碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

オアフ島 コオリナ

2018年09月13日 | 遥か南の島 2015~16/18

ふたたび、プロペラ機で





















戦後73年 Nスペ「戦争」特集

2018年09月12日 | 「しんぶん赤旗」連載中のテレビ評


戦後73年 Nスペ「戦争」特集

これもひとつの「忖度(そんたく)」ではないか。かつて8月になれば放送されていた、「戦争」がテーマの特番を、民放ではほとんど見かけなかった。

この5年間に、日本を「戦争のできる国」へと改造してきた安倍政権。戦後73年が過ぎた今、メディアが「戦争」のイメージを喚起することを歓迎しない空気が官邸にはある。民放各局がそれを感知した結果が、「戦争特番のない8月」だったのかもしれない。

一方のNHKは、8月6日から19日にかけて6本のNHKスペシャルで戦争を扱った。その中の1本が12日放送の「“駅の子”の闘い―語り始めた戦争孤児―」だ。

戦後、空襲などで親を失って孤児となり、駅の通路で寝泊まりしていた子どもたちがいた。番組は3年をかけて実態を調査。当時の「駅の子」を探し出し、長く語らずにきたという体験を聞いていく。

彼らは駅の待合室に入ると野良犬のように追い払われた。ようやく行った学校では「戦災こじき」と差別され続けた。中には長年連れ添った夫にさえ、「駅の子」だったことを打ち明けられなかった女性もいる。

戦時中、父親が戦場で命を落とすと、国は残された子どもを「靖国の遺児」と呼び、戦意高揚の材料としても利用した。

しかし、「駅の子」は国が見捨てただけではない。GHQが日本政府に浮浪児対策を求めたことで、「治安を乱す存在」として排除されていく。それは同時に一般市民の「嫌悪の対象」と化すことでもあった。

「なぜ自分たちが浮浪児になったのか、大人は知っているはずなのに」という無念の思いを抱えながら、必死で生きていた幼き者たち。その証言は、国家や大人が引き起こす戦争が子どもたちにも大きな災厄をもたらし、重い犠牲を強いることを生々しく伝えていた。

そして何より印象的だったのは、画面に登場し、証言してくれた駅の子たちが80~90歳代の高齢者であることだ。その体験や思いは、今回こうして語ってもらわなければ、次代に継承されることはなかっただろう。

この国を、「戦争のできる国」から「戦争をする国」へと移行させないためにも、NHKだけでなく民放もまた、過去と真摯に向き合っていくべきだ。

(しんぶん赤旗 2018.09.03)

マウイ島 カパルア~ホノコアイ

2018年09月11日 | 遥か南の島 2015~16/18


































「Nスペ」戦争特集の試み 可視化された戦場の現実

2018年09月10日 | 「北海道新聞」連載の放送時評


「Nスペ」戦争特集の試み 
可視化された戦場の現実

かつて8月になると、「戦争」をテーマにした番組を何本も目にしたものだ。しかし最近の民放ではあまり見かけなくなった。その分、NHKの健闘が目立つのかもしれない。

8月11日に放送されたのはNHKスペシャル「祖父が見た戦場-ルソン島の戦い 20万人の最期-」(制作=名古屋放送局)だ。

「ためしてガッテン」などで知られる小野文恵アナウンサーが、ルソン島で戦死した祖父の足跡をたどった。亡くなった場所も日付も不確定だが、最近公開された、アメリカ公文書館の極秘資料が手がかりとなる。

そこにはアメリカ軍がルソン島で確認した、日本兵の遺体の数と場所が記録されていた。このデータを島の地形図に重ねることで、戦いの進行状況がわかってくる。

つまり20万人の日本兵がいつ、どこで戦死していったのかが可視化されるのだ。地図上に刻々と増えていく無数の赤い点。その一つ一つが人の命であることを思うと胸がつまる。

そしてデータと同様、当時を知る貴重な情報となったのが、生き残った元兵士たちの証言と持ち帰った日誌などの資料だ。そこからは悲惨な戦場の様子が浮かび上がってきた。飢えのあまり、亡くなった同僚の革靴を煮て食べる者がいる。傷病兵たちに自決用の手りゅう弾や毒薬が配られただけでなく、銃剣によって命を奪われた者もいたという。

大本営はルソン島の戦いを本土防衛のための時間稼ぎと位置づけ、食糧を送らない「自活自戦」や、投降を禁じる「永久抗戦」を現地に強いた。敗走する祖父たちがさまよったジャングルに立った小野アナの思いを、視聴者も共有できたのではないだろうか。

もう1本、可視化された戦場の現実を見せてくれたNスペがあった。8月13日放送の「船乗りたちの戦争-海に消えた6万人の命-」(制作=大阪放送局)だ。

戦時中、軍に徴用され沈没した民間の船は7千隻。犠牲者は約6万人に達した。その中には危険な海上監視の任務についた、「黒潮部隊」と呼ばれる小型漁船と漁師たちも含まれている。

この番組では、やはりアメリカ側の資料を基に、広い太平洋のどこで、いつ民間船が沈没したのかを地図上に示していった。3年4カ月の間、なんと1カ月に100隻のペースで船が失われていく。

十分な武装も持たない民間船が、猛烈な攻撃にさらされる様子を思うにつけ、軍部のずさんな計画と実行、そして不都合なデータを示さない隠蔽(いんぺい)体質にも強い憤りを感じた。

(北海道新聞「碓井広義の放送時評」2018.09.01)

マウイ島 ラハイナ~カパルア

2018年09月09日 | 遥か南の島 2015~16/18
島の古本屋さん「Lahaina Bookstore」店主と




























サンデー毎日で、「ちびまる子ちゃん」について解説

2018年09月08日 | メディアでのコメント・論評


さようなら、さくらももこさん
「ちびまる子ちゃん」世代に衝撃!

国民的人気漫画『ちびまる子ちゃん』の作者として知られる漫画家のさくらももこさんが8月15日に亡くなった。乳がんを患い長らく闘病中だったというが、53歳での旅立ちはあまりにも早い。広く愛されたちびまる子ちゃんとさくらさんの軌跡―。

さくらももこさんが描いた漫画の世界は、多くの人の心を鷲掴(わしづか)みにした。ゆかりの地、静岡市清水区の同市役所清水庁舎には、多くのファンが献花と記帳に訪れるなど、哀(かな)しみが広がっている。

庁舎のロビーで花を供えた小学校3年生の女子児童は、「まる子ちゃんは毎週楽しみに見ているのですごくショック。残念でたまらない」と、悲嘆に暮れた様子。

清水港近くにある「ちびまる子ちゃんランド」の記帳台でさくらさんへの思いと「まる子」の似顔絵を描いていた会社員・吉田早矢香さん(33)はこう語る。

「さくらさんの漫画を見て絵を描き始め、漫画家になりたいとずっと夢を見てきました。さくらさんがいなかったら今の私はいません。みんなを幸せにできる絵を描き続け、さくらさんのように夢を実現できるようになりたいと思います。ゆっくりと休んでいただきたいです」

自伝的作品の「ちびまる子ちゃん」だからこそ、さくらさんの死去で、まる子も死んでしまったかのような思いにとらわれた人も多かったのかもしれない。

自身が子どもの頃をモデルにした「ちびまる子ちゃん」は、家族や友だちと繰り広げるほのぼのとした日常を描いた内容で、まだ昭和だった1986(昭和61)年に連載が始まった。90年にはフジテレビでアニメ化され、広く人気となる。

さくらさんは、「ちびまる子ちゃん」の舞台である旧清水市で、65年に生まれた。作品と同じように、祖父母と両親、姉の6人家族だった。

作品の中に登場する小学校は、さくらさんの母校・清水入江小学校。この学校の教室で、個性的なクラスメートと楽しく過ごした時間が、作品の原点だ。

小学校5、6年生のときの担任だった浜田洋通(ひろみち)さんは、「ちびまる子ちゃん」に登場する「戸川先生」にそっくりだったため、「モデルではないか」とささやかれていた。

浜田さんがこう悼む。「(モデルかどうかを)確認する前にこういうことになってしまい、残念で辛(つら)く、悔やみきれません。さくらさんは、おっちょこちょいで抜けている部分もありましたが、嫌みがまったくなく、明るいお喋(しゃべ)りな子でした。まるでまる子と同じようでした。その子がこれだけ素晴らしい作品を作った。改めて敬意を表したいですね」

 ◇人間の普遍性が表現された作品

さくらさんは幼少期から漫画家になる夢を抱いていた。だが、なかなかうまく描けない。親からの反対もあったという。

ところが高校時代、作文を教師に「あなたの文章は素晴らしい。現代の清少納言だ」と大絶賛された。それが後押しとなって、だったらその文章を漫画に取り入れてやってみようと、さくらさんは発想を転換。それがやがて「ちびまる子ちゃん」となって花開く。

県立清水西高から静岡英和学院大短期大学部国文学科ヘ進学。84年11月に大和路(奈良)へ3泊4日の研修旅行に出かけた。2日目の夜、友人と2人で漫才を披露したことを、当時の担任だった高橋清隆教授はよく覚えている。

「さくらさんが台本を書いたのですが、それがとても面白いので驚きました。落語家への道も考えたことがあると聞き、納得しました。卒論は江戸時代の滑稽(こっけい)本作者である式亭三馬がテーマ。後のさくらさんのエッセーのように軽妙な文章でありながら、本質を抉(えぐ)っていました。当時から人の心を掴む、読ませる文章でしたね」

さくらさんが書いた、研修旅行の報告記「だから寺なら山がいい。」には、漫才を演じたことも記されている。

〈その夜、班ごとの“芸”があり、私は班の仲間によいしょされ、“まんざい”をやってしまう。高校のとき以来である。あんなこと、あんまりやりたくなかったのだが、ついついやってしまう私はお調子者。チャンチャン〉

明日香村の酒船石を訪ねた記述では、

〈これは人をばかにしている。タダだったから少しは怒りも抑えたが、さんざん疲れる坂を昇り、あげくのはてにあんなわけのわからん石では怒るにきまっとるだろっ〉

漫画家としてデビューしたのは84年、短大在学中である。2年後には少女漫画誌『りぼん』に「ちびまる子ちゃん」の連載を開始。切り口が鋭く、ギャグのセンスも抜群。あっという間に多くの人に受け入れられていった。90年からテレビアニメ化されたが、その年の10月には視聴率39・9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、国民的番組と呼ばれるようになる。

それにしても、なぜ「ちびまる子ちゃん」はここまで支持されたのか。まず、この作品は、身の回りの出来事や大人たちを、主人公の独自の視点で描いており、その批評眼の高さに特徴がある。

前出の恩師・高橋教授は、「ごく普通の家庭を舞台に、その温かさやトラブル、クラスメートとの何気ない日常など、どこにでもあることを切り取って描いています。そこには皮肉がありながらも、必ず温かさが込められています。新しい世界観を作り上げた作品といえるでしょう」と、評価する。

まる子は品行方正なわけではなく、成績優秀でもない。妬んだりひがんだりするなど、素直ではない部分もある。上智大の碓井広義教授(メディア文化論)はこう分析する。

「ある種のズルさや嫉妬心といった毒も持ち、煩悩のような人間のダメな部分を体現しているのがまる子です。一方で、友だちを大事にし、家族が大好き。一面ではなく、人間が持っているウラオモテ両面がエピソードとして盛り込まれる。だからこそ、時代を超え、人間の普遍性がしっかりと表現されています。それが広く受け入れられる要因でしょう」


一方、時代背景に反応する人も少なくなかっただろう。描かれているのは、今から40年ほど前、1970年代の半ば。高度経済成長期が終わり、第1次オイルショックを経て、低成長期に突入した頃の、ごく日常が舞台となっている。現在50歳代の中年世代にとって、「まる子ちゃん」はある意味、自分たちの「三丁目の夕日」だという思いが強い。自分たちの幼少時代が投影されているのだから。

昭和30年代を舞台とする「三丁目」で、団塊の世代がノスタルジーを刺激されたのと同じような感覚である。豊かではなかったが、穏やかな昭和を共有し、同じ土壌が描かれることに共感の声が多かった。

大きな花束を清水庁舎の献花台に供えていた自営業の桂秀樹さん(52)は、残念そうにこう話す。
「同世代の私たちが生きてきた話を日本だけではなく、世界に発信してくれたのがさくらさんです。昭和のいい時代を描いてくれたということで、私にとっては本当に身近な作品なんです。描いてあることすべて身近な感じがします。似たようなキャラクターが実際にいて、シニカルでクスッと笑えるところが非常に秀逸ですよね。永遠に残ってほしい作品です」

 ◇「平成」を象徴するアニメだった

東洋大文学部の藤本典裕教授(教育学)は、同じ国民的アニメの「サザエさん」と比較してこんな考察をする。

「サザエさんの波平さんは一家の当主として正面に座り、サザエさんとフネさんは台所に近くに位置しています。まる子ちゃんでは、両親と祖父母がそれぞれ並んで座り、お母さんが一人で主婦役を担っています。また、お父さんが怖くなく、その職業も描かれていません。時代々々の家族構成、親子関係や性的役割分業、子どもにとっての仕事の意味などの変化を読みとることができます」

60年代を描いた「サザエさん」の時代から変化が読み取れるというのだ。父が権威の象徴ではなくなりつつあることが映し出され、時代を反映しているのである。藤本教授は「労働へのリアリティーが薄らいでいることが表現されている」と分析する。その反面、「まる子ちゃん」では、口やかましい母親が登場するが。

平成2年の90年から「まる子ちゃん」のアニメ放送が始まり、平成最後の夏、さくらさんは逝った。それに先立つ今年5月、アニメのエンディング曲を歌った西城秀樹さんが亡くなった。まる子の姉・さきこは、西城さんの大ファンだった。

平成を代表するアーティスト・安室奈美恵は間もなく引退し、SMAPも既に解散している。ひとつの時代が終焉(しゅうえん)を迎えた。

前出の母校・清水入江小学校では、8月28日に全校児童がさくらさんに黙とうを捧(ささ)げた。1年生のある児童は、「天国へ行っても、漫画を描き続けてください」と、作文をしたためたという。

同小の図書室には、95年にさくらさんから寄贈された色紙が飾ってある。そこには「みんな なかよく」と記されている。そこにさくらさんの思いが凝縮されている。(本誌・青柳雄介)

(サンデー毎日 2018.09.16号)


マウイ島 ラハイナ浄土院で合掌

2018年09月07日 | 遥か南の島 2015~16/18






原 源照先生




フジ月9「絶対零度」 失踪した上戸彩の謎は?

2018年09月06日 | 「日刊ゲンダイ」連載中の番組時評


フジ月9「絶対零度」
失踪した上戸彩の謎は解明されるのか

刑事ドラマの月9「絶対零度~未然犯罪潜入捜査」は、そのユニークな設定が光っている。

個人情報から監視カメラの映像までを集めたビッグデータを解析。過去の犯罪データと照合することで、殺人など重大犯罪に走る可能性の高い人物を割り出していく。ただし警視庁内の極秘プロジェクトであり、「ミハン(未然犯罪捜査チーム)」は総務部資料課を隠れみのに活動中だ。

リーダーは元公安の井沢範人(沢村一樹)。若手の山内徹(横山裕)、小田切唯(本田翼)などと共に、ミハンシステムがリストアップする危険人物をマークしていく。

先週は、大学病院で亡くなった恋人の復讐を遂げようと、顔を整形して別人になりすます女性を、乃木坂46の白石麻衣が演じて話題になった。ターゲットである大学理事長の息子との結婚式当日、「最愛の息子」を殺害する計画だったが、井沢たちの活躍で未然に防ぐことができた。

このドラマでは、毎回の未然犯罪捜査もさることながら、底流にある謎も大きなテーマとなっている。それがシリーズの前作・前々作の主人公だった、特殊班捜査員・桜木泉(上戸彩)の消息だ。

かつては山内とコンビで捜査に当たっていたが、突如失踪してしまった。一体、桜木に何があったのか。その生死も含め、彼女の現在がどこまで明かされるのか。最終回に向けて注目だ。

(日刊ゲンダイ 2018年9月5日)

プロペラ機に乗って

2018年09月05日 | 遥か南の島 2015~16/18

カパルア ウエストマウイ空港













書評した本: 長谷川郁夫 『編集者 漱石』ほか

2018年09月05日 | 書評した本たち


週刊新潮に、以下の書評を寄稿しました。


長谷川郁夫
『編集者 漱石』

新潮社 3,780円

小沢書店を創立し、多くの作品を編んできた著者が着目したのは、編集者の先達としての漱石である。親友の正岡子規に鍛えられた漱石は、寺田寅彦、鈴木三重吉、長塚節、志賀直哉などの背中を押していった。編集という仕事の意味や価値を再認識させる文芸評伝。


遠藤 徹
『バットマンの死~ 
 ポスト9・11のアメリカ社会と
 スーパーヒーロー』

新評論 2,592円

昨年上梓された『スーパーマンの誕生』に続く、ユニークなヒーロー文化論だ。クリストファー・ノーラン監督の映画バットマン三部作を通じて、現代アメリカ社会を解読していく。描かれる「善悪の境目の曖昧さ」やヒーローの自信喪失が表象するものとは?


山川 徹
『カルピスをつくった男 三島海雲』

小学館 1,728円

大阪箕面市にある寺の子だった三島海雲。本来なら住職になっていた男が生みだしたのが1919年発売のカルピスだ。なんとモンゴルの草原で知った乳製品がヒントだという。キャッチコピー「初恋の味」も海雲が決めた。魅力的な日本人に光を当てた力作評伝だ。

(週刊新潮 2018年8月30日秋初月増大号)

今年の夏、何より「キャラクター」が光ったCMとは!?

2018年09月04日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム


今年の夏、
何より「キャラクター」が光った
CMとは!?


いつの時代にも、人気のCMキャラクターが存在します。この夏も、キラッと光ったCMの中に、永遠のレジェンドキャラクターと地上最強のキャラクターコラボがありました。


永遠のレジェンドキャラクター
ヤクルト「タフマン」


健康栄養ドリンク「タフマン」が発売されたのは、38年前の1980年のことです。

その5年後には、俳優・伊東四朗さんが起用されたCMが登場しました。以来30年以上、タフマンといえば伊東さんであり、ヒーロー「タフマン伊東」です。「♪あんたがたタフマン」のフレーズと童謡を借りたメロディも忘れられません。

新作CMの舞台は、ずばり「タフマンの世界」です。中央の玉座から立ち上がり、部下であるメイプル超合金の2人に向かって、「軽く(飲みに)行くか」と伊東さん。ところがヤングタフマンのカズレーザーさんは、「このあと用事あるんで」と、レジェンドのお誘いをあっさりかわします。かつて幅を利かせていた「飲みニケーション」も、いまや完全に死語ですね。

他にも、「マジで、ヤバイねえ」と電話で話すカズレーザーさんを、伊東さんが「私用の電話は控えろよ」とたしなめると、「いや、これクライアントっす」との返事。二重にあきれる伊東さんが、めちゃくちゃおかしい「電話篇」。

さらに、ヤングタフマンが何でも横文字にしちゃう「プライオリティ篇」などがあり、いずれも思わず絶句する伊東さんに同情したくなるほど、世代間ギャップが笑えます。

負けるな、元祖タフマン!


地上最強のキャラクターコラボ
カネボウ化粧品「コフレドール」


この風景、ニューヨークでしょうか。霧に包まれた夜明けの街を歩いてくる、足の長い美女は菜々緒さんです。

すると、そこにたたずむ、もう一人の美女がいます。おしゃれなドレスに真っ赤なリボン。なんと、あのキティちゃんじゃないですか。静かに見つめ合う2人。そしてラストのポージングも見事に決まっています。このCM、セリフは一切ありません。

ハワイ大学の民族文化研究者で、日系のクリスティン・ヤノ教授にお会いしたことがあります。

4年前の夏、ヤノ教授が『ロサンゼルス・タイムズ』紙の取材で語った、「スヌーピーは犬ですが、キティちゃんは猫ではありません。小さな女の子です」という発言は世界中を駆け巡り、膨大な数のキティ・ファンに衝撃を与えました。

また昨年には、ハローキティ研究の名著『なぜ世界中が、ハローキティを愛するのか? ~“カワイイ”を世界共通語にしたキャラクター~』(久美薫:訳、作品社)が、日本でも出版されました。

そんなヤノ教授によれば、キティちゃんこそ「ピンクのグローバリゼーション」であり、「キュート」「女性性」「セクシー」の3つを体現している、稀有なキャラクターなのだそうです。

菜々緒さんとキティちゃんの初共演。それは「キレイ」と「カワイイ」の出会いであり、ある意味で「地上最強のコラボ」なのでありました。

「戦争特番のない8月」の民放と、Nスペ「戦争特集」6本のNHK

2018年09月03日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム


「戦争特番のない8月」だった民放と、
Nスペ「戦争特集」6本のNHK

かつて8月になれば、テレビで何本も放送されていた、「戦争」がテーマの特別番組。しかし今年の8月、民放ではほとんど目にすることがありませんでした。

ドキュメンタリー、ましてや戦争がらみとなれば、あまり高い視聴率を望めないからでしょうか。「戦争特番のない8月」だったのです。

一方のNHKは、8月6日から19日にかけて、6本の「NHKスペシャル」で戦争を扱っていました。


『祖父が見た戦場―ルソン島の戦い 20万人の最期―』

その中の1本が、8月11日に放送された『祖父が見た戦場―ルソン島の戦い 20万人の最期―』(制作はNHK名古屋放送局)です。

この番組では、『ためしてガッテン』などで知られる小野文恵アナウンサーが、ルソン島で戦死した祖父の足跡をたどっていました。亡くなった場所も日付も不確定ですが、最近公開された、アメリカ公文書館の極秘資料が手がかりとなります。

そこにはアメリカ軍がルソン島で確認した、日本兵の遺体の数と場所の詳細が記録されていました。このデータを分析し、島の地形図に配することで、戦いの進行状況が目に見える形で現われてくる。

つまり20万人の日本兵が、いつ、どこで戦死していったのかが可視化されるのです。地図上に刻々と増えていく無数の赤い点。その一つ一つが人の命であることを思うと、やはり胸がつまりました。

そしてデータと同様、当時を知る貴重な機会となったのが、生き残った元兵士たちの証言です。飢えのあまり、亡くなった僚友の革靴を煮て食べる者がいました。傷病兵たちに自決用の手りゅう弾や毒薬が配られただけでなく、銃剣によって命を奪われた者もいたそうです。

大本営は、ルソン島の戦いを本土防衛のための時間稼ぎと位置づけ、食糧を送らない「自活自戦」や、投降を禁じる「永久抗戦」を現地に強いました。敗走する祖父たちがさまよったジャングルに立った小野アナの思いを、視聴者も共有できたのではないでしょうか。


『“駅の子”の闘い―語り始めた戦争孤児―』

また、12日放送の『“駅の子”の闘い―語り始めた戦争孤児―』が目を向けたのは、戦後、空襲などで親を失って孤児となり、駅の通路で寝泊まりしていた子どもたちでした。

番組は3年の歳月をかけて実態を調査し、当時の「駅の子」を探し出し、長く語らずにきたというその体験を聞いていきます。

彼らは駅の待合室に入るたび、野良犬を追い払うように足蹴にされました。ようやく行った学校では、「戦災こじき」と差別され続けます。中には、長年連れ添った夫にさえ、「駅の子」だったことを打ち明けられなかった女性もいました。

戦時中、親が戦場で命を落とすと、国は残された子どもたちを「英霊の子」「靖国の遺児」と呼び、戦意高揚の材料としても利用しました。

しかし、「駅の子」は国から見捨てられただけではありません。GHQが日本政府に浮浪児対策を求めたことで、「治安を乱す存在」として扱われ、排除されていきます。それは同時に一般市民の「嫌悪の対象」となることでもあったのです。

「なぜ自分たちが浮浪児になったのか、大人は知っているはずなのに」という無念の思いを抱えながら、必死で生き抜こうとした幼き者たち。

その証言は、国家や大人が引き起こす戦争が、非力な子どもたちにも大きな災厄をもたらし、重い犠牲を強いることを、生々しく伝えていました。


『船乗りたちの戦争―海に消えた6万人の命―』

そして13日に放送されたのが、『船乗りたちの戦争―海に消えた6万人の命―』(制作はNHK大阪放送局)です。

戦時中に徴用され、沈没した民間の船は7千隻におよび、犠牲者はなんと約6万人に達しました。その中には、危険な海上監視の任務についた、「黒潮部隊」と呼ばれる小型漁船と漁師たちも含まれています。

この番組では、やはりアメリカ公文書館の資料を基に、広い太平洋のどこで、いつ船が沈没したのかを地図上に示していきました。3年4か月の間に、なんと1ヶ月100隻のペースで船が失われていくのです。

十分な武装も持たない民間船が、猛烈な攻撃にさらされる様子を見るにつけ、軍部のずさんな計画と実行、そして戦争遂行のためにと悲観的なデータを示さない「隠蔽体質」にも、強い憤りを感じました。

これらの「Nスペ」を見ていて、何より印象的だったのは、画面に登場し、証言してくださった当事者たちが、皆さん80~90歳代の高齢者であることです。その体験や思いは、今、こうして語ってもらわなければ、次代に継承されることは不可能だったでしょう。

NHKだけでなく民放もまた、この国の歴史や過去の事実を風化させない取り組みを、ぜひ続けて欲しいと思います。

「鎮魂」の8月、秀作だったドラマ『夕凪の街 桜の国 2018』

2018年09月01日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム


「鎮魂」の8月、
秀作だったドラマ『夕凪の街 桜の国 2018』


8月は、「鎮魂」の月

今月も、あとわずかとなりました。8月6日「広島原爆の日」、8月9日「長崎原爆の日」、そして8月15日「終戦の日」。73年が過ぎても、やはり8月は「鎮魂」の月です。

かつてのテレビ界は、NHKも民放もこぞって、この時季に「原爆」や「戦争」をテーマとした番組を放送したものです。いまや民放では、あまり見ることができなくなりましたが、今年も各地のNHKがその力を発揮してくれました。

NHK広島が制作した『夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国 2018』

その中の1本、『夕凪の街 桜の国 2018』(NHK総合)が放送されたのは、8月6日の夜です。制作したNHK広島放送局の開局90年ドラマでした。

石川七波(常盤貴子)は東京に住む編集者です。自身が会社でリストラの対象となっているだけでなく、最近、一緒に暮らす父親の旭(橋爪功)に認知症の疑いが出てきたことも悩みの種です。

ある日、旭が一人で家を出ます。心配した七波は、姪の風子(平祐奈)と一緒に尾行するのですが、旭が向かった先は広島でした。

広島に着いた旭は、まるで何かを調査するかのように人に会い、話を聞いて回っていきます。やがて、それは原爆で亡くなった実姉の足跡を追っているのだとわかってきます。七波にとって伯母にあたる、その女性の名は平野皆実。会ったことはありません。

そして、ドラマの舞台はここから昭和30年へと移っていきます。敗戦から10年後の広島で、23歳の皆実(元AKB48の川栄李奈)は建設会社で事務員として働いています。

同僚の打越アキラ(工藤阿須加)が彼女に思いを寄せているのですが、皆実はなかなか素直に受け入れることができません。それは彼女が被爆者だったからです。

いつか原爆症が発症するのではないかという“恐怖”が胸の内にあります。また、家族を含め多くの人たちが犠牲となった中で、自分だけが生き延びたことに対する“後ろめたさ”を、10年たっても消すことができなかったのです。

皆実が幸せを感じたり、美しいと思ったりするとき、彼女の中で原爆投下直後の地獄のような光景(市民が描いたと思われる絵が有効に使われています)がよみがえってきます。皆実の独白によれば、「お前の住む世界はここではないと、誰かが私を責め続けている」というのです。

夜、かつて無数の死者が横たわっていた河原で倒れた皆実が、夢の中で見る原爆ドームの凄絶な美しさに息をのみました。こうした緻密な映像表現も印象に残ります。

生き残った人たちをも苦しめる「原爆」

このドラマの原作となっているのは、現在TBS系で放送中の『この世界の片隅に』でも知られる、こうの史代さんの漫画です。脚本の森下直さんは、この原作を丁寧にアレンジしながら、印象的な台詞を物語にしっかりと埋め込んでいました。

自分が被爆したことを打越に打ち明けるとき、皆実は問いかけます。

 「ずっと内緒にしてきた。
  忘れたことにしてきた。
  だけど、なかったことにはできんけえ。
  話してもいいですか」

そんな彼女に、打越は「生きとってくれて、ありがとうな」と答えます。いいシーンでした。

打越との明るい未来が少し見えてきたかと思った直後、皆実は原爆症で短い生涯を終えます。

 「嬉しい? 
  (原爆投下から)10年たったけど、
  原爆を落とした人は、
  『やったあ! また1人殺せた』って、
  ちゃんと思うてくれとる?」

死ぬ間際、最期に皆実が胸の内で語った言葉は、悔しさと、切なさと、厳しさに満ちたものでした。

しかも、ドラマはここで終わっていません。大人になった旭(浅利陽介)は広島の復興のために建設会社に入り、皆実を姉のように慕っていた被曝者で孤児の京花(小芝風花)を妻に迎えます。

それが七波の母となるのですが、生前は自分の娘に対しても、一度も原爆のことを口にしませんでした。老人となった打越(佐川満男)から、初めて皆実の過去の話を聞いた七波と風子は、それぞれに思いを巡らせます。

「厳然たる事実」と「声なき声」を伝える意思

このドラマを見終って、あらためて痛感するのは、戦争や原爆はあまりにも多くの命を奪っただけでなく、辛うじて生き残った者たちをも、長い間、苦しめ続けたという事実です。

さらにこのドラマからは、そうした人たちを単なる被害者として描くのではなく、厳然たる事実と声なき声を継承し、現在と未来の人たちに対して、静かに伝えていこうとする意思が感じられました。

戦後73年という長い年月を経て、どこかぼんやりとしていた戦争の、そして原爆の輪郭が、私たちの目の前にはっきりと像を結んだ。そんな気がします。

その意味で、NHK広島放送局の制作陣の方々、そして明るさと陰りの両方を瑞々しい演技で表現した川栄李奈さんをはじめとするキャストの皆さんに、拍手を送ります。

最後に、中国地方ではすでに再放送されたようですが、NHKには、ぜひ「全国に向けての再放送」を、お願いしたいと思います。