庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

未年生まれ

2007-03-22 11:40:00 | 大空
加藤周一に初めて出合ったのは、高校2年の現代国語の教科書の中の『雑種文化』の抜粋だった。その数ページを夢中で読むうちに、乱雑な頭の中がきれいに整理さていくような気がした。彼の文章には独特のリズムがあり、混沌から秩序を生み出すような力がある。曖昧で不安定な周囲の世界がクッキリと輪郭をそなえて、自分の手で確かに掴み取ることができるようなものに変わっていくのだ。

私はすぐに街の本屋に出かけて彼の本を探し、その半生を描いた自伝『羊の歌』を見つけた。岩波新書のこの二冊本ほど、私の青春前期のものの考え方に影響を与えた書物はない。何回も繰り返して読むうちに、その文章は私の頭の中でリズムを伴いながら反響するようになり、私は彼の言葉で考えるようになっていた。

「一日一冊読書」などという無茶な課題を自分に課したのも彼の影響で、今に続く乱読癖はこのあたりに源がある。そして、学年が変わって新しい教科書をもらったら、ほとんどその日のうちに通読して、その中の気に入った筆者の本を、街の本屋や図書館で探し出して読むことを常とするようになった。この方法は英語の学習にも応用されることになる。

加藤が『羊の歌』を書いたのは40歳代後半である。自己の人生を少し腰をすえて振り返ろうなどという気になるには、それなりに大きな契機が必要だろう。大正8年生まれの彼が40代というと1960年代ということになるが、彼の中で何があったかつぶさには分からない。ただ、私が青春未満、60年安保の空気が残るこの頃は現在と比べて、学生のみならず日本社会全体に自由を求める活力が溢れていたことは確かだ。

羊年生まれというと、ちょうど私の父と同年で、父はかなり動作が緩慢になってきてはいるが90歳を目前にして元気だ。彼は16歳で海軍に志願して運よく戦後まで生き残った。いつだったか、彼に天皇の戦争責任について聞いたら、「もちろん有るに決まっている!」と即答した。しかし、彼の世界観が日本という国家を超えることはない。

加藤は数年前に9条の会の発起人の一人となって戦後リベラリズムの灯をともし続けている。ともかく共にお元気で、なるべく永く生きてくれることを願う。
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人間臨終図巻

2007-03-21 23:44:31 | 拾い読み
久しぶりに県立図書館まで・・・山田風太郎の『人間臨終図巻』を借りてきた。二段組400ページ以上の上下二冊本で、もとより全部読むつもりはなく、いつもの拾い読みになるだろう。



早速、何人かの最後の言葉や消息に目を通していたら、世界がだんだん暗く沈んでいくような気分になったので30分ほどで止めた。死の問題を真正面から扱うのは、今の私にはまだ荷が重過ぎるのかもしれない。ただ、歴史に名を残した900人もの人物の、あまり知ることのなかった秘話・逸話の類がてんこ盛りなので、そのうち人物辞典として3冊本を揃えておこうと思う。



いつものように県立美術館の角を曲がって図書館に至る小道を通し見たら、行き止まりに壁を作っていた市営プールがきれいに取り払われて更地になり、クスの老木の背後には広い空間がャJンと開けていた。向こう側の木立まで見通せるほど明るい空間になって、周囲の風の流れが大きく変わったような新鮮さを感じた。

堀の内はすでに野球場跡も競輪場跡も公園整備が進んでいる。近いうちに樹木に囲まれた広大な公園になるそうだ。大いに結構。できればホームレスの皆さんが安心して野宿できるオープンスペースも確保しといてくれるともっと結構なのだが・・・。
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必察

2007-03-21 10:26:07 | 言葉
子曰、衆惡之必察焉、衆好之必察焉、

子の曰わく、衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。
- 巻第八 衛靈公 第十五

先生が言われた、「大勢が憎むときも必ず調べてみるし、大勢が好むときも必ず調べてみる。[盲従はしない。]」

※現代語訳は論語の世界から引用させて頂きました。

論語が更に面白い。大勢の動向に左右されることなく、必ず自分で調べて確かめてみる。100人中99人が賛同することであっても、自分の合理的判断と良心に照らして、善しとしないことには組しない。逆もまた然りである。これは科学的方法論の基本であり、近代的個人がとるべき姿勢そのものではないか。
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都知事選

2007-03-20 13:47:57 | 政治
遠く海を隔てた小さな地方都市に住んでいても、東京都の知事選には無関心ではいられない。この大都市は、私が1970年代から80年代の頭にかけて、青春時代の貴重な8年間を過ごした街だ。

この期間に、その後の人生の方向性がある程度決定したということがあり、今でも当時の友人たちとの交流が続いているということもあるが、それよりも、明治時代に完成した日本の中央集権構造の中心点がこの地であり、首都機能の分散化や権力の拡散と弱体化を本獅フ一つとする地方分権の流れに、ほとんど真っ向から対立する、国家主義バンザイの人間が行政権力の頂点にいる、ということが気になって仕方がないのだ。

まだまだ集権色の強い国家で、しかも愛媛のように保守的な県に住んでいると、東京の動きがほとんどそのまま地方の動きに連動するのがよく分かる。この地で相当にリベラルな論調の愛媛新聞が圧涛Iに広く読まれているのはちょっと奇妙な気もするが、それはともかく、この8年間の石原都政の右寄り路線は、この地方都市の政治にも確実に影を落としてきた。

たまに国に噛み付くパフォーマンスをして誤魔化そうとはしているけれども、彼ほど現政権と嗜好を同じくする首長はいないだろう。国民のために国家があるのではなく国家のために国民があるとする嗜好である。国旗国歌法が施行されてから、全国各地の同職者の先頭に立って東京都の教職員の皆さんがどれほど苦しい思いをしているか、教育基本法が改定されて教育の行政監視が強まれば、今後どれほどの苦しみを背負うことになるか・・・彼には想像すらできないであろう。

私が20歳代前半、1970年代のあの時代でさえ、学校教育の現場が行政の有形無形の干渉によっていかに歪んだものになっていたか・・・ある片田舎の中学校での教育実習のたった3週間の間にも私は痛いほど感じていた。教師が苦しめば感受性の固まりともいえる子供たちも苦しむのである。都民の多数派は、彼を三選して更に4年間この路線を突き進ませるつもりだろうか・・・ちょっと目が離せないところだ。

面白いのは、昨日、タレントの桜金造が立候補を表明したということで、その趣獅ェ「生存権と幸福追求権」。彼はある番組のインタビューで「幸福追求権は請求権ではない。引きこもりだってニートだって良いじゃないか、みんな自分らしく幸せを追求していけばいいのだ・・・」というようなことを言っていた。

その通りだ。簡単には外部社会に適応できない若者、適当な定職が見つからずにいる若者・・・一つの時代が行き詰って行き場を失ったような時に、新しい時代を開いていくのは、いつも大概こういう種類の青年たちだった。これからもきっとそうだろう。

私が東京都民なら彼に一票!・・・というところだが、とりあえず供託金の300万円が没収されることのないよう祈ることにしよう。
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自然に帰る

2007-03-19 10:53:02 | 自然
「自然ほど良い教育者はない。ルソーが自然に帰れと言った言葉の中には限り無く深い意味が味われる。自然は良い教育者であると同時に、また無尽蔵の図書館である。自然の中に書かれた事実ほど多種多様にして、しかも明瞭精確な記録はあるまい。」と書いたのは大正12年の石川三四郎だった。

エマソンは森の中で透明な眼球となり、ソローは一人森に入って2年を暮らして自然の偉大さを体現した。石川は大逆事件の後ヨーロッパに亡命してフランスの農家で5年を過ごすうちに大自然の絶妙な摂理に目覚め、後に土民生活を提唱し彼なりに実践することになる。

私は彼の言う土民生活はとてもできそうもない。ただ、海民生活ならある程度は可能かもしれない・・・と思ったりもしているのだが、いずれにしても、自然世界の厳しさや美しさや不思議さを感じることなく、この世界に生きる生き物たちと接することはほとんどなくなってきている。

昨日は再び自転車散歩で海岸まで出て、干潟や浜辺の鳥たちをじっと観ていた。植物はもちろん、自然の中で生きる動物は例外なく見事に美しい。その美しさがどうしてどこから来るものか・・・ずっと考え続けているのだが、今のところ、それは自然だから美しいのだ、という同義反復みたいな答えを大きく超えるものは持っていない。



これは波紋で飾られた砂浜にャcンと一羽たたずんでいたセグロカモメ。飽きることなく静かに海に向かって立っているスキのない姿自体が美しい。近づくと風に向かって飛び立って大きく旋回し、三羽の仲間を連れて帰ってきた。スパンは1.5mはあるだろう。そのリッジソアリングのみごとさ、件p的なリーディングエッジのフォルムと太陽に白く透けて輝くトレーリングエッジ。何回見ても飽きることはない。すぐ傍の波打ち際にはマガモの家族だろう10羽ほど、私たちには私たちのスタイルがあるのよ、というような風に遊んでいる。



干潟にはその他にざっと見ただけでも、シラサギ、セキレイ、シギの仲間など数種類、何十羽かはいる。どんなに近い距離にあっても彼らは互いに干渉することはない。また、なんの遠慮もすることなく、一羽一羽それぞれが自分のスタイルのままに生きている。荘子の中の君子の交際を思い出させる風景でもある。
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堀江海岸

2007-03-17 22:15:18 | 自転車
今日は北東風が冷たかった。暖冬にもやはり寒の戻りというのがあるのか。しかし、空は快晴で太陽はすでに春の高さだ。いつもの自転車散歩で、昼から何年かぶりに堀江海岸まで行ってみた。

この浜は、もう四半世紀以上前に初めてウィンドサーフィンのボードを浮かべた場所だ。風の力だけで海上を移動できることの不思議。真夏の1m/sに満たない微風の中で初めてセールアップに成功し、海面をボードが滑り始めたときの感動は、通販で買ったパラグライダーでスキー場から初めて飛んだ時の感動を凌駕していたかもしれない。それから10年近く、とことんこの海の風と付き合うことになるわけだが、どこまでも魅力的なこの風の世界との縁は、まだとうぶん切れそうもない。



堀江海岸はちょうど整備工事の最中で入れなくなっていた。浜の西側は松林しかない殺風景な場所だったのだが、今はテラス風の海岸道が整備されて、ちょっと洒落れた風景になっている。東の浜は昔のままでなつかしかった。これから良い北東風が入れば、また風に吹かれに来ることになるだろう。今度はもっとゆったりと・・・。


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Slothクラブ

2007-03-17 13:06:01 | 自然
S・C・スズキの関連サイトを巡っていたら、まったく愉快なサイトに行き当たった。その名もSloth(ナマケモノ)クラブ。文化人類学者の辻信一が主催しているNGOで、S・C・スズキもここの会員である。2002年の日本ツアーもこの団体が主催したものだ。音楽家の坂本龍一も会員の一人で、彼女の本『あなたが世界を変える日』に次のような推薦コメントを書いている。

「11年前のリオ・サミットで、当時12歳の少女が世界の首脳を前にしてスピーチをした。その言葉を聞いてぼくは涙を流した。あの時の少女がこのセヴァン・スズキであったことを、ぼくは最近知った。りっぱな女性になっている。すがすがしい。子供の時から今も変わらず、自然が大好きで、地球を守りたいと思って活動している。その姿勢は一貫している。日本にもこれからたくさんのセヴァンのような子供たちが出てくることだろう。それは、もしかしたらこの一冊の本からはじまるのかもしれない。」

数ある動物たちの中で「ナマケモノ」ほどゆっくり生きている種類も少ない。実は私が日記風のブログを始めたきっかけも、自動車から自転車に乗り換えて、生活のペースをシフトダウンしてゆっくり動いてみることで、いつも何かに追いかけられるような歳月を送ってきた自分の、生活態度やものの見方にどのような変化が起こるのか、確かめ記録していきたいと思ったからだ。それが2003年12月の最初の記事であった。

「ナマケモノ会員たちはむしろ毎日いそがしい。」というのも面白い。油断をするとすぐに何かしらの用事が降ってくる、忙(せわ)しない文明社会でナマケルには、それなりの智恵と工夫がいる。ナマケの究極は何もしないことではあるが、この世界では何かしないとなかなか生きていけない。生きていないとナマケルこともできないだろう。では、どうするか・・・そのキーワードは、やはり「ゆっくり」と「自然」であろう。自然はめったに急がないからである。
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S・C・スズキ

2007-03-16 12:25:52 | 自然
12歳の少女が1992年のリオ環境サミットで感動的なアピールを成した話をこないだ少し書いた。その内容が涙が落ちるほど感動的だったので、彼女について少し調べていたら、2002年に日本にも、支援団体のサメ[トで来ていたことを知った。これはその頃の写真らしいが、やはり美しい女性に成長している。



そしてこの頃、正確には2002年の8月18日にタイム・マガジンに掲載された彼女の文章が以下である。これも私の心にスッと入ってくるものだったので、今朝一気に末オてみた。

「私が子供のころ世界は単純でした・・・」私が子供の時もそうだった。「神は生命を分かりやすいものとして創った。それを複雑にしているのは人間である。」と言ったのは飛行家でありナチュラリストでもあったチャールズ・リンドバーグだ。

自然環境云々については人類のみならず地球上の生命全てにとっての問題であり、まさにこの私自身の問題でもある。身近なところからできることに、ゆっくり楽しみながら取り組んでいきたい。

----------------------
子供のころ、世界を変えることができると信じるのは簡単でした。12歳の時、リオ・アースサミットの代表者に向かって訴えた時の情熱を私は覚えています。

「私はただの子供です。しかし、戦争に使われるお金が全部、貧困や環境問題の解決のために使われたら、この世界はどんなに素晴らしいものになるでしょう。あなた方は学校で、人と争わないこと、話し合いで解決すること、人を尊敬すること、散らかしたものを片付けること、他の生き物を傷つけないこと、分かち合うこと、欲張らないことを教えます。それではなぜ、あなた方は、私たちにするなということをしているんですか。あなた方はいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私は言わせてもらいたい。もしその言葉が本当なら、どうか本当だということを行動でしめしてください。」

私は6分間にわたって話し、スタンディングオベーションを受けました。代表者の中には涙を流している方もいました。私の訴えは彼らに届いたかもしれない、私のスピーチが現実に行動を導くかもしれないと思いました。あれから10年経ち、私はさらに多くの会議に出席してきましたが、何が成し遂げられたかはよくは分かりません。権力を持った人たちや個人の声が彼らに届くであろうという私の信頼は深く揺れ動いてきました。

リオの国際会議からいくらかの改善があったのは確かです。私の街バンクーバーでは、ほとんどの家庭がリサイクリング・ボックスを設置しました。4番街には有機栽狽フ食料品店やレストランがあふれています。自転車は人気で、数は少ないですが静かなハイブリッドカーが走り回るようになりました。しかし、新しい世紀が始まって、私の20代の世代は自然世界との繋がりをどんどん失っています。私たちは飲み水をボトルで買います。それと同時に、貧困の世界や社会的不均衡や生物多様性の喪失や気候変動やグローバリゼーションなどがもたらすものに気付いていながら、私たちの多くは、何かをするには大きすぎる問題を引き継いだと感じています。

私が子供のころ、世界は単純でした。しかし、ヤングアダルトとしての私は、教育や仕事やライフスタイルなど、だんだん複雑になっていく生活の中で選択しなければならないことを知りつつあります。私たちは生産し成功することにプレッシャーを感じ始めています。私たちは未来を見るのに、4年ごとに変わる政府の言葉や季刊のビジネスレメ[トなど近視眼的な見方を学んでいます。私たちは経済成長は進歩であると教えられます。しかし、どのようにして幸福や健康や維持可能な生活方法を追求すればよいかについては教えられません。そして、12歳のときに私たちが求めたものが理想的で無邪気なものであったことを学びつつあります。

今、私はすでに子供ではありませんが、私の子供がどのような環境の中で育つだろうかと心配しています。

ヨハネスブルグでは各国政府の代表者が議定書の実行を採択しました。確かに大事なことです。しかし、かれらは10年前のリオでも同じことをしているのです。この会議の本当にあるべきは責任です。政府だけでなく個人的な責任です。私たちは自分自身が散らかしたものを片付けてようとしていません。私たちは自分自身のライフスタイルの代償に立ち向かおうとしていません。カナダでは、西海岸でサケを東海岸ではタラを獲り尽そうとしていますが、その乱獲を止めようとはしません。化石燃料を燃やしすぎることの直接的結果である気候変動を感じ始めているというのに、街中にはSUV(スメ[ツ多目的車)が走っています。

ほんとうに環境を変えるのは私たちにかかっています。私たちは指導者たちの行動を待っていることはできません。私たちは私たち自身の責任と、どうすれば変化を起こせるかということに焦点を当てなければなりません。

去年の春の大学卒業の前に、私は若者たちにサインを求める誓約書を草案するためにエール学生環境連合の皆さんと共に働きました。「責任の認識」とされたその誓約書は、私たちの世代から、より年配の方々に私たちの目的を達成することを助け、実例をもってリードするようにと約束させようというものです。その中には、家庭ゴミを減らすとか、消費を減らすとか、車に頼らないとか、地域内で取れた作物を食べるとか、再利用できるカップを携行するとか、そして最も大切な未来に生き残ることなどの、簡単だけれど基本的なより持続的に生きる方法のリストがあります。この誓約書を3人の友人と私とでヨハネスブルグに持って行き、南アフリカの学生たちに会って、個人の義務のデモンストレーションとして世界サミットで表明する予定です。

しかし、リオからの10年間に、私はリーダーたちに訴えるだけでは充分ではないということを学びました。ずっと昔、ガンジーは言いました。「我々は自分が見たいものに自分自身が変化しなければならない」・・・私は変化は可能であることを知っています。なぜなら私自身が変わっているから。自分の考えをまだ思い描いているから。いまだに自分の人生をどう生きるか決めつつあるから。変化は偉大です。しかし、もし私たちが個人の責任を受け入れ、維持可能な選択を成そうとするのなら、数々の難問に立ち向かうことになるでしょう。そして私たちはその変化の積極的な潮流の一部となることができるのです。

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オーラの泉

2007-03-15 22:54:56 | 自然
青春時代にニューエイジの波を一応経験し、今でもリチャード・バックやライアル・ワトソンを面白く読むくらいだから、いわゆるスピリチュアルな世界の話は嫌いな方ではなく、20歳前後の頃は暇に任せて幽霊の名所巡りとかUFO探しなどをよくやったものだが、私は未だかつてこれぞというものに出会ったことがない。

基本的に自己の感覚器官やある程度客観性を備えた計器類でキャッチできないものには信をおかない・・・という生き方をしている人間にとっては、特別な人にしか見えず聞こえず感じることができず、しかも他人に関することごとを縷々滔々(るるとうとう)と語る人たちが、いかにも胡散(うさん)臭く見えて仕方がないのである。

だから、うちの家人も好みの一つにしているこの人気番組も、私はめったに見ることはないのであるが、昨夜のゲストがシンクロ水泳の小谷実可子で、水との一体化とかイルカとの劇的対面の話題が出てくるということで録画しておくことにした。



美輪明宏や江原なんとかの話はこの際どうでもよろしい。小谷の話は実に興味深かった。シンクロ水泳の国際大会中に完全に水と一体となって歓喜の中で演技を終えたら10点満点が並んで優勝していたとか、奇妙な経緯でイルカと一緒に泳ぐことになったら、それまで付着していた世俗的なあれこれが全部はぎ落とされて自分の生命本来の姿を知ることができた・・・という熱い話は、美輪や江原の話を完全に圧唐オていた。

実は、極めて凡庸な私にも似たような体験があるのだ。私の場合は海水であるが、生まれも育ちも海のそばであったということもあり、小さいときから海に潜るのは夏の季節の日常だった。少し自覚的に潜水を始めたのは、J・マイヨールやJ・クストーの影響が大きいのだが、少し練習をすると10mや20mは平気で潜れるようになり、学生時代、田舎の近くの磯場に小船で出かけてはサザエ採りを夏休みの趣味にしていた時期がある。

よく覚えているのは1回だけだ。その時はサザエ採りにも飽きて、暖かい海中で縦に回ったり横に回ったりしながら遊んでいた。すると、間もなく体中が徐々に海水に溶け込んで自己の体と海水を分けていた、いつもの皮膚感覚がなくなっていくような気がした。地上世界よりもはるかに自由な感覚。まさに水と一体化したような感じで、この上なく愉快だ。海面を見上げると美しい太陽の光がキラキラと変幻自在に踊っている。ああこれが魚やイルカたちの感覚なんだな・・と直感した。彼女の話と共通するのは、いくら泳いでも疲れることがなかったということだ。まったく幸せな体験だったので今でも鮮明に覚えている。

もう一つは、大気との一体感。これもはっきり覚えているのは一回だけで、空を飛び始めて5年くらい経った頃のことだ。パラグライダーでサーマルソアリングやトップランディング(山の離陸地点に着陸すること)を覚えて、少し大きい飛びをし始めた4月、桜の季節だった。

この季節特有の幾らか激しいコンディションの中で1500m辺りまで上げ、サーマルを拾い拾い移動しているうちに、いつもの緊張感や恐賦エが完全に消えてしまった。私は元来浮ェりだから、地に足が着いてない時はたいがい心のどこかにそれらの欠片(かけら)みたいなものを抱えていて、まあそれがあるから今だに生きて飛んでいるということもあるのだけれど、その時はサーマルの上昇風に乗って、ちょっと大げさに言えば、吹き上がって来る桜吹雪に包まれながら、何の不安もなく完全に大気の運動とひとつになっていた。平日のことでもあり、広大な大空にたった一人で1時間ほど、大気に溶け込んだような奇妙な感覚でトップランしたのであるが、心底幸せな時間だった。

たしか西田哲学の用語に「主客合一」という言葉がある。人間が真理を体得するには「純粋経験」が必要であり、それは主体と客体が一体化したときに起こる。禅の世界の悟り体験などはそれであろう・・・というものだ。禅の世界に限らず、様々ないわゆる「至高体験」とか「悟脱体験」のお話の類(たぐい)にも興味深いものがあり、私なりに想い考えることも多いのであるが、たぶんそれに類する小さな体験は、どんな人間でも、ある行為に没入して我れを忘れた時には、いつでもどこでも起こり得るものなのかもしれない。

それが自己の人生観や世界観などを根底から覆すような強烈なものでないにしても、平凡で身近な日常の世界で、小さな努力や体験をゆっくり積み重ねていくことこそが、実は最も確実な幸福への道なのだろうと思ったりもしている。
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仕上げ撮影

2007-03-14 15:09:08 | 大空
2週間に渡って手がけてきた空撮事業が昨日の仕上げ撮影をもって全て終了した。こんな寒い季節にこんなに集中的に飛んだのは11年前の世界戦以来だ。まれに見る暖冬にも助けられた。

昨日のタンデムフライトは珍しく冷たい南西風が7mほど入っていて、テイクオフには好都合だが前へ進むのが大変だ。2回ほど小型のソロ用グライダーを使ってテイクオフしたが上昇率があまりに悪いのですぐ降ろし風が収まるのを待った。

日がかなり西に傾いた5時前、光量の関係でぎりぎりの時間になって、やっとタンデム機が使える風になった。海上のブローラインを見ているとこの季節特有の大きな波風が寄せていることは明らかだし、上空はまだ強めの風が吹いていることが予想できる。

今回は、途中のャCント撮影を含めてエリアの最北端から最南端まで10kmを飛ばなければならない。1時間余りの燃料が切れたら緊急ランディングするよ・・・ということで、ともかく上がってみた。

上空はやはり6mほどの風が波状に吹いていて、対地速度は12km/hほどしか出ない。鹿島の横まで来たらウェイブの下降風帯に突っ込んで、フルパワーでどんなに頑張っても上昇できず、やっと稼いだ200mから50m近く高度を失った。まあ、この世界には「シンク(下降風)あるところリフト(上昇風)あり」という法則があって、しばらく辛抱していたら必ずリフトに当たる。問題は速度だ。

中間地点にあるお寺(善応寺)を大きなS字旋回で撮り終えた頃には残りの燃料が30分を切った。南端の古戦場跡や縄文遺跡までたどり着くのが精一杯かな~・・・と安全に降ろせそうな場所を探しながら飛んでいたら、高度300mあたりでGPSの速度表示が時々20kmに届くようになった。よし、これなら大丈夫だ。

南端まで移動するのに約20分。この間、撮影に集中していたカメラマンもいくらか暇になる。2人で瀬戸内の島影に落ちようとする、静かに紅い夕日を楽しんだ。間もなく南端部の撮影も終えて後は追い風に乗せて帰るだけ・・・まだ多少燃料の余裕はあったが、念のために第2テイクオフとして用意しておいた近くの海岸にランディングしてタスクを終えた。

この世界は毎回のフライトが新しい体験で、今回の仕事もいろいろ楽しく学ぶことが多かった。仕事やお金を生み出す人間社会と飛行の基礎となる自然世界との関係や調和・・・簡単に言えばこんなテーマについて、更に深く考えることができたように思う。ありがたいことだ。良い経験をさせてくれた営業部長、酔い止めを飲みながら頑張ってくれたカメラマン、難しい注文を付けてくれたディレクターにも感謝したい。


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