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【きょうの人】 0215 ■ 聖宝(理源大師)生誕 醍醐寺の開祖 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力 ■ 武田豊 ■一遍上人降誕会
本日、ゆかりの人をご紹介します。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。
■ 聖宝(理源大師)生誕 醍醐寺の開祖
しょうぼう
天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日)
平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。
俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。
三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。
役行者(役小角)の遺風を慕って、その最高に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。
『古今和歌集』に歌一首があります。
聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。
善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。
信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。
そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。
鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。
建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。
弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。
■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力
り こうしょう
1823年2月15日(道光3年1月5日)- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)
中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。
日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。
清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。
李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。
日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。
大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。
この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。
波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。
■ 武田豊
たけだ ゆたか
1914年1月6日-2004年2月15日
日本を代表する実業家の一人で、新日本製鐵代表取締役会長、経済団体連合会副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した、宮城県高清水町の出身です。
新日鉄社長時代に、急激な円高と鉄鋼不況に見舞われました。それに対応するため、1万9000人の人員削減と設備集約を柱とする、思い切った合理化を実施しました。
日本の鉄鋼産業が、価格重視の後発国に淘汰されずに残った契機ともいえます。
産業界での活動だけではなく、全国交通安全協会会長、日本野球連盟(社会人野球)会長などの要職を兼任して社会貢献もしています。
女性職業財団理事として女性の職場進出を推進したり、あしなが育英会会長としても活躍されました。
また、大脳生理学研究者としても知られ、著書に「自己開発法」があります。
■ 一遍上人降誕会
鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。
延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府氏に生まれました。道後温泉の近くです。
各地を行脚し、信濃国で踊り念仏を始め、民衆を極楽浄土へと導きました。踊り念仏は尊敬していた空也上人に倣ったものといわれています。
正応2年(1289年)2月15日、享年51歳で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没しました
【Wikipedia】 一遍(いっぺん)
鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。
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