個体が生きる空間が新しく形成し直され、そこに既存の諸要素が組み込まれるとき、それら諸要素は、互いに他を排除しようとする相互排他的関係にはなく、互いに他に対してある点では還元しがたい差異を有し、ある場面では対立しつつ、ある関係性にうちに統合されて一つの全体を形成する。その典型例を「網膜歪覚」(« disparation »)に見るシモンドンは、この例に見られる関係性に類比的なすべての関係性を « disparation » と呼ぶ。このように一般化された意味でのこの語をどう訳すか、良い案がまだ見つからないが、仮に「協働差異」という造語をその訳語として充てておく。
昨日の記事は、段落の最初の一頁ほどをまとめたことになるのだが、今日はその続きで、そこでは、同段落の第二論点として、個体によって生きられている空間に行動がもたらす変化とその意味が論じられている。
以下は、シモンドンのテキストの該当箇所のかなり自由な翻案である。
行動は、すでに出来上がった個体による個体のための個体の行動ではない。行動そのものが個体化過程である。行動なしに個体は個体に成っていくことができない。その行動とは、協働差異的関係にある諸要素の統合化、というよりもむしろ、諸要素を協働差異的関係において統合化することである。
行動は、個体の環境を形成する既存の諸要素の単なる配置変更ではない。行動は、個体がそこに生きる空間における主体と客体との分節のされ方そのものに変化をもたらす。行動は、新しい次元を発見し、それまで共存不可能であった諸要素にその次元においてその不可能性を乗り越えさせ、協働差異としてそれらを統合する。
行動による協働差異化以前と以後との違いを、行動がそこにおいて働く世界の側から見れば、その異なった世界の「景色」を次のように記述し分けることができる。
行動以前の世界は、単に相対立する要素が単に互いを排除しようする状態を呈しているのではない。行動以前の世界は、まだ己に自身に一致していないという意味で、まだ自己同一性を確立できていない。その状態は、両眼の二つの網膜上の異なった視像が共同して一つの奥行きのある視覚像を形成できていない状態に擬えることができる。見ることの成立がこのような奥行ある視覚像の成立と同時的であると言っていいのであれば、世界は、行動とともに己自身に対してその姿を現すと言うことができるだろう。