(21日朝の自宅前、極楽寺山の雪 ↑ )
10日夜、母が「あぶない、今夜かもしれない。」と連絡があり、
そのあと、「持ち直した。」と再度連絡がありました。
11日、長崎へ立ち、施設のホームを訪れると、元気そうに見えたものの、
「時間の問題です。」と、医者の通告を受け、
ホームでも「看取り介護」に入ることになりました。
13日からは寒波で、広島で数年ぶりの大雪でした。長崎も寒い日が続きました。
母も車椅子に座ったりも出来、元気そうでいながらも、段々弱ってはいきました。
15日、スタッフの方が勤務外に小さいお子さん4人を連れてきて、
お子さんたちは母と和やかに過ごしてくれました。普段から交流があるようです。
16日、「あぶないかなあ」と思いながらもいったん広島へ戻ることにしました。
たぶんにとんぼ返りになるかもしれないと、覚悟の上でありましたが。
17日夜、「呼吸が荒くなった、あぶない。」と連絡を受け、電車もありませんから
今度は車で広島から長崎へ向かう準備をしているうちに
「呼吸が止まった。息を引き取った。」と、再度の連絡を受けました。
18日、お通夜。19日、告別式。
この3月で95歳になるところでした。
戦争が終わったときは現在北朝鮮の鉄原というところにいました。
着の身着のままソウルへ逃れ、それから釜山へたどり着き、
何日も貨物列車の中ですごした後、引き上げ船へ乗ることが出来たそうです。
23歳頃だったでしょうか。
以来、戦後の生活が苦労の連続だったのは、子ども達4人も充分承知のことであります。
それでも、母を好いてくれる多くの心ある人たちの支えで、
その、天然な率直さと人好きと、おじょうさんっぽい育ちの素質を失わずに来ました。
晩年は孫やひ孫を可愛がりつつ、慕われもして、その素質を発揮したようです。
最終の生活舞台であったホームのスタッフの方達も本当によくしてくれました。、
母の天然な素質を充分に引き出してくれ、仕事以上の好意もたくさん寄せてくれました。
感謝この上ないことです。
葬儀は、そういった好意ある人たちのしめやかにも賑わいのある集まりとなって、
私達家族は「ああ、母はこんなにもみんなに好かれていたのか。」と感激したのでした。
20日、道々時折りの雪やみぞれを突き抜けて夕方広島へ戻ってきました。
そして夜は雪が激しく降っていたようでありました。
しばらくは、また、長崎との往復が続くことになるようです。
(合掌)