庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

ナショナリズム

2007-03-12 23:12:08 | 政治
ナショナリズムは子供がかかる病気で、人類の麻疹みたいなものだ」(Nationalism is an infantile sickness. It is the measles of the human race.) と言ったのはアインシュタインだった。

このブログはなるべく政治の世界からは遠いところに置いておこうと考えていたが、最近、日本という国家の行く末がやたら気になり始めたので、思うところを少しは書いておくことにした。政治の世界は変化が激しく結果も評価しやすいから、将来、私の拙い見方が、どの程度正しかったか、どの程度まちがっていたかの判断の良い材料になるだろう。

歴史はたいがい「動と反動」を繰り返しながら進展していくもので、もう少し言うと、単純な反復運動ではなく、ある方向に向かって進む円運動、つまり螺旋(らせん)的な展開をしているのではないか・・・と私は考えているのだが、戦後60年を過ぎた昨今の日本の政治は、あまりに反動色が強くはないか。国家主義への傾斜が激しくはないか。

日本人が近代的「個人」と「自由」の表皮を知ったのが明治の時代であったとするなら、それらを骨髄にしようとしたのが戦後の時代だったと言えるだろう。殊に明治中期から昭和20年までの日本は、西欧列強に対抗し得る近代国家の建設を富国強兵に託して、個人の自由を徹底的に抑圧した。その過程が無残な戦争の繰り返しであり、その結果が決定的な敗戦・亡国である。戦後の新憲法や自由主義教育のおかげで皮膚の下にだいぶ肉が付いてきたところだが、まだ血肉となるには至っていない。

どんな人も自分以外の人間に代わって生きることも死ぬこともできず、自分の思いや行動を誰にも邪魔されたくない存在である限り、個人も自由も元々あるもので、与えられるものでも作り出されるものでも有りようがないわけだが、それをさまざまな権威や権力によって見えなくしたり押さえつけたりしてきたのが、人類の歴史であった。自然権思想が説く通りであり、日本も例外ではない。

西欧諸国は一神教がベースだから、これを神から与えられた侵すべからざる人権とか言うのだろうが、人間が造った万能の神はその製作者の欲するものは何でも製造するからあてにはならない。あらゆる存在に限りなく尊い生命が宿るという、東洋的あるいは太古的世界観や自然観をもって、人類を含めた大自然の生き物たちを観れば、個人も自由も、人間が生まれつき持ち合わせた宿命とも運命とも言えるものであることは、当然の法則的事実だということが分かる。どこの世界に、Aという生き物が風邪を引いてBという生き物がくしゃみをすることやある。どんな生物が自らの本態に生死せざるものやある。

この自然世界の実相を深く観察し了得することによって、本当の意味での他者への思いやりや慈愛が自ずと湧き出し、それが調熟して社会性・道徳性とでも言うものが大小の人間集団を満たすのであって、安定した社会道徳や規範意識などは、いい加減な国家が作るいい加減な制度などによって生み出せるものではない。ましてや現首相が唱導する「美しい国づくり」などにおいておや、である。こんなことは、ついこないだの昭和初期から終戦までにかけての歴史が明確に証明しているではないか。

少し冷静に客観的に見ればたちまち分かる簡単な真実も、人が自分自身の眼で見ること、自分自身の頭で考えることを止めて、集団なり権威なり権力なりの目や頭になったとたんに見えなくなる。これも当然といえば当然のことだ。今後しばらくは、戦後何十年か続いた個人や自由に対する集団や国家の反動が勢いを増すであろう。いつの時代においても一国の有り様は国民の多数派の嗜好で決まる。

しかし、その反動期もそう長く続くことはあるまい。目覚めた個人の集合体である人類の意識は、大きな螺旋模様を描きながら、民族愛・国家愛などというちっぽけなものではなく、人類愛から地球愛へ更には宇宙愛へと着実に広がりつつあるように思えるからである。
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YBBからNTTへ

2007-03-10 16:19:00 | その他
この数年お世話になったYahooBBから思い切ってNTTの光フレッツに変えることにした。思い切ってというのは、ホームページやらメールアドレスの件があって長い間躊躇していたということがあるのだが、これが実は杞憂であることが分かった。

ソフトバンクもこういう顧客が多いことを想定してちゃんとそれなりのサービスを用意しているのだ。ジオシティーズ・ライトとかゴールドとか・・・今日の解約申し込みの電話では解約ではなく休止ということにすれば、月額300円ほどかかるが、ネット接続を除いて今まで通り何の支障もなくYahooBBのサービスを継続することができることを知った。次のサーバーは老舗のニフティが運営する@ニフティに決めた。これで、サーバーの全体容量も幾らか増えるので、少々大きなファイルも安心してUPすることができるだろう。

ウィンドウズ95が出てすでに12年、干支が一回りしたわけだが、この間のインターネットやパソコンの技術革新は目まぐるしかった。ほとんど驚異的と言ってよい。私が手にしたWin95最初のPCは14インチモニター一体型のNECキャンビーだった。(当時25万円、今これだけ使えばかなりの性能のデスクトップが3台は買える。)Win3.1に比べると格段に扱いやすいOSになって、随分多くの時間をワクワクしながら、時にはノイローゼになりそうなくらい熱心にこの世界との付き合いを始めた。

ちょっと振り返ってみると、私のパソコンの原点は25年前のまだマイコンと呼んでいた頃のシャープMZ7000だ。これを安月給をはたいて購入したときの嬉しさは格別だった。モニターは家庭用のテレビ、プログラムはBASICをカセットテープで小さなメモリに何分もかけて読み込ませてから更にゲームソフトのテープを読ませる。それでやっと『スタートレック』などのアドベンチャーゲームみたいなものが楽しめる・・・というもので、ともかくゲームがしたくて始めたようなものだった。

そして、このBASIC言語を何日もかけて組んでやっと完成させ大喜びしたのが単純なピンャ塔Qームだった。これで充分感動できた時代だ。このゲーム熱も数年後にファミコンなる万能ゲーム機が出て一挙に冷めてしまうことになる。

12年前のネット環境は今から考えるとバカ高い料金の従量制で、ピーヒョロと鳴く14.4Kbpsのモデムで、常に時間を気にしながら100kb程度の(楽しい)画像を落とすのに何十分もじっと待っていたこともあった。これが今や100Mbpsの時代だ。ざっと1000倍の速度!

HPを中心とするネット上の情報の総量も圧涛Iに少なかったけれども、英語サイトの文書類にはかなり使えるものがあった。すごい時代になったな!これからもっとすごいことになるだろうなー・・・と考えていた。そして、その通りになった。PCのCPUやハードなどはもう言葉にもならないくらい大変なもので、私の想像をはるかに超えていた。メガバイトの単位のハードディスクの容量がギガバイトになったのだから、これも単純に1000倍進歩したということになる。10年ちょっとで1000倍に変化するものなんて、第一次世界大戦後のドイツを除いては、終戦直後の日本の物価くらいのものだろう。

人間の環境適応能力は全ての動物に優れる・・・という人がいる。私もある程度はこの説に賛同するが、しかし、どんどん前に進むだけが人間の幸せでないことも良く知っている。つまり、日の当たる進歩の裏にはおそらく同程度の退歩の影がくっ付いているという見方をする。長い目で見た場合、その退歩・後退が人類の存続にとって決定的な負荷になり、取り返しの付かないものにならないことを、とりあえず今は願うよりないのかもしれない。
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己のために

2007-03-09 11:13:20 | 言葉
子曰、古之學者爲己、今之學者爲人、

子の曰わく、古(いにしえ)の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。
- 論語 憲問 第十四
 
先生が言われた、「昔の学んだ人は自分の[修養の]ためにした。この頃の学ぶ人は人に知られたい為にする。」

※現代語訳は論語の世界から引用させて頂きました。

論語がますます面白い。先日の「古代発掘ミステリー・・・」なんとかというTV番組で、南米の身長2mを超えるかという巨人の遺跡調査から、古代には相当に高度な文明があり、その人骨の遺伝子が日本北部の弥生人に近く、中国・山東省に住んでいた人たちのものと共通するという興味深いレメ[トがされていた。そして、山東省といえば孔子の生誕地で、実際、孔子も少なくとも190cmを超える巨人であった。

孔子の遠い親戚が7世紀の南米で高度な文明を作っていた・・・これだけでもビックリ仰天の話であるが、更に興味深かったのは、美しい装飾品に身を包んだ「高貴な人」と名づけられた人の脊椎が磨耗しており、社会的地位は極めて高かったであろうにもかかわらず、かなり過酷な労働をしていたであろうと推測されることであった。

一般的に地位の高い人間ほど肉体労働から遠ざかる。つまり楽をするようにできている。有史を通じて変わらない階級社会の常識がここには当てはまらないらしい。ということは、ある意味理想的な平等社会がすでにそこにあったのではないか、とも推測できる。

しかし、それにしても何故、あれだけの痕跡を残す文明が絶滅したのだろうか・・・これが我々の現代文明の行く末を考える上でも、非常に興味深い問題のように思える。
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冷え込み

2007-03-07 19:40:00 | 大空
ずいぶん冷え込んだ。1500mの気温がマイナス10℃の予報になっていたから、こりゃ大変だぁ・・・と思っていたら、今日はほとんど真冬の寒さだ。まだ西風が強く上空にはきれいなクラウドストリート(雲の道)ができている。

こないだの日曜日は初夏のような暑さで、だいぶ元の色に戻っていた顔が2時間ほどのグランハン(地上練習)であっという間に日焼けして再び漁師の顔になった。このまま春になって夏が来たら、猛暑や水不足で大変な年になるな・・・と話していたところなので幾分ホッとしてはいるが、やはりオープンコクピットには寒さがこたえる。

せっかく空いた時間だ。TVのスタッフと撮影地点の下見に廻ることにした。この瀬戸内に面した小さな街には史跡旧跡が多く、縄文遺跡や古戦場跡など、忙しく変化の激しい現代の隠れた随所に、遠い過去に確かに存在していた人々の歴史がひっそりと保たれている。ちょっとした遠足のような楽しい史跡めぐりだった。

道々、縄文遺跡や貝塚から縄文海進の話になり、地球温暖化から大気の組成の話に進み、温暖化の原因とされている二酸化炭素の分圧がたかだか0.0数%で、その中の更に数%の変化が海面上昇など地球生物の生息環境に決定的な影響を及ぼすこと。78%の窒素と21パーセントの酸素の分圧が、ほんの数%変わるだけで、あらゆる森林が火炎に包まれるか、二度と回復しないであろう氷河時代になるということ。自然環境は、それくらい微妙なバランスで絶妙に保持されていること・・・などのお話をした。

ところで、たぶんこの寒さでプリンタのインクジェットの噴出孔が固まったのだろう、大事な書類をプリントアウトしようとしたら、全く色が出ない。ちょっと焦りながらヘッドクリーニングをしたのだが、マゼンタ(赤)だけはまだきれいに出てくれない。
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一郎と竜馬

2007-03-06 11:18:56 | 言葉
最近、面白いテレビ番組によく行き当たる。特に準備したり予約したりして観るわけではない。たまたまテレビを付けたら、ドキッとしたり胸の奥にスッと落ちる言葉を話す人物が登場していて思わず聞き入ってしまう・・・という具合だ。たぶん、心のアンテナが知らずと好みの方向を向いているのだろう。

先日は、歌手の椎名林檎と野球の一郎の対談もの。椎名は数多い現代女性歌手の中でも飛び抜けて個性的だと私は勝手に評価している人だが、今回は一郎の話。「(歳を取って)体に脂肪が付くのは仕方がない。心に脂肪が付いたらダメだ。」「私は自分を大事にする。自分を大事にしない人間は他人(ひと)も大事にできない。」・・・みたいなことをいつもはあまり見せない熱い表情で語っていた。

全くその通りだ。最も身近な存在である自分を大事にできない人間が他人を大事にできるわけがない。ところが、狭く内側に閉じた社会では、ほんとうに「自分を大事に」しながら生きようとする人間は、たいていは疎外され孤立する。

そのような社会集団を支えているのは「私たちも自分を抑え隠して生きているんだからあなたもそうしなさい・・・」というような、まあ云わば柵の中の羊の論理だ。ちょっと激しい用語を使うと、権力に従順な「奴隷の幸せ」ということになる。この姿勢が日本という島国で発展すると「海の文化・村の文化」の村の文化になるらしい。

それが過ぎると、教育でも政治でもあらゆる学問・産業の分野などでも、どれほど多くの害悪を成すかは、さほど遠くまで歴史を遡らなくても、現今の世相を観ればきわめて明らかなように思える。



昨夜は、女優の麻矢ゆきが案内する坂本竜馬の番組。途中からだがこれも面白かった。そして、結びに現れる竜馬の詩(うた)が「世の人は われをなんとも ゆはばいえ わがなするところは われのみぞしる」である。これもやはり、自分を大事にした人間の言葉である。

竜馬の業績は今ここに書くまでもないだろう。あるいは、時代を先駆する人間の宿命かもしれないが、自らの感性や考えや生き方を大切にしながら自信を持って自分らしく生きることは、どんな人にとっても楽しいことに違いないし、やろうと思えばできることである。というより、自然の中の生きものたちは皆、本来的にそうして生きているのだから、できない方がおかしいのだ。
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鳥の気持ち

2007-03-05 12:07:24 | 大空
仕事ではあるが、先週末の3日間はほとんど空の生き物になっていた。頭の中はフライトプランの繰り返し、あらゆる感覚器官が風からの情報を探り、その意味を捉えるためにシンと静まりながら敏感になっている。

初日は海上と山中を含めて、カメラマンをパッセンジャーにしてのタンデムフライトだ。機動力はソロの半分以下。単なる遊びではまず飛ばない風の条件と空域で、幾分強めのシンクやリフトの機嫌を取りながら1時間以上・・・結果的には楽しくて良い経験になった。

2日目は無風下でのタンデム・テイクオフを繰り返して大汗をかいた後で、ソロの仕事を少しばかり。これでプランの半分ほどを終了した。

昨日は朝のウィンドカームをねらってローパス撮影を含めた30km。低層のモヤを抜けて200~250m辺りが最も安定していたので移動はもっぱらこの高度を使った。ハイビジョンカメラの扱いにもようやく慣れたようで、そこそこ満足のいく画が撮れた。

今回も空中で何度かカモメやトンビの皆さんとご一緒したが、特に山中荒れ気味の場所でトンビに出会うと嬉しくなると同時にホッとする。彼らも風を選ぶからだ。彼らは余程のことがない限り、飛んで面白くない風や危険な臭いのする気象では上がってこないし、ほとんど同じ空域で、その滑空姿勢やセンタリングの様子を見ていると、風の具合や大気の状態が良く分かるのだ。

鳥たちは大気を足場にして生きている。通常、大地を足場に生きている人間が大気を足場にするには少し特殊な練習をする必要があるのだが、人間とはやはり不思議な生き物で、繰り返し彼らの真似をしているうちに、それなりに彼らの気持ちが分かり始める。

億年の昔・・・生命進化の長い過程の中で、爬虫類なり初期哺乳類なりが地上の生活を続けるか大空に飛翔するかの分岐点にあった頃、我々人類の遠い祖先も彼ら鳥類の遠い祖先も、同じような喜びや悲しみを共有していたに違いない・・・と思えて仕方がないのだ。


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自分を知る

2007-03-03 19:18:00 | 創作
詰まるところ、人生の目的が「自分らしく生きる」ということであるとすれば、人は「自分とは何か」についての答えを探り当てることなくして、真に充実した人生を送り、また終わることはできないであろう。
♀ー太郎

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菜の花

2007-03-01 13:26:46 | 創作
ドブ川を 黄色く染める 菜花かな
A smelly ditch is being colored yellow by a bunch of rape blossoms

我が家の近くのドブ川も、この季節は菜の花で覆われる。いつになったら街中いたるところで悪臭を放つ春の小川たちがもとの清流に戻るのだろうか。


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水と山

2007-03-01 11:18:02 | 言葉
子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者樂、仁者壽、

子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。
巻第三 雍也第六

先生が言われた、「智の人は[流動的だから]水を楽しみ、仁の人は[安らかにゆったりしているから]山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きをする。」

※現代語訳は論語の世界から引用させて頂きました。

論語が依然面白い。或る空の先輩は「女人小人扱いがたし」とよく言っていた。これが正しくは「唯だ女子と小人とは養い難しと為す」であり、その理由が「近づければ無遠慮になり、遠ざけると怨む」からであることも改めて確認した。

私は女人も小人も養うなどという趣味はないから特に支障はないが、人間社会には様々な性向の女性や器量の男性がいて、それなりの付き合いが必要な場合もあるから、人を見る眼は養っておかなければつまらない苦労をする。もっとも或る程度この種の苦労をしなければ人を見る眼はできないということも事実だろう。

「仁」は論語の中心概念とされる。私流に末キれば「慈愛」ということになる。「智」は智恵と理解して問題なさそうだ。さて、知者は水を楽しむ。なぜなら智の人は流動的だから。仁の人は山を楽しむ。なぜなら安らかにゆったりしているから。動と静の見事な対比だ。

では、風を楽しむ人はどうなるのか。また都会の喧騒を楽しむ人はどうなるのか。風は水以上に流動的で、都会は静けさの対極にある。さらに私のように山も水も風も、場合によっては都会も楽しむ人はどうなるのか・・・。

こんなことを孔子に聞いたら、「お前のように気の多い人間はとても長生きはできんぞ」と言われるかもしれない。今のところ100歳を目標にしてはいるのだが・・・。
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On The Ground

2007-03-01 00:10:00 | 創作
When you look up and think about and fly around the sky, never ever forget your feet on the ground.
We human beings cannot live without the ground of earth while we cannnot live ideally without the sky of heaven.
- Kantaro

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