画には驚きました。
去年小布施の北斎館で北斎の人生の全容と肉筆画の素晴らしさに
それこそ北斎再発見をしたのですが、今回はさらに規模の大きな展覧会でした。
あるばとろすさんからとても良かったとのお話を伺って、ぜひ期間中に
行かなくてはと思っていました。
入るのに少し待たされましたが、充分ゆっくりと見ることができて良かったです。
終わりに近づくとまた混みそうなのでできるだけ早くと思って出かけました。
まぁ彼は天才ですね。その時代時代で夢中になったものが違って、単なる浮世絵で
終わらなかったところがすごいです。
私の持っている博多帯が北斎漫画から取ったと説明がありましたが、着物の柄の
ノートがあったので、このシリーズに入っているのかしらと思いました。
風景画ではブリューゲルの絵みたいと話している人がいました。
最後の2枚も心に残る絵でした。
とにかく動きがある彼の絵はすごい。若いころの歌舞伎役者の絵の時からもう仕上がって
いたようですが、70を過ぎてからのがまたすごくてここから本番かみたいな・・
人間ってすごい人はすごいと本当にそう思います。凡人も少しは希望が持てます。
3月15日
桜はまだの頃、六本木ヒルズの中の森ミュージアムまで北斎の全容を追った新北斎展 HOKUSAI UPDATED があり、
そろそろ終わりに近づき、込み合う前に行こうと金曜の午前中に行ってきました。
タイトルはなんとなくサントリーでやっていた広重VIVIDを連想しますね。
北斎については漠然としか知らなかったのですが、昨年信州に旅行した時に小布施の北斎館で
その生涯と変遷に触れて驚きました。今まで北斎の一部しか知らなかったのだと思いました。
そこでしばらく英国で展示され戻ったばかりの上町祭屋台や多くの肉筆画を見て素晴らしいと
思いました。今回は永田コレクションが島根県に寄贈されて他の場所では見れなくなるとのこと
もあり、見ておかないとと思いました。
それぞれの期に完成に近いものができ、次々興味が移っていった北斎でしたが特に晩年のものが好きです。
●春朗(しゅんろう)期
役者絵の名手の弟子として、江戸画壇に登場
葛飾北斎は1760(宝暦10)年9月、江戸本所割下水(ほんじょわりげすい)に生を受けています。
その後、4歳で幕府御用鏡師、中島伊勢(なかじまいせ)の養子となり、好んで写生をして過ごし、手先が
器用だったことから14歳で木彫り職人に弟子入り。19歳のときには、当時名うての役者絵師、勝川春章
(かつかわしゅんしょう)のもとに入門。間もなく彼は勝川春朗(しゅんろう)の名を得て、20歳のころ、
細判役者絵によって浮世絵の世界に登場します。しかし、その好奇心に富む性格から、師の模倣に飽き足らず、
内緒で狩野派や洋画を学び、ついに破門。それがひいては、波乱に富んだ絵師人生へとつながっていくのです。
●宗理(そうり)期
浮世絵画派とは一線を画した、独自様式で評判となる
勝川派から追われた葛飾北斎は、36歳ごろから宗理(そうり)の落款(らっかん)を使用するようになりました。
前年に琳派の町絵師、俵屋(たわらや)宗理を襲名したものと考えられています。当時、仕事場を失った彼は生活に
窮するようになってしまいます。しかし、絵に対する情熱はかえって高まっていく一方。オランダの風景版画などに
影響を受けたのもこのころです。春朗時代に手がけていた、浮世絵版画や黄表紙などからは当然疎遠に。そこで
出合ったのが、当時全国的な流行となりつつあった狂歌の世界でした。結果、宗理の名で、豪華な狂歌絵本や
優れた摺物(すりもの)を多数発表しています。さらに、たくさんの肉筆作品を描き、自らの個性を前面に出す
ようになっていくのです。
●葛飾北斎(かつしかほくさい)期
読本挿絵の第一人者となり、肉筆画にも異才を発揮
葛飾北斎にとって大きな転機は、宗理の名を門人に譲り、1805(文化2)年に葛飾北斎と号するようになったとき。
以後、彼はどの画派に属することもなく、独立した絵師としての道を拓いていったのです。宗理期の享和年間に洋画に
触れてきた北斎は、文化年間になって新たに脚光を浴び始めていた長編小説、読本の挿絵へと仕事の中心軸を移して
いきます。これは読本の隆盛へとつながり、北斎が挿絵を手がけたからこそ読本は大流行したといわれるほど。
北斎は、浮世絵版画においても多彩な表現を用いるようになり、名所絵や戯画などを発表。また、肉筆画の作品も
最晩年と並んで多く手がけており、美人画など幾多の名作を残しています。
●戴斗(たいと)期
絵手本へと興味が移り、その最高峰『北斎漫画』を刊行
50歳を過ぎてから、葛飾北斎はまた新たな雅号である、戴斗(たいと)を得ます。さらに、読本挿絵から絵手本へと、
興味と制作の対象を移しています。絵手本とは、門人や私淑する人たちが絵を学ぶ際の手本となるよう、版画を本に
したものです。葛飾北斎の絵手本は徐々に対象が広がっていき、工芸職人向けのデザイン集、図案集という存在に
なります。これは、いかに多くの門人、私淑者が北斎のもとにいたかを証明するものでもあります。葛飾北斎は
関西旅行の途中、300あまりの絵手本を描いています。それをまとめたものが、後世に名を残す『北斎漫画』
初編でした。そのデッサン力は評判となり、以後、15編も刊行されるにいたっています。
●為一(いいつ)期
『富嶽三十六景』をはじめ、錦絵版画の名作を連発
現代では定年を迎える60歳を過ぎて、葛飾北斎はまたしても新たな雅号を使い始めます。1820(文政3)年正月の
摺物に署名した為一(いいつ)がそれです。この期の前半は戴斗期に引き続いて絵手本制作に熱中していましたが、
次第に色紙判の摺物に秀作を数多く残すようになっていきます。そして、錦絵に傾注するようになり、不朽の名作を
世に送り出すことになります。その作品こそ、今日、北斎と聞いて多くの人がすぐに思い浮かべる、『富嶽三十六景』です。
また、『諸国瀧廻り』、『諸国名橋奇覧』などの風景版画や花鳥版画、さらには古典や怪談をモチーフにした色鮮やかな錦絵
版画など、このころの秀作は枚挙にいとまがありません。
●画狂老人卍期
(がきょうろうじん まんじ)
老いてなお、意欲は旺盛、最晩年まで肉筆画に没頭
浮世絵版画で名声を得たにもかかわらず、葛飾北斎は次第に版画への熱意を失っていきます。しかし、75歳にして上梓
(じょうし)した風景絵本『富嶽百景』に、葛飾北斎は作画へのあふれる情熱を記し、画狂老人卍へと号を変更。老いて
なお意欲は衰えず、晩年を迎えてさらに新たな世界に挑む姿は感嘆に値します。北斎が最後に手がけたのは、肉筆画。
それも、当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていました。
また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、その旺盛な制作意欲は常人を超えたものといっても過言ではないでしょう。
70年にわたって、貪欲に独自の画風を追求し、今際(いまわ)のきわまで絵筆を握り続けた葛飾北斎。その驚異的な絵師
人生は、新時代の足音が大きくなった1849(嘉永2)年、ひっそりと幕を下ろしました。
北斎の衝撃 和楽ムックより
今回の展覧会ではその気ごとの絵が展示され、どれだけ絵が好きだったのかと思いました。特に年齢が上がっていくほど
素晴らしくなっていくことが何か凡人にも勇気を与えるようなものでした。
私の持っている博多織の帯も北斎漫画から取ったと説明がありました。今回の展覧会でも和装の図案帳もありました。
その構図の斬新さから、素描の生き生きとした表現、晩年のやさしい植物の肉筆画。これだけの作品を見るだけでも
受け取るものが大きくて衝撃的です。描かずにはいられない、描くことが大好きな人というイメージです。
また小布施に行ってみたくなりましたが、次回は岩松院の天井画の大作「大鳳凰図」を見てみたいです。私も好きな街です。
最晩年に近い作品 向日葵 はシンシナティからの里帰りでした。
晩年の北斎を表したものとの説もあります。遺作は富士山の絵とか。
最後まで情熱を持ち続けた画家です。
六本木ヒルズの一日
何回来ても同じ写真を撮っています。変わりゆく東京。新宿御苑の手前に建設が進んでいる国立競技場が見えます。
新宿御苑や明治時宮の森が見えます。
真ん中近くに迎賓館と東宮御所でしょうか・・
スカイツリー方向に見えるのは皇居。東京の緑はほとんど皇室関係か江戸時代の大名屋敷の名残とかですね。
六本木についたら、キューピーさんにつかまってしまいました。何かキャンペーンをやっていて
無理やりでもないけど、写真を撮ってくれました。
毛利庭園の桜はまだでした。
ヒュウガミズキとアシビくらいしか咲いていなかったけど、池のほとりでお弁当を食べました。
自分で作ったお弁当はおいしいです。
まだ少し肌寒かったので、この水のオブジェ?は寒すぎる。
March 15 2019 Roppongi
可愛いです♡こちらもニコニコ。
北斎展とあまりにもギャップがあって・・・北斎展に向かっていたのに、捕まってしまいました。
私は自分のために忘れちゃいそうなのでしかも出典にあるように引用です。コピペなので・・(^_^;)
60歳以降が好きですが、本当にすごい人がいたものですね。