昨日三日は、久しぶりのことだったが、日中丸々心身ともに休息させることができた。体の「ネジ」を全部緩めて、ぼんやりと過ごした。
夜は、同僚二人と大学近くのレストランで会食。様々な話題について会話が弾み、楽しかった。しかし、先の審査の結果が話題になったときは、人事というデリケートな問題ということもあり、結果が出た後のことについてその場で初めて知らされた特定の個人に関する事実もいくつかあって、心中複雑であった。自分の判断は正しかったのか、再度考えながらの帰り道であった。
私自身、最初のポストを得るまでの道のりは、平坦であったとはとても言いがたく、その途上で失ったものも少なくない。しかし、その間、不透明なあるいは不当と思われる審査結果に腹を立てたり、その過程で誰か特定の個人に対して恨みを持つような経緯は一切なかったことは、今にして思えば幸いなことであった。自分にとって否定的な結果が出るたびに、もちろん落ち込みはしたけれど、冷静に考えれば、そのときどきの諸条件からして順当な結果だったと納得せざるをえなかった。その気持ちに今も変わりはない。
最初のポストを得て後、審査する側に立つようになり、ましてやこれから自分の同僚となる新人のポストの審査委員長であった今回の審査過程では、自分が審査される側だった時のことが何度も思い出された。候補者の中からたった一人しか選ばれない以上、誰かにとって良き結果は、必然的に他の誰彼にとっては悪しき結果にならざるを得ないことを改めてひしひしと感じさせられた。
誰もが納得できる公平な審査が事実行われたのであれば、少なくとも審査する側としては恥じることも後悔することもないであろう。たとえ審査された側は全員が同じようにその結果を受け入れることができないとしても。
しかし、様々な理由から微妙な結果にならざるをえないことも少ないとは言えない。そして、その結果によって人生が大きく左右されてしまう人たちが必ずいる。それらの人たちの人生に対して何らの責任を負うこともなく、それを左右できる立場に立つということが組織に属することによって可能になる。しかし、そのような立場に実際立つ人がそれに相応しい人だとは限らない。私自身、自分がそのような立場に立てる器でもなく、能力的にも不十分なことは、要請されて引き受けた時点からわかってはいたことだが、その時から今までの経緯を振り返りながら、今またそれを痛感している。