内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

文学的虚像の非神話化としてのノンフィクションの力 ― 梯久美子『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』

2018-08-21 23:59:59 | 読游摘録

 先日来拙ブログで何度かその作品を取り上げている梯久美子の今や代表作と言えるのが『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社、2016年)である。
 この評伝の主人公である島尾ミホのイメージは、戦後純文学の名作として『死の棘』の評価が高まり、純粋稀有な夫婦愛を描いた作品として定着していくにつれて、狂女から聖女へと変容していく。夫の浮気ゆえに狂気に陥った哀れな妻から無垢で激しい愛ゆえに狂気に至った女性へと昇華されていく。
 このような読み方を強固に根づかせるのに与って力があったのが吉本隆明と奥野健男である。彼らは島尾夫妻を直接知っていたにもかかわらず、両者の関係をいわば古代神話に準えて神話化する。以後の評論家たちは多かれ少なかれこの解釈図式の影響下にあった。そして、このような読み方を一般読者にも広く浸透させる役割を果たしたのが山本健吉による文庫版『死の棘』の解説である。
 この神話化された夫婦像を膨大な資料の精査と犀利な作品分析とそれらに基づいた慎重な推論とによって徐々にだが非常に説得力のある仕方で著者は解体していく。この作品は、しかし、隠されていた事実を暴露し、虚像を解体し、非神話化することそのことをその最終目的とはしていない。虚像でしかない純化された夫婦愛を非神話化する評伝を書くことによって、島尾ミホという一人の女性によって生きられたその若き日から死に至るまでの真実を見事に描き出している。