内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

テキストの地層学と精神史的アプローチ(2)

2016-06-30 08:41:46 | 哲学

 昨日の続きで、発表原稿の第二章を掲載する。この章は、近代以降の『源氏物語』研究史についての概観とヴィラモーヴィッツ=メレンドスルフの古典文献学の方法を支える基本的態度についての簡略な説明を含んだ脚注がいくつかつけれられており、その長さは本文のそれを上回るが、それらは一切省略する。それらの脚注で言及された文献名だけ挙げておく。新編日本古典文学全集『源氏物語 ①』,小学館,1994年,「解説」;大野晋『源氏物語』,岩波現代文庫,2008年;Ulrich von Wilamowitz-Moellendorff, Qu’est-ce qu’une tragédie attique ? Introduction à la tragédie grecque, Les Belles Lettres, 2001。

2 ― テキストの生成過程の内在的解析 ―『源氏物語』テキスト群の非連続性を理由を問う

 論文「『源氏物語』について」は、近代における源氏物語研究に成立論というまったく新しい研究分野を切り拓いた画期的な論文です。成立論とは、作品を構成しているテキスト群の成立の順序を見出し、それにしたがって作品全体の構造を生成の相の下に組み直すことを試る研究分野です。
 所与としてのテキスト自体からその生成の端緒を見出し、全体の生成をそこからの展開としてみる、いわば生成の相の下にすべてを見るという探求姿勢にその試みは支えられています。作品を生成の相の下に見るということは、その作品を一つの理念あるいは価値から演繹的に理解しようとするのではなく、作品生成過程そのものの中に価値形成過程を見て取ろうとする試みでもあります。
 私たちがここで特に注目したいのは、しかし、同論文の源氏物語研究における画期性やその主張の妥当性についての今日の学術的成果からする批判的吟味ではありません。私たちがここでこの論文から抽出したいのは、和辻が源氏物語に対して適用したテキストの文献学的解析方法そのものです。
 その方法は、一言で言えば、一つの作品を構成しているテキスト群間に見られる非連続性から、異なった系統のテキスト群を読み分ける、いわばテキストの地層学的解析です。それは、現実に与えられているものとしての文芸作品そのものから出発し、その作品を構成しているテキスト群間に見られる不整合性・非連続性をテキストの重層的な成立過程として合理的に説明する試みです。この解析方法によって、作品の外部から予断的な観点を導入することなく、作品を最終的に完成された一つの全体として見るのではなく、その中に見られる不整合・断層・亀裂などを手掛かりに、作品の生成過程を重層的に把握することに和辻は成功しています。
 この解析方法は、ヴィラモーヴィッツの古典文献学の方法を見事に応用したものです。この方法を実践することで、和辻は、ヴィラモーヴィッツが激烈な仕方で批判したニーチェ『悲劇の誕生』の呪縛から己を解放したと言うこともできるでしょう。つまり、作品がそこで生まれた歴史的現実を無視し、作品の外部から恣意的かつ時代錯誤的にある漠然とした美学的価値概念を導入し、その概念に作品を奉仕させるという非学問的・空想的態度をそれとして批判することができる学問的方法を日本の文芸作品に適用することに和辻は成功しているということです。
 このテキストの地層学的分析は、その適用が文芸作品にのみ限定される特殊な分析方法にとどまるものではありません。テキストとして与えられた現実そのものから、そこで問われている問いとそれに対して現実の中で出されている、あるいは出されようとしている答えとを、合理的に概念レベルで抽出するための方法として、より一般化した形で汎用可能な方法であると思われます。