katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイとお母さんの相席教室

2018-06-22 21:43:19 | モザイク教室
今日はキウイとお母さんの相席教室。って、お母さんは休憩・・・って感じの、お遊び教室。それがこれ。デイ・サービスやら高洲での体験用の下地。
それをやって見たい・・・って事で、お母さんバージョンになると、これが本人曰く、高級タイルで縁取り・・・って。

確かにガラスタイルのこんなのは値段も高いし、何と無く雰囲気も高級なクラブとかに使いそうな感じでもあったりするのね。その高級タイルの縁取りは自宅でやったらしく、今日は中身。それで何が良いだろうか?って相談されたんで、高級なんでしょ?・・・って確認。

要するに自分の言葉通りに進めば良いのね。後はどれだけ高級になれば良いのか?のさじ加減なのね。つまり有り得ないのがぺきぺきの提案だったりする・・・それは明らかに可愛いとか、幼い・・・って方向にあるからなのね。となると、どんなのがお母さんに取っての高級なのか?探りになる。

例えば安全を重視すると、中身は白のガラスタイルのクラッシュでどうだろうか?それなら邪魔はしないし、縁取りがメインな感じに協調される。それを縁取りなんかにゃ負けねぇぜっ・・・ってやるのなら、もっと目立つのを・・・になるでしょ?ただ目立てば良いだけなら、赤でも良いよね?・・・

違うのね。つまり高級なのね・・・高級で目立つ・・・こうやって探して行くものなのね。まっ、犯人捜しの為のモンタージュなんてのとほぼ一緒。
ヒントをきちんと整理する。これを怠ると単に色合わせ。安い作品へ走って行くのね。そんな感じで探すとこんな色のガラスタイルになったのね。

つまりお母さんの探していた高級で目立つとは?シックな感じであって、更に言えばトッピングとは言えない位、大き目な梅干し的なものが主張する・・
ある意味、縁取りは序曲みたいで、更なる迫力ある・・・そんなタイルを入れたのね。こうなると、良いとか悪いとかじゃなくて、お母さんが良いか?

どうか?であって、いつもの大作では冒険出来ない事をガンガンやるべきなのね。それが仮に失敗に繋がったとしてもね。要するに大作は失敗したくない・・・ってスタイルになりがちだけれども、遊びの作品はあくまで遊び・・・いかにチャレンジ出来るかなのね。

そしてそれが上手くなった人の楽しさなのね。ちょっとふざけて見たりしてね・・・人のやる事は大抵は一緒であって、大作が突っ込み的なフォーマルな仕上がりを目指すなら、小物はカジュアルでボケをかまさないと・・・ってこんなのがバランスだったり・・・するのね。

きっと好き放題やった感じあったと思うのね。これがキウイとなると、生徒のエース・・・こんな人が作る遊び・・・カジュアルだの、ボケって事になると、


って感じで見ると、ほぼきちんとフォーマルで、、ボケてる感じがしないでしょ?・・・でも、本人曰く、そんなに時間を掛けずに、そんなにこだわらず・・・って言ってこれ・・・しかも、それが結果として2人の娘に素敵ぃぃと言われても、それじゃ以前の作品とどっちが良い?って聞けば、昔の

テーブルの方を欲しがるのね。何もかも大作と変わらない感じがするのにね・・・勿論好みは人それぞれあったとしても、子供でも目の肥えた場合、きちんと素晴らしい方を選べる訳で・・・いずれにせよ、キウイにとって気分的にはお母さんの温度計作りと何ら変わらない・・・そんな話。

それを踏まえて、先日のかぐやとのやり取りの中で出て来た、最高の提案と最低限のクリアー的な表現の本当の意味の違いが明らかになるのね。そもそもお母さんとキウイの作品、どっちが時間が掛かっていると思うかな?まっ、聞くまでも無いのね。そうキウイなのね。

では制限時間を2時間って決めてやったらどうなるかな?・・・まず2人共作れないだろうね。つまり上手い人って言うのは、切る張るって技術がある前提で、その上時間を掛けるから上手く見えるんであって、初心者に2時間の提案・・・何が出来ると思う?

しかも、ここが間違いやすい所で2時間じゃないのね。そこまで使われたら、目地をする時間は無いのね。つまり1時間程度で張り終わるような提案をするって意味なのね。それを最高の提案って・・・何年やってんだかっ・・・こいつは馬鹿かっ・・・って話。

そしてそうなる理由も今の話の前のキウイとお母さんの話も関係していて、出来る人、上手い人はついつい出来る事、上手い事を忘れて、加減をしないのね・・・この位出来るだろう・・・みたいにね。その自覚が無ければ無い程、やらかしてしまうのね。

そもそも料理番組を例にすれば、下ごしらえやら煮込んだり、チンする時間をはしょるのは何故?それは動きも無いし、もっと言えばそこに時間が掛かるからなのね。だとすると、目地って仕上げ行為だったり、もしボンドだらけだったりしたら?・・・その時間は何時間掛かるのかな?

勿論、目地だけして、後はカッターでこうして家で落として下さい・・・って言えば良いのかな?俺は無理だわっ・・・そんなの。仕上げを観ずに後は任せておしまい・・・って。何か責任無いなぁ・・・って気がするんだけれどね。だからきちんと仕上げをして渡したいのね。

そう言う事を知っているかぐやが最高の提案って・・・じゃ聞くが、1万、10万、100万・・って積まれた教室があって、2時間しかないって状況だったとしたら?・・・馬鹿だよなぁ・・・お金じゃないんだよっ、時間を増やすんだろうがっ。それなのに時間が指定されていたら、お金が増えても、

結局仕上げを良く見せる為にやるのは、作る事じゃなくて、あらかじめ仕込んで置く手間のお金になるだけなのね。もはや作る教室じゃなくて、結果の見栄えを良くするだけの事なのね。つまり何とか自分で作った・・・って雰囲気を残す為に目指すのは、最低限の見栄えをキープするには?になる。

まぁ趣旨が何たるか?だね。・・・俺はそこまで出来たらね、追加の仕方だったり、余白に何かを飾るのはどうかな?とか、最低限の事は出来ているから、何もしなくても飾れるけれど、もっと・・・って人は、どうぞ・・・ってそんな提案なんだけれどね。

つまり1時間程度で張り終わる初心者への提案・・・しかもタイルを選ぶ時間も含んでね・・・何分張れるのかな?・・・いずれにせよ、こうして上手くなった人達の気楽な作品は余裕もあって、時間もそこそこ掛けるから、良く見えるのね・・・でも、上手い事が前提なんだけれどね。

そんな中、色々と電話だったりメールがあったんだけれど、kameyaさんの支度しなくちゃ…。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さくら教室とノアの依頼作品

2018-06-22 00:43:35 | モザイク教室
今日は午後からさくら教室。さてそれまでどうしようかな?・・・って中、資金も出来た事だし、そろそろノアの依頼作品を進めようかな・・・と、大型コピー屋さんに行くと、1時から・・・って。それじゃ、さくらの送迎の時に出直しだなっ・・・って事で、またアトリエに逆戻り。

そんなこんなで・・・こうなったのね。


ここまで来ると、後は木を切ればスタートとなる。そうね、そしてさくらはって言うと、後少しじゃん。いよいよ完成近しって感じなのね。まぁ、とてもシュールな事やってんのね・・・。判る人には判るんだけれどね・・・・。そうね、言い方を変えると、判る人って誰なんだろう?・・・・。

例えば、アイドル、アーチスト、運動選手・・・何でも良いんだけれど、何か人よりも秀でている場合、この人達に罵声を浴びせる人は一体誰なんだろうか?それは何も目指していない人か、目指した事のあるコーチや監督・・・こんな所かな。ではこの違いは何か?となったら、目指していない人は、結局

技術もテレビの中で見ただけで、単なる誰かの受け売り。誰もが考えない是正だったり、それだけの視点を持っているのなら、きっとスカウトに来るだろうね。きっと。それが目指した事があって、評価に値すれば、お金を積まれてその技術を買って頂ける。全く違う目線の評価になる。

これで判る人ってどんな人?って質問には答えたと思うのね。では、当然ここで習った人なら、何が、何処が・・・みたいな説明は受けるだろうし、やった事があったりすれば、その労力の凄さが簡単に理解は出来るだろう。ってここまでは、大して難しい話では無いのね。問題はここから。

でぱ、さくらは一体何の何処に当てはまるのだろうか?って話ね。ここで習っているし、弟子だし、この作品だし・・・ある程度、人に評価を受けると思うのね。しかし、しかしなのね・・・これを良く勘違いする人がいて、自分が評価をする人がいるのね・・・。

勿論、初期の頃はそれが最高なのね。自画自賛万歳なのね。だって技術なんてほぼどうでも良いのね。だって謙虚な姿勢なら、出来なくても普通なのに、出来たのなら良かったじゃん・・・だし、もっと言えば、結構良い出来かも・・・と思えたのなら、それこそ楽しいでしょ?ねっ。

これが年数が経つとね当然進歩や進化が欲しくなる。当然だよね、それが人の欲。所が美の欲って何点?ほら、スポーツとは違うのよ。判りづらいものなのね。ただね、評価は人が決めるんだ・・・って思えると、一体どの人の・・・って思うじゃない?そりゃ単純に自分より上手い人かな?・・・って。ね。

じゃ、上手くなればなるほどいなくなるって事になるよね・・・・あははははは。笑うわっ。じゃ誰が評価するんだろうか?って事になるでしょ?そこで自分を見失っちゃったりするのね・・・面倒な話だわっ。でもね、自分が決めるって人が何も変わらずに行ったら、本当に自分の評価出来る?あはははは。

結局どっちも壁にぶつかったりすると思うのね。じゃ良く聞く、自分の事は判らないけれど、人の事は判る・・・なんてさ。じゃ人を評価すると良いのね・・・もしその目利きが正しかったら、その人の技術や上手さを見抜く事が出来る。そしたら、その人に自分の評価を聞くと良い・・・。

そもそも自分が決めた、信じた人の評価を信じられないような心持ちで、何の何処を評価するのかな?・・・それが例え自分でもね。まぁ、面倒な話なのね・・・ただ、そこまで来るって事はね、そこそこ評価を持っている人なのね。ただ、自分に厳しいとか?プレッシャーに弱いとか、そんな理由。

例えば、自分に厳しい・・・なんて表現なら、いくら評価されても自分が良いと思わなければ、何の意味も無い・・・あはははは。こんな人は、結果として点は入ったけれど、そこじゃない所に決めようと思ったのに、結果オーライなんて・・・って思うようなストイックな感じでしょ?

それか、その目利きが無い人の場合、やってもやっても、人の方が上手くて、自分が上手いとは思えない・・・って自己評価の低い人だったり、これがプレッシャーに弱いなんて場合は、凄いね、上手いね・・・と人生褒められた事の少ない人は、そんなはずは無い・・・とか、お世辞だきっととか

・・・はたまた、たまたま今回は・・・なんて評価だったって言う事にして、評価を余り上げないようにしたり、謙虚さが度を越して、私なんかまだまだ・・・なんて言ったりして。おいおい、謙虚が美徳って・・・。笑うわっ。それが謙虚って・・・。

上手いとか凄いって言われるようになったら、本当の謙虚って、有難うございます、またそう思われるように努めます・・・なんてのが正しいんじゃないのかな?じゃないと、私なんてまだまだ・・・なんて言うと、もし5番だとしたら、5番がまだまだなら、6番以下は努力が足んない事になるよね?

もっと下を守れないかな?・・・これが4位以上を目指します・・・なら前向きだし、けれどね、これは順位って数字があるから判りやすいだけで、日常ってそんな事は無いのね。しかも、本当にお世辞とか体裁でモノを言う人も多いのも事実。だからそんな事になっちゃったりするのね。

で、これがもっともっと凄い事になっちゃうと病な感じになるのね・・・つまり信じた人が一転評価が変わったりして、勿論信じた人が悪いと言ってしまえば、その通りだけれど、大きく影響されるような人だった場合、裏切りにも近い状況になったりもして・・・。

こうなると、信じる者は救われるのか?触らぬモノにタタリなしなのか?って話で、どっちだ?・・・って事になる。けれど、信じちゃった側に強く行けば、当然親亀こけたらみなこけた・・・になる。こんな不器用な奴はこっちがダメならこっち・・・みたいに移行が難しいのね。

しかも、じゃ信じない・・・って反対側に行けば、自分をしっかり持たないと、誰かが前にいるスタイルじゃないから、開拓者。おやまぁ、開拓するのに、手持ちの道具は何持ってんのかな?・・・ってな話。いずれにせよ、さくらの迷いはこんな事の繰り返しなのね。

何でもそうだけれど、全てに置いて繋がるのは、継続した実績はそれこそが真実。上手いとか凄いとかは、人の評価かも知れないが、続いている時間は何も嘘が無い。それすらも受け入れられないのなら、もはや死しか残っていないだろうが・・・ただなぁ、神なら生きろなんだよなぁ・・・。

良く、霞食って生きろ・・・なんてセリフを聞いた事があるが、大した人では無い人が使う場合、大抵は吐き捨てるように言うので、死ねって言う表現なんだろうなぁ・・・って思うのね。つまり、霞は食べ物じゃないから、お腹はいっぱいにはならない・・・つまり生きられないから死ね。

けれど、これが神様が言うと、食べ物じゃないものを食べてでも生きろ・・・になり、同じセリフでも言う人1つで全然意味の違う事になる。って事は、神様にはなれないにしても、人に信じられる側の方に行くのなら、生きる側の指導をしたいものだな・・・と考えたりする。

それを昔は、仙人にはなれないが、999人にはなれるかもなっ・・・なんて言ってたっけ・・・。お後がよろしいようで。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする