男2人、人質取り籠城=仏風刺紙襲撃実行犯と断定―警官隊と銃撃戦・パリ北東部
フランスで起きた襲撃事件ですが、色々と考えさせられますね。
子どものトラブルでも良くあるのは、「AがBに怪我をさせた。きっかけはBがAを煽ったから」というシチュエーション。学校では基本的に「殴ったAが悪い」という論調に持っていってまずAに謝罪させるわけですけど、仮にその件はそれで収まっても、長期的に見るとそれだけで解決となることはほとんどないのですよね。もちろん大人社会でも傷害罪は名誉毀損罪などよりもずっと重い刑罰ですし、子どもでも大げさに言えば相手を死に至らしめる可能性がある行為を重く罰するのは当然だと思います。ましてやフランスの件は銃で無抵抗の者を皆殺しにしたわけですから、その行為自体は社会的に非難されて当然であり、法で厳しく罰するべきでしょう。しかし、だからといって報道側は暴力を使っていないから何を言っても許されるのでしょうか。
子どもの場合、手が出やすい子の多くは口が達者ではありません。しかし、それでもいきなり手を出すわけでなく、言い負かされて仕方なく手を出すのです。そこで一方的に非難され謝罪させられると、その理不尽さにいずれまたBや誰かに対して暴力を振るうでしょう。しかも、もし手を出す前の口論の段階で教師が見つけたとしても、おそらく口の立つBの主張にAは勝つことができません。B以上の弁論術がない限り、仕掛けられた時点で既にAが勝つ術はなく、八方塞がりなのです。Aがそこに気づいたら、次はもっと酷いことが起きかねないでしょう。逆に、手を出していないBについても、自身の過ちをしっかり見つめさせないと、「手を出したほうが負け」という論理は「言い負かせば勝ち」という間違った理解になり、頭が回る分より執拗に「口撃」するようになってしまいます。「圧力に屈しない」と意固地になっていたどこかの新聞社の元社長や元記者が思い出されますが(笑)客観的に見て自分のほうに非があるとしても、自己弁護、責任転嫁、論理のすり替えなど、達者な口をフルに活用させ、自らこそが被害者で正義と思い上がり、最終的には保護してくれている対象にまで歯向かうようになってしまいます。暴力を悪とする以上、実はAの方が弱者であるという気づき、そしてBの価値観の修正作業を疎かにすると、もう学級崩壊まっしぐらなのです。
言論と暴力をそれぞれペンと剣に例えてみましょう。剣と剣を交え強いものが生き残るという大乱の時代は終わりを迎え、「ペンは剣より強し」と言われるように、今やペンこそが最強の武器という様相を呈しています。しかし、この時代にペンを持たざるものは、一体何を持って戦えばよいのでしょうか。「同じようにペンで戦えばいい」と言うのは正論ですが、ではフランスに住んでいるイスラム民族は、大新聞と張り合えるだけのメディア力を持っているのでしょうか。現にこの新聞社もいきなり今回の事件ではなく、過去にイスラム側から苦情や抗議を受けた段階があったわけですが、相手の言い分に耳を貸さずさらに挑発記事を始めるなど、明らかに舐めてかかっていたわけです。ここで例えばその新聞社を名誉毀損で訴えるなど、世論を味方につけて戦える選択肢があったなら、剣でもってペンを折りに行くようなテロリズムなどには走らなかったのではないでしょうか。ペン同士の戦いも、結局の所は平等ではなく、剣と同じく強くないと相手を諌められないのです。
繰り返しますが、テロリズムは悪です。しかし、相手が心の拠り所としているものを茶化すような風刺画を書き続けていた新聞社側を正義とするのもまた間違っていると思います。日本を含め世界中で起きた「言論に対する暴力」と言うものは、発端に少なからずペン側のインクの出すぎのような部分があることは間違いないでしょう。一度世に出してしまった言葉は簡単には消せない世の中ですし、どこかで歯止めをかけるような自浄作用をとることはできなかったのでしょうかね。世の中、表現の自由を名誉毀損の自由だと勘違いしている人が多すぎる気がします。
言葉のいじめや世論攻撃で自殺する人もいるわけですし、ペンも使い方を誤ると凶器になってしまうことを忘れてはいけませんね。