今日は午後からとんかつのモザイクの方って事で、午前中は、さいたまのコープみらい分のメンダコの下地のペンキ塗り。
そんなこんなでお教室は、随分と果てしない細かさに気持ちが慣れて来た
のね。この気って言うものが整うのなら、技術指導がやっと出来るって感じなのね。例えば、ノリとかフィーリング的なスタートを切ったとすると、安易な気持ちで手を出した場合、勝手に完成の
制作時間を思い込んでいたりして・・・そうなると、安易に思えば思うほど、簡単に心は折れる。これが労作展のように折れてもやらなきゃ・・・って宿題ってハードルがあれば、立て直しも可能
なんだけれど、何と無く・・・とか趣味とか、根拠の無い頑張りますとか、こんな場合、折れたまま終わる事になったりする。所が経験値のある場合、この方の場合は、フェルメールね。
そんな大作を乗り切った経験がある・・・ただあれはぺきぺきであって、今は1cmタイル・・・算数が出来たけれど、数学は?って感じで、難易度はまた大きく変わるのね。この時に大抵の場合、
気って言う、気持ちの部分で、1つの事をやり遂げた自信なんてもんが付く。とても良い事なんだけれど、当然良い事には悪い事も付いて来るもので・・・当初はこんなの出来るかな?って謙虚な
気持ちだったものが、やり遂げた自信で、フェルメールより小さいし、何かころもって同じパーツを繰り返すだけ・・・とか、何らかの思い込みがあったとすると、その自信が裏目に出るのね。
この仕組みが、俗に言う初心に帰るなのね。つまり1cmタイルは初めてなんだから、またフェルメールのように結果が出ると良いな・・・であって、その気持が謙虚に繋がる。つまり初心。
この気持ちさえあれば、あぁフェルメールもこんな感じだったなぁ・・・ってあの時を思い出すはず。こうなれば、果てしなさなんて大した事は無いし、やっていれば、その分は進む。進めば、
いつか、あっ結構進んだかも・・・って気持ちまで来ると、病は気から・・・その気が立て治れば、身に付いた腕は、嘘はつかない・・・って当たり前のシステムみたいなもん。
まぁ何しろ技術指導なんて目に見える事は、教えられなきゃヘッポコ先生なだけで、技術が無いだけなのね。このその人の気の立て直し・・・つまり目に見えない事も技術なのね。外科だけが
先生じゃ無いって事。心療内科も先生なのね。こんな当たり前の事なんだけれど、みんなも知っているはずなのね。作詞が出来るからって作曲が出来るとは限らないし、歌が上手いからって楽曲が
作れるもんでは無い。ってね。当然そこに進級すれば難しくなる・・・って付いて来るし。後は信じるものが救われるのか、触らぬ神に祟りなしなのか?日本語って難しいのね。肯定と否定。
どちらを選ぶか?は自分の問題なのね。いつも常に。って気持ちの問題が解決すれば、今度は目に見える簡単な話。例えば俺の蛸の椅子ね。
見るからに一つ一つのタイルが大きい。ここからクラッシュってランダムな形を切る場合、例えば5cmあったとしたら、ジャイアンからスネ夫まで、かなりいろいろな形や大きさに切れる。
つまりこの方の場合、ぺきぺきって大きなタイルで、それをやって成功をした。俺の蛸はそのタイルより固いって話ね。つまり進級している。そこに立体技術が加わり、複雑怪奇な張り方になる。
ではとんかつは?って言うと、1cmタイル。つまり切った瞬間、ミリになる。この時に全てが決まってしまうのね。結論から言うと、1cmでジャイアンとスネ夫を切り分ける事が出来る?
ここが技術。その時に物の考え方って言うものが必要になるのね。そもそもドットアートって切らずに並べるスタイルがある。あの場合は、切らない事が出来るのは壁画のような大きさだから。
そしてプログラミングされた図面の通りに、同じ大きさのタイルを色を間違えないように並べる。これが仕組みだとしたら、本物と同じ位の大きさで、プログラミングも無し。
つまり切らなきゃ出来ないし、考えないと作れない。ただウチの生徒さんで、タイル切るんですか?って人はいないから、切る事に何の問題も無いのね。ただ時より気の立て直しは必要だけど。
そして大きく違うのは、そのままの大きさを色だけ間違えないように・・・って単純な制作と、どの色にする?って言うだけで無く、切るのだから大きさにも変化が付けられるのね。
それを単につぶつぶにするだけ・・・なら、単なるドットアートに寄ってしまうのね。そしたら、キチンと並んでいるものと、比較したら当然規格の大きさを並べた方が綺麗に見える。
つまり同じ事で比較されては不利なんだから、いかにそれとは違う事を手に入れないと。だから、切らないのなら、切る。では切るって何?適当に決まりが無いのなら、それは割る。切るは必然。
つまり切る時は必然にしないとならない。こうしたルールが理解出来ると、まず1cmタイルを切るとなった時に、まずどう切る?なのね。その時に、大抵の間違いは、ひとまず切る・・・ここ。
ひとまずって何?ここなのね。ひとまず切ってしまってはミリになってしまうのね。その時にその人はどんな人?ここなのね。切る事に困らない人・・・つまり切る事が上手くなった証拠なのね。
だってひるまないのだから。けれど良い事と悪い事は背中合わせ。悪い事はひるまず切れる。だから考えない・・・だからひとまず・・・って切る。違うのね、切れるのだから目的意識。
何をどう切る?ここをピアノが弾けるようになって、ひとまず鳴らす・・・違うのね。タッチって意識で、優しくとか、力強くとか、弾き方を変えるのなら、何をどう切る?意識が大事。
それがジャイアンからスネ夫なのね。でもスネ夫は取り敢えず切ると、半分ぽく羊羹みたいになり、じゃ4mmと6mmに切ったとすると、それをまた意識無く切ると、何か4分の1に見えない?
無意識にスネ夫を量産してしまうのね。だから意識を持ってジャイアンを切る。つまり1cmで1枚しか取れないとか、2枚しか取れないとかを意識を持って切らないと、無意識に小さくしてしまう
のね。それが出来るようになったら、最低の小ささがスネ夫なの?みたいに、もっと大きさに変化が付くと、そこに色合いを乗せれば、より繊細になる・・・そんな仕組みだと思うのね。モザイク
ってもんはね。ただ切れない人にこの指導要らないでしょ?まずは切る練習だから・・・ひとまず切れれば良いのね。それがひとまずに慣れたら、キチンと狙う。狙って切れるようになったら、
意識をする。こんな段階があると思うのね。まっ当然その先もあるけれどね。いずれにせよ、今何処を作っているか?って判って来たようだから、意識は前進しているのね。
そんな後は、蛸の椅子。目以外半身が大体終わった感じになって来たのね。
そんなこんなでお教室は、随分と果てしない細かさに気持ちが慣れて来た
のね。この気って言うものが整うのなら、技術指導がやっと出来るって感じなのね。例えば、ノリとかフィーリング的なスタートを切ったとすると、安易な気持ちで手を出した場合、勝手に完成の
制作時間を思い込んでいたりして・・・そうなると、安易に思えば思うほど、簡単に心は折れる。これが労作展のように折れてもやらなきゃ・・・って宿題ってハードルがあれば、立て直しも可能
なんだけれど、何と無く・・・とか趣味とか、根拠の無い頑張りますとか、こんな場合、折れたまま終わる事になったりする。所が経験値のある場合、この方の場合は、フェルメールね。
そんな大作を乗り切った経験がある・・・ただあれはぺきぺきであって、今は1cmタイル・・・算数が出来たけれど、数学は?って感じで、難易度はまた大きく変わるのね。この時に大抵の場合、
気って言う、気持ちの部分で、1つの事をやり遂げた自信なんてもんが付く。とても良い事なんだけれど、当然良い事には悪い事も付いて来るもので・・・当初はこんなの出来るかな?って謙虚な
気持ちだったものが、やり遂げた自信で、フェルメールより小さいし、何かころもって同じパーツを繰り返すだけ・・・とか、何らかの思い込みがあったとすると、その自信が裏目に出るのね。
この仕組みが、俗に言う初心に帰るなのね。つまり1cmタイルは初めてなんだから、またフェルメールのように結果が出ると良いな・・・であって、その気持が謙虚に繋がる。つまり初心。
この気持ちさえあれば、あぁフェルメールもこんな感じだったなぁ・・・ってあの時を思い出すはず。こうなれば、果てしなさなんて大した事は無いし、やっていれば、その分は進む。進めば、
いつか、あっ結構進んだかも・・・って気持ちまで来ると、病は気から・・・その気が立て治れば、身に付いた腕は、嘘はつかない・・・って当たり前のシステムみたいなもん。
まぁ何しろ技術指導なんて目に見える事は、教えられなきゃヘッポコ先生なだけで、技術が無いだけなのね。このその人の気の立て直し・・・つまり目に見えない事も技術なのね。外科だけが
先生じゃ無いって事。心療内科も先生なのね。こんな当たり前の事なんだけれど、みんなも知っているはずなのね。作詞が出来るからって作曲が出来るとは限らないし、歌が上手いからって楽曲が
作れるもんでは無い。ってね。当然そこに進級すれば難しくなる・・・って付いて来るし。後は信じるものが救われるのか、触らぬ神に祟りなしなのか?日本語って難しいのね。肯定と否定。
どちらを選ぶか?は自分の問題なのね。いつも常に。って気持ちの問題が解決すれば、今度は目に見える簡単な話。例えば俺の蛸の椅子ね。
見るからに一つ一つのタイルが大きい。ここからクラッシュってランダムな形を切る場合、例えば5cmあったとしたら、ジャイアンからスネ夫まで、かなりいろいろな形や大きさに切れる。
つまりこの方の場合、ぺきぺきって大きなタイルで、それをやって成功をした。俺の蛸はそのタイルより固いって話ね。つまり進級している。そこに立体技術が加わり、複雑怪奇な張り方になる。
ではとんかつは?って言うと、1cmタイル。つまり切った瞬間、ミリになる。この時に全てが決まってしまうのね。結論から言うと、1cmでジャイアンとスネ夫を切り分ける事が出来る?
ここが技術。その時に物の考え方って言うものが必要になるのね。そもそもドットアートって切らずに並べるスタイルがある。あの場合は、切らない事が出来るのは壁画のような大きさだから。
そしてプログラミングされた図面の通りに、同じ大きさのタイルを色を間違えないように並べる。これが仕組みだとしたら、本物と同じ位の大きさで、プログラミングも無し。
つまり切らなきゃ出来ないし、考えないと作れない。ただウチの生徒さんで、タイル切るんですか?って人はいないから、切る事に何の問題も無いのね。ただ時より気の立て直しは必要だけど。
そして大きく違うのは、そのままの大きさを色だけ間違えないように・・・って単純な制作と、どの色にする?って言うだけで無く、切るのだから大きさにも変化が付けられるのね。
それを単につぶつぶにするだけ・・・なら、単なるドットアートに寄ってしまうのね。そしたら、キチンと並んでいるものと、比較したら当然規格の大きさを並べた方が綺麗に見える。
つまり同じ事で比較されては不利なんだから、いかにそれとは違う事を手に入れないと。だから、切らないのなら、切る。では切るって何?適当に決まりが無いのなら、それは割る。切るは必然。
つまり切る時は必然にしないとならない。こうしたルールが理解出来ると、まず1cmタイルを切るとなった時に、まずどう切る?なのね。その時に、大抵の間違いは、ひとまず切る・・・ここ。
ひとまずって何?ここなのね。ひとまず切ってしまってはミリになってしまうのね。その時にその人はどんな人?ここなのね。切る事に困らない人・・・つまり切る事が上手くなった証拠なのね。
だってひるまないのだから。けれど良い事と悪い事は背中合わせ。悪い事はひるまず切れる。だから考えない・・・だからひとまず・・・って切る。違うのね、切れるのだから目的意識。
何をどう切る?ここをピアノが弾けるようになって、ひとまず鳴らす・・・違うのね。タッチって意識で、優しくとか、力強くとか、弾き方を変えるのなら、何をどう切る?意識が大事。
それがジャイアンからスネ夫なのね。でもスネ夫は取り敢えず切ると、半分ぽく羊羹みたいになり、じゃ4mmと6mmに切ったとすると、それをまた意識無く切ると、何か4分の1に見えない?
無意識にスネ夫を量産してしまうのね。だから意識を持ってジャイアンを切る。つまり1cmで1枚しか取れないとか、2枚しか取れないとかを意識を持って切らないと、無意識に小さくしてしまう
のね。それが出来るようになったら、最低の小ささがスネ夫なの?みたいに、もっと大きさに変化が付くと、そこに色合いを乗せれば、より繊細になる・・・そんな仕組みだと思うのね。モザイク
ってもんはね。ただ切れない人にこの指導要らないでしょ?まずは切る練習だから・・・ひとまず切れれば良いのね。それがひとまずに慣れたら、キチンと狙う。狙って切れるようになったら、
意識をする。こんな段階があると思うのね。まっ当然その先もあるけれどね。いずれにせよ、今何処を作っているか?って判って来たようだから、意識は前進しているのね。
そんな後は、蛸の椅子。目以外半身が大体終わった感じになって来たのね。