今日の記事のタイトルをご覧になって奇妙に思われた方も少なくないであろう。「行間を読む」という言い方はあっても、「行間を書く」とは普通言わないからである。
英語にもフランス語にもそれぞれ « read between the lines »、 « lire entre les lignes » という慣用表現があり、日本語の「行間を読む」と同様、書かれたことから書かれていないことを読み取るという意味で使われる。
視覚的には、文字列からなる行しか書けない。行間そのものを書くことはもちろんできない。「行間を書く」というこの奇妙な表現によって、私はおよそ次のようなことを言おうとしている。
行間は、文章を書くことによってはじめてそれとして生まれる。行間は、それだけで存在することも生成することもできない。しかし、それは文章も同じだ。行間のない文章というものは存在しえない。行間とは、文章において文字が書かれていない単なる空白部分のことではない。
シモンドンの個体化の哲学のテーゼの一つを応用して言えば、存在の諸項とそれらの間の関係は同時生成的であり、関係にも存在身分を与えるべきであるように、文字列とそれらの間の空間は同時生成的であり、行間にも文字列と同等か或いはそれ以上の存在身分を与えるべきだ、ということになる。
行間こそ、文章の生成の源は書かれた文章そのものにはないことを示している。すぐれた文章とは、その行間の見えない〈奥行〉と〈広がり〉とが豊かな文章のことだ。そのような文章は、顕在的な視覚的文面からその行間の見えない深層への探索へと私たちを誘わずにはおかない。
「行間を書く」とは、文章を書くことによって思考空間の見えない〈奥行〉と〈広がり〉とを掘削・拡張し、その空間に可塑的な構造を与えることにほかならない。