ILFIの読解をぼちぼちと再開する。
今日から第二部 « L’individuation des êtres vivants » 第二章 « Individuation et information » を読んでいく。
生物レベルでの具体的な現象を挙げながら議論を進めていく方針は前章と変わりないが、一般的に既得の使用概念が批判的に問題にされる箇所では、とにかく繰り返しが多い。すでに議論された問題を、よく言えば、倦むことなく、悪く言えば、飽き飽きするほど、取り上げ直すのが同書でのシモンドンのスタイルである。
しかし、その繰り返しの中に、それ以前には出て来なかった主張や概念の使用の仕方がひょいと登場することがあるから、油断がならない。だから、「またかよ」といささかうんざりしつつも、そのような箇所にもそれ相当の注意を払って読む必要がある。
今日読むのは、第二章第一節 « Information et individuation vitale » 第一項 « Individuation et régimes d’information » の第一段落である。
その冒頭でシモンドンは一つの問いを立てる。だが、それは深められた問いというよりも形式的な問いになると断る。なぜなら、その問いに答えるためには、習慣的に使用されている諸概念の改鋳が必要だからである、と言う。
その問とは、「群体的な出芽は、ある一つの個体が常軌を超えた度合いで成長したということに尽きるのか、あるいは、まったく反対に、互いに繋がっているとはいえ、区別され得る複数の個体を発生させたのか」(191)という問いである。この問いを一言に約めるならば、「個体とは何か」となる。
この問に対して、シモンドンは次のように答える。
厳密には、「個体」(« individu » )について語ることはできず、語りうるのは「個体化」(« individation »)だけである。一つの個体があるかどうかということを知るための諸基準を発見するためには、すでに出来上がった個体を把握しようとする替わりに、それをもたらした活動や生成にまで遡らなければならない。
個体は、一個の存在ではなく、一つの作用である。その存在が個体であるのは、個体化作用の作因としてであって、この個体化作用によってその個体はそれとして顕現し、実在する 。
L’individu n’est pas un être mais un acte, et l’être est individu comme agent de cet acte d’individuation par lequel il se manifeste et existe (ibid.).