「近代日本の歴史と社会」の第一回目の「哲学」の授業があった日の夕方、教室で最前列に座って熱心にノートを取っていた学年で最優秀の学生から質問のメールが届いた。
その質問は、昨日の記事で話題にしたヴァレリーの講演の次の一節に関してであった。
On vous dit quelques fois : Ceci est un fait. Inclinez-vous devant le fait. C’est dire : Croyez. Croyez, car l’homme ici n’est pas intervenu, et ce sont les choses mêmes qui parlent. C’est un fait. »
フランス語の croire (信じる)は、ラテン語の credere に由来し、「~に信を置く」という意味あるのに対して、connaître (知る)は、ラテン語の cognoscere に由来し、「~をそれとして(他のものから区別して)認める」という意味であり、その認識は、何らかの証拠あるいは経験に基づく。
ヴァレリーが、「『それは事実だ』と人があなたに言うときに言わんとしているのは、『その事実の前に拝跪せよ』、つまり『信じろ』と言っているに等しい」と言うとき、この〈信〉と〈知〉の決定的な違いを前提として言っているのか、というのが第一の質問。これは、まさにその通り。
第二の質問は、Jean Pouillon (1916‐2002)という民俗学者の Le cru et le su (Seuil, 1993) という本の中の一文 « seul l’incroyant croit que le croyant croit. » を引きつつ(ただ、その学生は、この一文を Philippe Descola に帰している)、「論証されたこと、経験によって事実と確定されたことを人は信じることできるか」という質問。これは信と知の関係、信仰と理性(知性)の関係の核心に触れる鋭い質問だ。実際、両者をいかに和解させるかが、中世キリスト教神学の根本問題の一つであり、アンセルムスの「知解を求める信仰 Fides quaerens intellectum」は、それに対する最初の定式化であった。
日常生活における、「信じる」と「知る」とは、例えば、「彼の無事を信じている」と言うとき、私たちはまだ彼が無事かどうか知らないが、無事が確認されれば、つまり、無事を知ると、無事を信ずる必要はもはやなくなる、という関係にある。自明の事柄についても、「信じる」は使えない。例えば、「太陽は東から上ると私は信じている」という使い方はしない。
この信と知の関係が、信仰問題になると、容易ならざる逆説を引き起こす。それが上掲の Pouillon の一文に凝縮されている。上記の信と知の区別に従うと、神の存在を自明のこととして生きている、つまり神を知っている信者は、神の存在を信じているのではない、という帰結が導かれる。非信者だけが、信仰がどういうことか知らないから、「信者は信じている」と信じるほかないのだ。
信と知・信仰と理性・信と非信という哲学・神学・歴史に関わる根本問題について改めて真剣に考えるきっかけを作ってくれた学生に感謝する。