内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモンドンの主題による一変奏曲 ― ジルベール・シモンドンを読む(104)

2016-06-22 05:36:22 | 哲学

 昨日の続きで、知覚と行動との関係について。以下の引用箇所が16日から読み始めた段落の最後の部分である。まずざっと訳してみよう。

La relation qui existe entre les perceptions et l’action ne peut être pensée selon les notions de genre et d’espèce. Perception et action pures sont les termes extrêmes d’une série transductive orientée de la perception vers l’action : les perceptions sont des découvertes partielles de significations, individuant un domaine limité par rapport au sujet ; l’action unifie et individue les dimensions perceptives et leur contenu en trouvant une dimension nouvelle, celle de l’action : l’action est, en effet, ce parcours qui est une dimension, une manière d’organiser ; les chemins ne préexistent pas à l’action : ils sont l’individuation même qui fait apparaître une unité structurale et fonctionnelle dans cette pluralité conflictuelle (211-212).

 諸知覚と行動との間の関係は、類と種という概念にしたがって考えることはできない。純粋な知覚と純粋な行動とは、知覚から行動へと方向づけられた一連の転導的連鎖の両極限項である。諸知覚は、それぞれ様々な意味の部分的な発見であり、その発見が主体に対して限定されたある領野を個体化する。行動は、新しい次元を発見することによって、知覚の諸次元とそれらの内容を統一しかつ個体化する。この次元こそ、行動の次元である。行動は、実際、この統一と個体化の実行であり、それが一つの次元をなし、一つの組織の仕方なのである。歩まれるべき様々の道は、行動に先立って存在しはしない。それらの道は、個体化そのものなのであり、この個体化が葛藤を孕んだ複数の知覚の間に構造的・機能的統一性を現出させる。
 上の段落の主題を私なりに「変奏」すると、以下のようになる。
 いかなる観点・射程にも限定されない身体なき純粋知覚も一切の所与の条件から自由な完全に自発的な純粋行動も極限概念として想定しうるだけで、現実には存在しない。現実の存在はすべて知覚から行動への移行過程にあり、行動は、問題として与えられた知覚世界において、行動そのものを通じて行動の主体を個体化し、自己展開の次元を確立・拡張していくことで、行動の世界を知覚世界の問いかけに対する一つの応えとして個体化していく。行動は、その過程の中で、その都度与えられた知覚世界の葛藤を孕んだ所与に一定の原理にしたがって統一性を与えていくが、この原理は、予め確立されているのではなく、行動を通じてその行動が展開される次元の広がりに応じて徐々に「転導的に」確立されてゆき、適用範囲が拡張されていく。このように行動が展開されていく過程、それが「道」である。