法然、親鸞の師弟関係に「不適切な記述」 浄土宗、倫理教科書調査へ
何か最近、宗教と表現の問題を取り上げることが多いよな・・・(笑)
法然と親鸞は師弟関係にあり、その宗派名も浄土宗と浄土真宗というように非常に似通っています。どちらも「阿弥陀仏に救ってもらう」教義であり、まあ中高生が覚える内容としてはこの程度で十分でしょう。問題となったは、親鸞が法然の教えを「徹底した」「発展させた」という表現のようです。「浄土宗の教えを受け継いだ」ぐらいなら問題はないでしょうが、言葉の言うのは難しいもので、浄土宗が「不徹底で未完成」と言うイメージを学生がもちかねない表現は好ましくないということのようです。個人的にはイチャモンレベルだと思いますし、もっと言うと浄土真宗の「真」にまで「うちはマコトじゃないマガイモノなのか」とか噛み付いてきそうな勢いを感じますね。
うちは禅宗なので不勉強なだけかもしれませんけど、何となく浄土宗より浄土真宗の方がメジャーであるように思っています。俗に聞くお西(本願寺派)、お東(真宗大谷派)は職場の葬儀などでもよく聞きますけどどちらも浄土真宗ですし、浄土宗の葬儀というのは未だ参列したことがありません。意外に天理教が多いような・・・まあ地域柄と言うのもあるのかもしれませんね。調べてみると、浄土宗600万、お西700万、・お東500万くらいで、総数では2倍も違うようです。ちなみに禅宗と天理教は200万でした。まさか3倍も多いとは・・・どこに多いのだろう?
宗教でも武道でもそうですが、一般的に開祖とその教えを伝えた弟子達がいて成り立っています。一人だけで自己完結していては広まりませんし、寿命もありますから、その教えを途絶えさせないためには子孫なり弟子なりに受け継ぐ必要があるわけです。そしてその教えは時間と共に樹形図的に広まっていきますから、後の時代の方が信者が多くなるのは自然の流れであると言えるでしょう。つまり自然増であるなら信者の数で優劣は決められません。また開祖と後継者の能力の優劣を考えると、必ずしもはっきり言えるわけでなく、受け継いだ人が発展させる場合もあるでしょうし、逆に退廃させる場合ももちろんあるでしょう。実は親鸞の浄土真宗も一時は忘れ去られていた時代もありましたが、蓮如という布教の天才が現れて今日の爆発的発展となりました。こういう「何故忘れられて何故再興したか」ということはテストに出ませんから、日本史が面白味のない暗記科目になり下がってしまうのですよね・・・まあこれは余談ですが。
そもそも開祖が生きた時代と状況が全く異なっているのに、長い時を経てもその教えを律儀に守り続けるのか、それとも弾力的に変えていくのかは、議論が分かれる所だと思います。イスラム教などはまさにそこが問題の核心だと思うわけですが、仏教は諸行無常と言うか、どちらかと言うとというと変化にも執着しないことが教義なわけで、どんどん新しい考えに発展していくことで完成を見るのかなと思います。そう考えれば、新しい時代に合わせた布教ができる方が絶対的に有利であると言えるでしょう。もちろん、開祖や中興の祖などがいてこその今があるわけで、当然尊ぶべき存在なのには変わりありません。新たな道を開く必要があった開祖に時間がないのは仕方のないことで、その道を教えてもらうだけで済んだ後継者には未来に大きなアドバンテージがあります。だから開祖の時間的な不利を考慮せず「不徹底で未完成」などという謗りは受けようはずがないのです。そして、もしある時代の後継者が退廃させた場合は、いくら開祖や中興の祖が優れていてもそこで途絶えてしまいますから、逆説的に言えば、親鸞は間違いなく法然の教えを「発展させた」と言えるかもしれません。つまり結論はやはりイチャモンレベルということですな(笑)
ここで大事になってくるのが年号です。どちらの教えが先なのか、どのくらい時間があったのかというのは、今まで述べてきた通りアドバンテージを考える上で非常に重要な要素です。しかし、実は日本史や倫理では教義ごとにまとめて習う形式になっており、時系列に沿っていません。鎌倉仏教の時、法然の後すぐに親鸞を習いませんか?浄土宗を開いた後すぐ親鸞が弟子入りしてパッと浄土真宗を開いたと思っていませんか?実はその間には半世紀もの隙間があり、その間に栄西が先に禅宗を開いているのです。この事実だけで、親鸞の出家時には浄土宗と禅宗を比べるチャンスがあり、浄土宗を選んだと言うことや、既に法然はかなりのお年で、徹底したり完成したりする時間が残されていなかったことなどが分かるのです。
ちなみに鎌倉仏教の成立年順に並べると、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮・一遍となり、自分が習った法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元の順とは全然違います。踊念仏は浄土系なので一緒にまとめたとしても、禅宗と日蓮宗に関しては完全に成立順と教える順が逆転していますな。規模に配慮したのか圧力なのかは分かりませんが、ちゃんと時系列に沿って教えないと宗派の成立や教義の変遷・お互いどう作用したかなど肝心なことが全く分からないのではないですかね。このままでは日本はますます宗教オンチになってしまうのではないでしょうか。
教科書会社への抗議は、むしろそっちの方を問題にすべきなのではないでしょうか?
何か最近、宗教と表現の問題を取り上げることが多いよな・・・(笑)
法然と親鸞は師弟関係にあり、その宗派名も浄土宗と浄土真宗というように非常に似通っています。どちらも「阿弥陀仏に救ってもらう」教義であり、まあ中高生が覚える内容としてはこの程度で十分でしょう。問題となったは、親鸞が法然の教えを「徹底した」「発展させた」という表現のようです。「浄土宗の教えを受け継いだ」ぐらいなら問題はないでしょうが、言葉の言うのは難しいもので、浄土宗が「不徹底で未完成」と言うイメージを学生がもちかねない表現は好ましくないということのようです。個人的にはイチャモンレベルだと思いますし、もっと言うと浄土真宗の「真」にまで「うちはマコトじゃないマガイモノなのか」とか噛み付いてきそうな勢いを感じますね。
うちは禅宗なので不勉強なだけかもしれませんけど、何となく浄土宗より浄土真宗の方がメジャーであるように思っています。俗に聞くお西(本願寺派)、お東(真宗大谷派)は職場の葬儀などでもよく聞きますけどどちらも浄土真宗ですし、浄土宗の葬儀というのは未だ参列したことがありません。意外に天理教が多いような・・・まあ地域柄と言うのもあるのかもしれませんね。調べてみると、浄土宗600万、お西700万、・お東500万くらいで、総数では2倍も違うようです。ちなみに禅宗と天理教は200万でした。まさか3倍も多いとは・・・どこに多いのだろう?
宗教でも武道でもそうですが、一般的に開祖とその教えを伝えた弟子達がいて成り立っています。一人だけで自己完結していては広まりませんし、寿命もありますから、その教えを途絶えさせないためには子孫なり弟子なりに受け継ぐ必要があるわけです。そしてその教えは時間と共に樹形図的に広まっていきますから、後の時代の方が信者が多くなるのは自然の流れであると言えるでしょう。つまり自然増であるなら信者の数で優劣は決められません。また開祖と後継者の能力の優劣を考えると、必ずしもはっきり言えるわけでなく、受け継いだ人が発展させる場合もあるでしょうし、逆に退廃させる場合ももちろんあるでしょう。実は親鸞の浄土真宗も一時は忘れ去られていた時代もありましたが、蓮如という布教の天才が現れて今日の爆発的発展となりました。こういう「何故忘れられて何故再興したか」ということはテストに出ませんから、日本史が面白味のない暗記科目になり下がってしまうのですよね・・・まあこれは余談ですが。
そもそも開祖が生きた時代と状況が全く異なっているのに、長い時を経てもその教えを律儀に守り続けるのか、それとも弾力的に変えていくのかは、議論が分かれる所だと思います。イスラム教などはまさにそこが問題の核心だと思うわけですが、仏教は諸行無常と言うか、どちらかと言うとというと変化にも執着しないことが教義なわけで、どんどん新しい考えに発展していくことで完成を見るのかなと思います。そう考えれば、新しい時代に合わせた布教ができる方が絶対的に有利であると言えるでしょう。もちろん、開祖や中興の祖などがいてこその今があるわけで、当然尊ぶべき存在なのには変わりありません。新たな道を開く必要があった開祖に時間がないのは仕方のないことで、その道を教えてもらうだけで済んだ後継者には未来に大きなアドバンテージがあります。だから開祖の時間的な不利を考慮せず「不徹底で未完成」などという謗りは受けようはずがないのです。そして、もしある時代の後継者が退廃させた場合は、いくら開祖や中興の祖が優れていてもそこで途絶えてしまいますから、逆説的に言えば、親鸞は間違いなく法然の教えを「発展させた」と言えるかもしれません。つまり結論はやはりイチャモンレベルということですな(笑)
ここで大事になってくるのが年号です。どちらの教えが先なのか、どのくらい時間があったのかというのは、今まで述べてきた通りアドバンテージを考える上で非常に重要な要素です。しかし、実は日本史や倫理では教義ごとにまとめて習う形式になっており、時系列に沿っていません。鎌倉仏教の時、法然の後すぐに親鸞を習いませんか?浄土宗を開いた後すぐ親鸞が弟子入りしてパッと浄土真宗を開いたと思っていませんか?実はその間には半世紀もの隙間があり、その間に栄西が先に禅宗を開いているのです。この事実だけで、親鸞の出家時には浄土宗と禅宗を比べるチャンスがあり、浄土宗を選んだと言うことや、既に法然はかなりのお年で、徹底したり完成したりする時間が残されていなかったことなどが分かるのです。
ちなみに鎌倉仏教の成立年順に並べると、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮・一遍となり、自分が習った法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元の順とは全然違います。踊念仏は浄土系なので一緒にまとめたとしても、禅宗と日蓮宗に関しては完全に成立順と教える順が逆転していますな。規模に配慮したのか圧力なのかは分かりませんが、ちゃんと時系列に沿って教えないと宗派の成立や教義の変遷・お互いどう作用したかなど肝心なことが全く分からないのではないですかね。このままでは日本はますます宗教オンチになってしまうのではないでしょうか。
教科書会社への抗議は、むしろそっちの方を問題にすべきなのではないでしょうか?